Ⅲ 中篇(下)
円形闘技場は満席になり、試合開始を待つばかりとなっていた。
「そんなわけで、母上は馬車の中で死闘をやった時と、それから焔の胞で身を包んだ時に内蔵と気管を損傷しており、僅かな風邪でも命取りになりかねないお身体だ。母上のお蔭でバルトロメウス兄上は誘拐されずに済んだのだが、母上がそうなったのは何も出来なかった自分のせいだと、兄上は自責する気持ちが強いのだ」
競技に出る前のブラシウスに附いて行って選手控室で「今日の試合、頑張れよ」とブラシウスを激励したが、ブラシウスは淡々と、いつものように箒の手入れをしていた。
「馬車が襲撃を受けた際、御者だけでなく乳母も犠牲になって死んでいる。乳母についてはもう一人の母のように懐いていたせいか愛惜の念がとりわけ深く、今でも兄上は乳母の墓に花を捧げに行っているんだ」
ブラシウスは俺にそんなことを教えてくれて、「そこで、バルトロメウス兄上とアルフォンシーナ嬢の縁組を想い付いたベルナルディ氏の思惑を推察するに」と語り出した。
「死んだ乳母のこともあり、兄上は魔女に対する責任感が強い。そんな兄上のことだ。棄子という不憫な事情があればこそ、アルフォンシーナ嬢のことをいちど懐に入れると決めたなら、全力で彼女を護るに違いないと想ったんじゃないかな。邪推だけど」
ジュヌビエーブさんへの態度からも、それは容易に想像できた。嫉妬心を刺激された俺は文句をつけた。
「シーナは男の保護など必要としないよ」
「だよな」
膝においた箒の柄や枝に撥水ワックスをかけながら、ブラシウスも賛同してきた。
「テオの姉弟子はか弱いという感じではないからな。だけど、ベルナルディ氏には悪いが、兄上とアルフォンシーナを引き逢わせたくない」
俺もワックスの塗布を手伝った。水中で使うからきちんと準備しておかないといけないのだ。
「悪漢に襲われて殺されかけて、人間の領域の山小屋でぽつんと暮らしている寄る辺のない若い魔女なんて、バルトロメウス兄上でなくともぐっとくる要素だらけだからな。最初は興味のないふりをしていたとしても、あの兄上が気にならないわけがないんだ。力になろうという気持ちになってしまうだろう」
シェラ・マドレ卿も似たようなことを云っていた。長年同居してきた俺からすれば、シーナには過剰に身の上を案じられるような、そんな頼りなさは全くないのだが、他所の男の眼には相当危なっかしいものとして映るらしい。
「独りでも留守番できるわ。わたしは大丈夫よ、テオ」
シーナはぜんぜん大丈夫じゃなかった。それは認めなければ。
呪いの手紙をばら撒いた真犯人もまだ分からない。バルトロメウスがもし師匠と同じような騎士道精神あふれる気質を内に秘めているのなら、それはもう。これでもし実物のアルフォンシーナに逢ったら、さらにもう。
ブラシウスと同じく俺も今さらのように焦り出していた。二人を逢わせてはいけない。
「だからさ、テオも応援してくれよ」
そんな俺の気持ちもしらず、ブラシウスが云い出した。
「俺がアルフォンシーナ嬢と結婚したら、全てがまるく収まるじゃないか」
「話がまるで分からないぞブラシウス」
箒を乾拭きしていた俺はブラシウスに向かって布を投げつけた。あははははと明るく笑って片手で布を受け止めると、ブラシウスは選手控室から出て行ってしまった。
着席を促す太鼓の音が円形闘技場に轟いている。貴族の友だちが取ってくれた特等席に戻るとすぐに開幕を告げる喇叭が吹き鳴らされた。観客が空を見上げて指を差し、一斉に歓声を上げた。
「ヘタイラだ」
荘厳な音楽が鳴り渡る。耀く雲間から魔女が一列になって花綱を持ち、並んで降りてくるところだった。
「アスパシア」「ディオティマが来たぞ」
すごい人気だ。花綱を片手にかけて、片手で箒を操りながら、袖なしの白い衣裳をつけた美しい魔女たちはきれいに並んで闘技場に舞い降りてきた。美と知性の女神ヘタイラ。本来ならあの中にルクレツィアさんもいたのだ。ルクレツィアさんはベルナルディが必死になって探しているがまだ見つからない。せめて無事だと一言でも便りがあるといいのだが。
闘技場に花びらがまき散らされた。花の雨の中、花冠をつけて静かに地上に降り立ったヘタイラたちは、箒から降りて祭壇に向かった。
