Ⅰ 前篇
野原に寝転がり、もうじき十六歳になる魔法使いにふさわしい、取るに足らない妄想に耽りながら雲の流れる青空を眺めていたら襲われた。
空から飛んできた矢のようなものは箒だった。地上に触れた箒の尾が草花を蹴散らして半円を描く。緊急着陸の勢いを殺した箒は、きれいに弧を描いて停止した。箒に乗っているのは若い魔女だ。
「シーナ」
「テオ」
俺の姉弟子のアルフォンシーナだ。何かあったのかと問いかける俺に向けられたのは、アルフォンシーナの冷やかな軽蔑の視線だった。すけべ変態。何故かその眼はそう云っていた。男のくず、死んでしまえ。
おかしいな、俺の妄想が伝わったわけじゃあるまいし。
若い娘の中でも、とりわけ俺の姉弟子のアルフォンシーナには冗談がまるで通じない。男たちの罪のないひやかしが耳に入るだけでも、汚らわしいとばかりにその魔法杖からは怒りの焔が噴き出すのだ。
「盗んだものを返して、テオ」
「え。何か持ってたかな」
「とぼけないで」
アルフォンシーナのことを俺はシーナと呼んでいる。裾をさばいて姉弟子のシーナが箒から降りてくる。乗馬用ペティコートと生の足首がちらりと見えた。
シーナ。俺のアルフォンシーナ。
夜ごとの夢に出てくるのは君のことばかりだと、シーナに伝えることが出来たらどれほどいいだろう。その手でそんなに全身をまさぐらないで欲しい。痛い痛い、耳を引っ張られるのはかなり痛い。
「わたしの箪笥から何か盗ったわね。それが肌着だったら絞めて殺すわよ」
「シーナの下着なんか盗らないよ」
「遠くにわたしの一部がはぐれている気配があって気になって水晶珠に訊いてみたら、テオの姿が見えたのよ」
姉弟子の手が俺の喉を締めている。すっかり痴漢扱いだ。心が痛い。シーナの眼がマジだ。嫌われてるのかな、俺。
「テオ」
眼を白黒させている俺の顔に顔を近づけてアルフォンシーナは凄んだ。普段はおしとやかだが、あれは俺たちの師匠の前でだけ見せる特別製なのだ。可愛い顔が怖かった。
「街の広場にいるあなたの背中が、水晶珠にはっきりと映ったのよ」
シーナのあかい唇は朝露に濡れる木の実のようだ。
雲の影を落とす野原にぶんぶんと羽虫が飛んでいる。ぶんぶんと音を立てて、独楽のように素早く紡錘が回転する。昨日もりんごの木の下ではいつものようにシーナが糸車を回していた。小型の糸車を庭に出して、シーナは丸椅子に座ってくるくると糸を紡ぐのだ。
テオ。
昨日シーナが俺を呼び留めた。夕暮れの光に包まれたシーナの髪や顔の輪郭がかがやいて美しい。
明日はマキシムが会合から帰ってくるわ。そして、わたしたちが三人で暮らし始めた記念日よ。明晩はご馳走にしましょう。裏の納屋から封蝋のついた葡萄酒をひと瓶持ってきて、味見をしてみて。
りんごの白い花が春の風に揺れている。黄昏の空に昇るのは半透明の新月だ。女の爪のように儚い月は空からひらりと零れ落ち、りんごの白い花びらと混ざり合って、氷飴のように今にも大地に消えてしまいそうだった。
なにを見ているの。
横顔に見惚れていたら、シーナの麻の前掛けに葡萄酒を零してしまった。布に葡萄酒の滲みが広がる。
「俺が洗ってくる」
汚れた前掛けをシーナからあずかると小川に持って行って、せせらぎの中に漬けた。雪解け水に両手がすっかり冷え切ってしまうまで濯いでも、前掛けについた葡萄酒の滲みは模様のように残ってしまった。
「そういえば」
想い出したようにシーナは悲鳴をあげた。
「あの前掛け、昨日から行方不明だわ。まさかテオ」
彼女が今どんな想像をしているか分かる。すっかり変態扱いだ。泣ける。だが、ちょっと待てよ。水晶珠には街の広場が映っていたと云ったな。
「獅子の噴水がある街の広場か」
「そうよ。何処に行くのテオ」
「疑いが晴れるまで家に戻らない。師匠が戻って来たら師匠にもそう伝えておいてくれ」
切り株に置いていた箒にまたがるなり、俺は大地を蹴った。
俺は魔法使いだ。アルフォンシーナは魔女。俺とシーナは共に棄子で、師匠のマキシムに拾われ、姉弟のようにして共に育った。
「かっこいいよね、師匠」
師匠といっても俺たちと十歳しか違わないのだが、少年少女の眼にも師匠のマキシムは男前だった。自慢の師匠だ。
路上から拾われた俺は少し大きくなった頃、師匠から新しい名を授けられた。
パラケルスス。
それは本当に人名なのかよ。
その名を聴いた俺は笑ったものだ。師匠のマキシムは笑っている俺の頭に手をおいて微笑んだ。兄貴。心の中では師匠マキシムのことをそう呼んでいる。五歳で拾われてから十年間、俺とシーナを魔法使いに育ててくれた恩人のマキシム。
