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叛逆の聖女と契約の王子 ―アナスタシア・ノルヴェールの記録―  作者: じょーもん
後編

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29 深淵を喰らわせる

 深く、深く降りていく。


 セレノア宮で、自らに打ち込まれた糸を遡って潜るのは何度か経験している。だが、こうしてアミラ皇女を媒介に降りるのは、前回に続いて二度目だ。


『黒衣の男はまだ来ていない……』


 ユリウスの思念が、静かに流れ込んできた。

 戦闘に入るまでは、私の身体に触れて外界の様子を伝えてくれるよう、彼に頼んであった。


『支えて。もうすぐアレヴィシアに接触する。』


 私も思念を返す。


 眼前に、またあの白く輝く女神が現れる。

 静謐な美しさは、そのままだ。

 あと一歩近づけば目覚めさせてしまう――その距離で足を止め、ユリウスに問いかけた。


『イシュティナさんは目覚めた?』


『いや、まだだ。』


『目覚めたら教えて。こっちも気づかれるまで、時間の問題だけど――』


 その時だった。

 女神の身体がピクリと蠢く。

 ゆっくりと、目が開いていった。


 通常、エルフの瞳は空のような青か、エメラルドのような緑を湛えている。

 けれども、女神となった彼女の瞳は、白目の部分まで――光のない、底なしの深淵の黒だった。

 どこまでも堕ちていきそうなその闇が、じっと私を見つめている。


 全身に悪寒が走る。

 総毛立つ肌が、皮膚ごと後退ろうと震えている。

 本能が、逃げろ、と警鐘を鳴らす。


 私はそれを、気力でねじ伏せた。

 口から胃の中身――いや、胃そのものが逆流してきそうな吐き気に襲われる。


 なんでこんな化け物と、対峙しようなどと思ったのだろう。


 一瞬、後悔が脳裏をかすめる。

 だがもう――引き下がれない。

 戦うしかない。


『イシュティナが意識を取り戻した! 混乱してるが、とりあえず大丈夫そうだ。

 黒衣の男はまだ現れてない!』


 ユリウスから思念が届く。


『ありがとう。こっちも女神が動き出した。引き続き支援をよろしく。』


 返事をして、私は女神に集中する。

 ユリウスが身体に触れた部分から魔力を送ってくれている。その流れが心強い。

 彼の魔力が、万が一の時の命綱となる。

 もし呑まれてしまっても、彼の魔力を辿れば帰還できる。


 そう心を奮い立たせ、私は女神に手を差し伸べた。


『さあ来るがいい。お前を書き替えてやる。』


 私を見据える女神から、白く細い糸が無数に――スルスルと伸びてくる。

 以前とは比べものにならない。

 私を捕食しようとしているのか。


 ――良いだろう。喰らうがいい。


 私の魔力には、これでもかというほど構文と術式が載せてある。

 最初は取り込んでも気づかない。いつもの()()だと思うだろう。

 だが、それは罠だ。

 私の魔力は女神と同化した瞬間、その構文を彼女に刻み込む。


 思念体の私に、無数の糸が打ち込まれた。

 魔力が吸い上げられていくのが分かる。


 私を気に入ったのか、女神はチマチマと吸い上げるのを面倒がったようで、一気に私を手繰り寄せた。


 眼前に、女神の顔が迫る。


 ここは思念の世界だ。本物と比べ、彼女の顔は巨大に膨れ上がって見えている。


 ピシリ――。

 その顔に亀裂が入った。

 左右に大きく割れた断面には、びっしりと、菌糸のような細い糸が詰まっているのが見えた。


『ゴハン……ゴハン……オイシイゴハン……』


 女神の嬉しそうな声が、頭の中にガンガン響いた。


『おいしい魔力よ。存分に食らいなさい――っ!』