「戦いの神に」
美しいヘタイラたちは燃え盛る聖火台の周囲に立ち、手に持っていた花綱を捧げ持つと、焔の中に花綱を投じた。きらきらした銀色が聖火台から噴き上がる。それが競技開始の合図だった。
喇叭が鳴り響いた。
「第一回戦。金組と白組」
誰がこんな野蛮な競技を考えたのかは知らないが、間近に観るそれは、俺が箒競技の雑誌の写真から想像していたのと全く違った。
ヘタイラが退場すると同時に眼下の闘技場に幕が立ち上がった。見る見るうちに水が溜まって、透明の膜の中に湖のような巨大な水槽が出現した。荒波を立てている。その水中に歓呼に応えながら登場してきた金組と白組の魔法使いたちが箒を片手に、一人ずつ飛び込んでいく。試合開始と同時に、水面が激しく跳ね始めた。水中格闘箒競技の一つ、『オケアヌスの槍』だ。
特筆すべきはこの競技では箒は空中をほとんど飛ばないということだ。その代わりに水流の中を翔けるのだ。
強い音を立てて、俺の眼の前の水幕に選手と選手が絡まり合いながらぶつかってきた。互いに口から泡を出している。金組の選手が白組選手の横腹を蹴り、蹴られた白組の選手は、蹴った金組の選手をいるかのように追いかけて背中に蹴りを喰らわしていた。そのまま二人はもつれ合ったまま箒ごと水流に飛ばされて反対側に流れ去った。想っていたよりも、ずっと野蛮だ。
水槽の両端には水面から顔を出した岩と、岩の頂上に刺さった槍がそれぞれ聳え立っている。『丘』と呼ばれるこの敵陣の岩場に近づき、敵の槍を奪った方が勝ちだ。人間が邑祭りで行う棒たおし競技に少し似ている。『丘』は階段状の観客席の中ほどくらいの高さにあって、その頂きに立つ槍は俺の席からは下から見上げるかっこうだ。
激しい水流が渦巻く水槽。特定の位置からでないと水面に出てはいけないという決まりがあり、丘の真下だけ水の色が違う。さらには箒に乗った選手が空中に躍り出ても、高さはオケアヌスの槍よりも低く、飛べる範囲については、『丘』をめぐる一定域しか飛んではいけないという規則だ。
ばちゃばちゃと水面が弾けて、敵陣の丘の近くに男が頭を出した。丘の防衛役の男がその上に乗っかり、二人とも水中に沈んでしまった。死人が出るんじゃないかと想うほど激しい。これに本当にブラシウスが出るのか。
ずっと後に、俺もやってみたのだが、傍目には怖ろしいことになっていても意外と水の中では水流に押されて殴られても打撃力はないし、水圧と箒が邪魔になって自由に殴る蹴るが出来るわけではなかった。 試合後に身体を見ると防具ごしに痣は多少出来てはいるものの、闘っている最中は痛みも感じない。むしろ水の流れに逆らったり押し流されたりしながら箒で泳いで丘に近づく方が体力を大幅に消耗して、大変だった。
円形闘技場がどよめいた。
「ブラシウス」
「『冠』ブラシウスだ」
金組と白組の第一回戦が金組の勝利に終わり、第二回戦になった。今度は銀組と黒組の対戦だ。防具に身を固めたブラシウスは観客の歓声に応えて手を振り、箒に乗って水中に飛び込んだ。ブラシウスは銀組だ。競技が始まった。
「ブラシウス、がんばれ」
「ブラシウス」
俺は隣りにいる巻き毛の優等生パキケファロ・デュ・ルッジェーロと声を合わせてブラシウスのいる銀組を応援した。
無理するなよブラシウス。
『流星群』の冠を取ったとはいえ、ブラシウスのその栄誉には但し書きがついていた。優勝候補と二番手が自滅したことで転がり込んできた幸運な勝利だったからだ。特例枠での初疾走で優勝なのだから何ら羞じることはないのだが、ブラシウスがそれを羞じていた。
こんな時にライダーが考えることは同じだ。実力を認めさせたいのだ。
『冠』がまぐれでなければいい。誰にも文句を云わせない。
だからといってこの競技はどうなんだろう。まだ身体を作っている途上の十代には不利じゃないか。大人とは体格差がある。特に敵陣の丘を護っている黒組の防衛役は大男揃いだ。
「こんな競技に、ブラシウスはなんで出ようとしたんだろう」
「水泳が得意だからだろう」
見れば、ブラシウスは無駄な格闘は避けて、水に乗ることだけを考えているようだった。水流を突風と同じと捉えているのか、箒に乗ったまま水の中で敵を避けて巧みに泳いでいる。その姿勢がきれいだ。