「棄子。パラケルススは偉大な錬金術師だ。彼にちなんで、彼の本名をお前に与えよう。その名を、テオフラストゥス」
「長いな師匠」
「テオでいいんじゃない?」
真珠色の月が窓の外に昇っていた。俺よりも一年はやく、新しい名をもらった姉弟子のアルフォンシーナ。アルフォンシーナも師匠が名付けた。由来は知らない。
あの子には魔法使いの天分があるわ。きっと両親も魔法使いだったのよ。マキシム、家に連れて帰りましょう。
路上で死にかけていた俺を拾ってくれたのは師匠とシーナだ。俺はまったく覚えていないが、地面に落ちていた麻紐を、紐に触れることなく、いろんな形に結って俺は遊んでいたらしい。
後で知ったがパラケルススというのは十六世紀前半に活躍した実在の錬金術師だった。
箒を飛ばして獅子の広場に急いで戻ると、奴はまだそこにいた。
「ネロロ」
空から大声で呼んで箒で降下する。ネロロはぎょっとした顔をして、いそいで俺から逃げ出した。
「待て、ネロロ」
「なんでお前が来るんだよ。用があるのはアルフォンシーナなのに」
どういう意味だ。
「おいネロロ。お前がシーナのものを何か盗んで持っていることは分かってる。すぐに返せ」
片手で箒を御し、片手で魔法杖をくるくると回して脅してやる。ネロロの逃げ足は速かった。近くの屋台にとび込むと、店の箒を奪って屋台から飛び出してきた。
自前の箒でないと巧く乗りこなせない奴もいるが、ネロロや俺はそうじゃない。特に俺とシーナの師匠のマキシムはエニシダの枝を使った箒だけでなく、どんな箒でも扱えるように厳しく俺たちを仕込んだものだ。
「アルフォンシーナは怪我をしない程度でよいが、お前は箒乗りになっておけ」
なんで。
『箒乗り』とは、ただ箒に乗ることだけを意味しない。飛ばし屋という意味だ。暴れ馬ならぬ暴れ箒から振り落とされて腰をさすっている俺にマキシムは教えた。師匠の返答は明快だった。
「男の武器は多いほうがいい」
お蔭で俺は界隈ではちょっと名の知れた箒乗りなのだ。しかしネロロも負けてはいない。箒競争に必要なのは、恐怖心を忘れることだ。
やるじゃないかネロロ。
俺は口笛を吹いた。ネロロの箒は蜂のようにすっ飛んでいる。逃げ足が速いのはこいつの特技だな。他の魔法についてはまるで駄目なくせに、意外な才能だ。
ネロロを追いかけ、街の屋根を超え、農地に沿った川の上を飛び、黒い森に差し掛かった。鼻柱が風圧で折れるかと想うほどの追跡を続けた果てに、ネロロの箒が急に下がっていった。俺もそうした。それが罠だった。
樹と樹のあいだに張られた網に箒がひっかかり、柄が真下になった。立ち上った箒は俺を乗せたまま熊が背中から崖を転がり落ちるようにして縦回転すると、ばきばきと枝葉にぶち当たりながら森に突っ込んだ。
「アルフォンシーナでは、ないではないか」
襟首を掴まれて茂みから引き出された俺を見て、貴人が顔をしかめた。衝突寸前に防御魔法をかけたので大樹の幹に激突した俺に怪我はないが、箒は二つに折れてしまった。
「こいつは誰だ」
「確か、マキシム門下の若者です。シェラ・マドレさま」
捕まった俺はネロロを探したが、ネロロは既に姿を消していた。
「アルフォンシーナの弟だな」
シェラ・マドレ卿。この地方一帯を治める領主の分家の男で、美男で独身。あまりいい噂を聴かない。
アルフォンシーナに何の用だ。
魔法界と人間界は重なり合っていて、一部を共有している。でも今の俺は、第三の世界に行きたい。今ほどそれを切望したことはない。可愛い妖精が「ご主人さま」と俺の前に膝をついてくれるのなら文句ない。年頃の男が考えることなんてみんな同じだろ。
好みとしては可愛いよりも美人のほうでお願いしたい。願望が反映されるのならば駄目もとで色々と注文をつけたい。俺はつんつんした気位の高い美人が好きなんだ。
つまり、シェラ・マドレ卿と同好の士ってわけだ。愛想なしなアルフォンシーナに卿も心を奪われたんだ。ネロロからきいて後から知ったが、何年も前からシェラ・マドレ卿はシーナに云い寄り、しつこく口説いていたそうだ。
「シェラ・マドレ卿は一度は空中馬車にアルフォンシーナを乗せて、お二人で散策にまで行ってるんだぜ」
そんなことが姉弟子にあったなんて、俺は全く知らなかった。魔女は秘密主義だからな。
頭に血が昇ってきたのは気のせいではなさそうだ。疲れた。そろそろ限界かもしれない。こんな時、物語なら異世界に飛ばされるんだ。いいね、ぜひ行こう。この状態の俺が行かないと他に誰が行くわけ?
