30 ここに、すべてを託して
「勝った……の?」
ボロボロのイシュティナさんが、ふらつきながら少し離れた所にいたルキアス殿下の元へ駆け寄る。
ルキアス殿下は彼女を抱きとめると、首を横に振った。
「いや、奴は逃げただけだ……」
「そんな……」
彼女は壇上の玉座に座るアミラ皇女を見上げた。
皇女の口元から胸元にかけて、私の血液がべったりと付着している。けれど、その表情はここに来た時と変わらぬ静けさに戻っていた。
――そうだ……私は魔力だけでなく、多量の血液も失っているのだった。
今は辛うじて残った魔力で傷口を塞ぎ、出血を抑えて命を繋いでいるけれど――
私は意識的に右手から視線を逸らす。
四肢を失った者は、それを目にした瞬間、ショックで死に至ることもあるという。
平常心、平常心……。
「……アナ、ちょっと座ってもいいかな。俺も、あの男が消えたら――なんか気が抜けてさ」
ユリウスが珍しく疲れた顔色を見せ、私を抱きかかえたまま、そっと柱の方へと移動する。
彼は柱にもたれかかり、腰を下ろすと私をそっと抱きしめた。
「作戦は――成功、なんだろ?」
「たぶん……ね。思いのほか女神に効きすぎた感はあるけど……これで、次の召喚――第四王子のイアン殿下以降は、精霊魔法に近い聖女や、女神の影響を強く受けていない聖女が召喚されるはず……」
私が言うと、ユリウスはふと目を閉じ、何かを思い描いているようだった。
「何を考えてたの?」
問いかけると、ユリウスは微笑んで、どこか遠くを眺めながら答えた。
「いや……イアンにはどんな聖女が来るのかな、とか。まだ小さいアレクシスも、いつか聖女を召喚する日が来るのかな……って考えたら、なんだか不思議な気がしてさ……」
「順当にいけば――アレクシス殿下が未来の国王陛下よね……アレクシス殿下の聖女か、その子供たちか……あるいは、そのまた子供たちか――」
私も未来を思い描く。ゆっくりと、身体の力が抜けていくのを感じながら。
「きっと、俺たちの遺志を継いでくれる王子と聖女が、きっと居るさ。」
ユリウスは私の髪を撫でながら、優しい声音で囁いた。
その時――わずかな物音が耳に届いた。
気だるく視線を上げると、イシュティナさんがうつ伏せに倒れていて、その隣でルキアス殿下が膝をつき、ゆっくりと彼女の傍らへ崩れ落ちていくところだった。
――ああ……悪い方の予想が当たってしまったわ……
この可能性については、事前にルキアス殿下に告げてあった。
一度、封印の役割を与えられた聖女は、魔力の源に穿たれた穴を残される。
その穴は、接続を断たれた後も魔力をゆるやかに漏出させ続け――やがて、魔力の枯渇に至るかもしれない、と。
契約の儀で互いに魔力を繋げた王子と聖女は、運命を共にする。
たぶん今――イシュティナさんが接続を断たれた時点で残っていた魔力と、ルキアス殿下の魔力は、共に底を突いたのだろう。
それでも――この予測を聞いてもなお、ルキアス殿下は迷わなかった。
己の命を代償にしても、イシュティナさんを取り戻すことを選んだ。
二人が納得して、共に歩み、共に果てるなら――私の罪も、ほんのわずかは軽くなるのだろうか。
二人は手を取り合い、言葉を交わし、唇を重ねた。
最期の口づけ。
先に静かに息を止めたのはイシュティナさんだった。
残されたルキアス殿下が、かすれた慟哭を漏らし――そのまま後を追うように、ゆるやかに動かなくなった。
私とユリウスは、そのすべてを見届けた。
兄夫婦を看取ったユリウスは、唇を噛みしめて嗚咽を殺している。
私の体温も、ゆるやかに、けれど確実に下がっていくのが分かる。
朝に掛けた禁呪が効いているのだろう。全身の魔力回路の損傷、右腕の欠損、失血、魔力不足――その割に、痛みも苦しみも不思議と遠い。
「ユリウス……泣いてもいいのよ。親しい人を見送るのは、つらいでしょう?」
私は落ちかけるまぶたを何とか持ち上げ、残った左腕をゆっくりと伸ばして彼に触れようとする。
――おかしいな……胸より上に上がらない……
ユリウスは、私の意図に気づいたのだろう。
そっと左手を取ると、自らの唇に寄せ、やさしく口づけた。
「嫌だよ……最期に見せるのが泣き顔なんて。俺は、笑顔で見送りたいんだ。」
――最期、か。
ユリウスも分かっているのね……私がもう助からないほど傷を負っていることを――
「じゃあ……その顔を見せて――キス、して」
私がねだると、彼は無理に笑顔を作り、私に優しく口づけを落としてくれる。
そう、私たちも魔力で繋がっている。
もともと私が持っていた魔力の方がはるかに膨大だったが――それも、もうほとんど使い果たしてしまった。
だから彼も、私の命をつなぎとめるほどの治癒魔法は展開できない。
今は、最後に残ったわずかな魔力を灯して、こうして寄り添う時間を過ごしている。
――あ、ほら……もうすぐ底を突く……
右腕の切断面を塞いでいた魔法がほどけ、再び失血が始まる。
――やだな……本当に、もうそろそろおしまいみたい……
急速に感覚が薄れていく中、私は最後の力を振り絞って、彼に微笑んだ。
「――大好きだったよ、ユリウス……私だけの……王子さま……」
途切れそうになる意識を、どうにかつなぎながら伝えた。
もう唇は動かない。
まぶたもかすかに開いてはいるが、何も見えない。
指先から、全身がゆっくりと冷えていく。
「アナ……俺も好きだよ。愛してる……アナ……」
死へ向かう意識の中で、ユリウスの声だけが、ずっと耳の奥に残っていた。
そして、とうとう命を手放す刹那――ふと気がつく。
胎の奥に、残っていたわずかな残滓――
昨夜、ユリウスに注いでもらった魔力が、まだ私を内側から静かに温めている。
たとえ私が全ての魔力を失っても、彼は最後まで一緒にいてくれている。
逝く時も、一人じゃない。そう思うと、心が安らかになった。
――ああ、だから……
ユリウスの慟哭が聞こえる。
私の名を叫び、なけなしの魔力を暴走させ――そんなに、悲しまないで……
私は幸せだったよ。だから――
ユリウスの魔力がはじけるのを感じたのが――、私の最後の記憶だった。