「一流の教師が子どもの頃からついているからな。習ったからといって向き不向きがあるが、ブラシウスには才能があったんだ」
「ブラシウスが出た!」
水の色が違う。ブラシウスの箒が水を滴らせて舞い上がった。もう一人の攻撃役と共に丘を駈け上がり黒組の槍に手を伸ばす。しかし黒組の防人に弾かれて水に叩き落とされてしまった。
「警戒されているぞ」
円形闘技場が潮のように引き、そして再度沸いた。水に落とされたはずのブラシウスは反対側に回っていた。最初からの作戦だったのだ。飛沫を散らして丘の反対側からもう一度飛び上がったブラシウスは追って来る防衛役を箒を旋回させてかわすと、一息のうちに丘の頂きを目指し、オケアヌスの槍に手をかけた。その前に鐘が鳴っていた。
もう片方の丘で銀組の槍が一瞬だけ早く、黒組に取られてしまっていたのだ。ブラシウスの銀組は負けた。
その後、金組と黒組の決勝戦もみたが、こちらも激戦で、観ているほうが疲れた。敗けたとはいえ健闘したブラシウスには会場から大きな拍手が送られていた。
大満足の初観戦だった。
「あ、テオいたいた」
「久しぶりテオ」
師匠に連れられて魔都に行った時から、俺には顔見知りになった貴族の魔法使いが大勢いる。その若い魔法使いたちが競技が終わって円形闘技場から帰ろうとしていた俺の許に階段を降りて走り寄ってきた。
「テオ、君は正式にホーエンツォレアン家の養子になったんだよな」
「そうだよ」
「それなら来てくれ子爵。君を探している者がいる」
なんだろう。連れて行かれるままに円形闘技場の出口通路に行ってみると、一人の少年が遠巻きにされていた。闘技場の会場口は上階にあって、ほとんどの魔法使いが箒や空中馬車で空から帰るのだ。
「あの少年なんだ、テオ」
家路を辿る魔法使いの人混みから頭を出して、俺は彼らの教える方を見てみた。少年は壁際に立っている。見たこともない少年だ。
少年は十歳ほどだった。服装は質素でもきれいな顔立ちをしており、眼を惹いた。
「ホーエンツォレアン家の方はいませんか」
その年齢にしてはずいぶんと落ち着いた態度としっかりした声で、闘技場から出て行こうとする魔法使いたちに少年は通路の片隅から呼び掛けていた。後で知ったが医者の家の子だった。
「ホーエンツォレアン家の方はいませんか」
魔法使いたちが俺を見た。名乗り出るべきだろうか。
俺の代わりに友だちが代わりに訊いてくれた。少年に近寄り、身をかがめて少年と視線の高さを合わせて、彼らは訊ねた。
「どうしたんだい。迷子かな。君のご両親は何処」
「ホーエンツォレアンさまを探しています」少年は応えた。
「何処から来たの」
「遠くから来ました。魔都には着いたばかりです。貴族の方々が集まる円形闘技場に来れば、ホーエンツォレアンさまにお逢い出来るのではないかと想いました」
「遠くからとは何処」
「北方です。人間界の」
「俺だけど」
そこで、俺は進み出た。
「ホーエンツォレアンだけど」
少年は俺の姿を一瞥した。少年の顔には明らかな失望の色が浮かんだ。軽く首を振って、「あなたじゃない」と少年は云った。
「どういうこと。彼は本当にホーエンツォレアン家の人だよ」
「探しているのは成人の方です。当代当主の名を、ベルナルディさまと」
「それは俺の兄だよ」
友だちと顔を見合わせて、俺は重ねて名乗り出た。
「ベルナルディは俺の義兄だ。最近そうなったんだけど」
「子爵家に用があるのかい。いったい何の用」
「ご本人にしかお伝え出来ません」
「まさか君、その箒で北方から飛んできたの」
意志の強そうな眸をした印象的な少年だった。少年の口調や態度からは、並々ならぬ覚悟と決意をもって郷里を出てきたことをうかがわせた。あり合わせの木で作った粗末な家事用の箒を持っていて、それに乗って人間界から旅をしてきたというのだ。只事ではないことはよく分かった。
譲らない口調で少年は云い募った。
「ベルナルディ・フォン・ホーエンツォレアンさまに直接お伝えしなければならないことがあるのです」
「どうするテオ」
「とりあえず、ベルナルディの許に連れて行くよ」と俺は云った。
》後篇(上)