はるか下の岩場には崖から落ちたらしき獣の白骨が見えている。異世界に行きてぇ。
俺は谷間の狭隘に逆さまにぶら下げられていた。俺は魔法使いだ。だからこうして空中に逆さ吊りにされていても、ある程度は平気だ。
閑だったから時々、吊るされたなりで吹きっさらしの風に身を預けながら、俺は出来るだけ格好いい自己紹介の仕方なんかを考えていた。初対面の印象は大切だからな。
「はじめまして。俺は魔法使いだ。俺の名はテオフラストゥス。高名な錬金術師パラケルススの本名から取られたもので」
やっぱり駄目だげらげらげら、パラケルススゲラゲラゲラ。
俺の名はテオ。
「マキシムの許にいる魔法使いです」
名乗った途端、シェラ・マドレ卿の指が毒蛇の鎌首みたいに持ち上がったかと想うと、音を立てて俺の両足首に頑丈な蔓が巻き付いていた。そのまま背後に引きずられて崖から飛び出し、転落するかと思いきや、谷間の中央に逆さまにぶら下がって宙に浮いていたのだ。巻き付いた蔦の余った先は俺の足許から空に垂直に伸びている。蔦が何かと繋がっているわけではない。
「悪く想うなよ、テオ」
現れたネロロが崖から箒で飛んで近寄って来ると、逆さまになっている俺に水をくれた。革袋に入った水を呑ませてくれるのはいいが、口端からだらだら零れて眼や鼻の奥に入ってしまう。
「シェラ・マドレさまは領主の分家だ。領主家の人間に逆らったら魔女狩りが始まっちまうよ」
「莫迦野郎」
咳き込みながら俺はネロロに云い返した。なにが魔女狩りだ。シェラ・マドレ卿だって魔法使いじゃないか。
魔女狩り。
それは人間界で大流行した集団狂気だ。魔女の嫌疑がかかると異端審問にかけられて片っ端から火炙りにされた。本物の魔法使いの多くは黒い森や山脈の中に逃げ込んでおり、犠牲者の大半はその辺りにいる鈍くさい農婦農奴だったのも胸を悪くする。無知蒙昧な人間が引き起こした濡れ衣の数々。その中には現代でもまことしとやかに語り伝えられている魔女の悪業なんかもあって閉口だ。俺たちは赤子を煮込んだり、魔物と性交したりなんかしない。
谷を吹き過ぎる風の冷たさに俺は身震いした。魔女狩りでは男も犠牲になるが、最初に糾弾されるのは決まって美しい女なのだ。男の眼を惹く魅力そのものが、悪魔の力だと見做されるからだ。
アルフォンシーナ。
暖炉の灯りが二人の影を夕陽の色で照らしている。或る晩、マキシムは美しく成長したシーナの肩に両手をおいて想い遣り深い声音で云いきかせていた。
それは一人の諍い女の口から始まるのだ。どんな時代にもその者は存在していて、嫉妬深く、退屈を持て余している。不和や悲劇が起こるのを期待して待っている。そんな人間が最初の火をつける。あの女は魔女だよ。そこから魔女狩りのうねりが枯草に火を放つようにして国土全体に広がるのだ。
アルフォンシーナ。
師匠は兄の仕草でシーナを抱き寄せた。
もしそうなったとしても、このマキシムがお前を護り、誰にも渡さないよ。お前が刑に処される時には何処からでも空から駈けつけて、神の雷を撥ね退け、お前を厭わしい苦難から救ってみせよう。
死ね、汚らわしい。
いつものようにアルフォンシーナは吐き捨てることはしなかった。安心しきった小鹿のようにマキシムの胸の中でシーナはおとなしく眼を閉じていた。
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