 私は、身体中の、ありったけの魔力を彼女に叩きつけるように流し込んだ。

 バクン、と肉が吸い込まれるような音を立て、女神は顔に開いた割れ目を閉じ、私の魔力を呑み込む。


 間一髪で、私の意識までは呑まれず、逃げおおせた。


 女神は再び目を閉じ、満足そうに玉座へ戻ってゆく――


 と、その時。


『黒衣の男が現れた! ものすごく怒っている。ルキアス、イシュティナ嬢が戦闘に入ったっ!』


 ユリウスの思念が飛び込んでくる。


『こっちも作戦通りよ。もう少しだけ支援して。今戻るか――』


 そこまで言いかけた瞬間、異変が起きた。


 女神が――苦しみ悶えていた。

 身体をよじり、私を恨めし気に睨みつけてくる。


『キサマ……ナニヲシタ……』


 怒気を孕んだ声が、私を一気に怖気づかせる。


 しまった……想定以上に効いてしまったのか?

 それとも、彼女は予想以上に繊細なバランスの上に成り立っていて、私が均衡を崩してしまったのか?


 どのみち、このままでは――まずい。


『アナ、どうした!? 何があった!』


 ユリウスの声が響く。

 だが、返事をする余裕すらない。


 女神の糸が私を絡めとろうと、次々と突き刺さんばかりに追いかけてくる。

 必死で意識を浮上させようともがくが、魔力を失いすぎてうまくいかない。

 それでも逃げ回っていると――女神が突然、魔力を吐き出した。


 私から奪ったものではない。

 未精製の――原初の魔力だ。

 その奔流が、濁流のように私を襲う。


『きゃあぁっっ!』


 意識が、現実に押し戻された。

 だがアミラ皇女を通じて、未精製の魔力が私の身体に逆流してくる。


 全身の魔力回路が、異質な魔力に焼かれていくのが分かった。

 どこもかしこも痛い。

 いや――右腕が、異様に痛い。


 私は現実の世界で目を開けた。


 ユリウスが、必死の形相で私を何かから引き離そうとしている。

 アミラ皇女だ。

 アミラ皇女が、私の右腕に噛みつき、噛みちぎろうと激しく頭を振り乱していた。


 彼女は普通の人間のはずだった。

 けれど、口が裂けるほど大きく開き、まるでワニかサメのように深く噛みついて離さない。


 大量の血しぶきが舞った。


 あ……これ、まずいやつだ。

 動脈、切られてる?


 あまりに現実感がなくて、他人事のように思っていたら――


 怒声が耳に飛び込んできた。


「貴様ら! 女神に何をしたっ! 私の女神を穢しおってっっっ!」


 黒衣の男が、ルキアス殿下とイシュティナさんと戦いながら叫んでいた。


 その瞬間、不意に吹き飛ばされたイシュティナさんが、こちらに突っ込んできた。

 側面からぶつかり、ユリウスが私を引き離そうとしていた腕ごと、私たちは吹き飛ばされた。


 ――あ……右腕が、ちぎれた。


 宙に舞いながら、見たことのないほどの大量の血液が飛び散るのが、妙にゆっくりと目に映る。

 アミラ皇女が、私の腕を噛み砕いていた。


「あ、がっ……」


 床に叩きつけられ、無様な声が漏れる。


 私は魔力も血液も、失いすぎていた。

 身体は動かないのに、脳細胞だけが異常に冴えて働いている。


「アナっ!」


 床に転がったユリウスが、即座に飛び起き、私へと駆け寄る。

 イシュティナさんも立ち上がり、黒衣の男に反撃しようとした――が、

 黒衣の男がイシュティナさんの背中を踏みつけ、至近距離から風魔法を叩き込んだ。

 身を切り刻む鋭い風が、彼女を容赦なく斬り裂いていく。


 と、その時だった。


 音にはならない。

 けれども、それが女神の苦悩の叫びだと、はっきり分かる。

 膨大な魔力波が、神殿全体を揺るがした。


「ぐはっ――」


 黒衣の男が胸を押さえ、血を吐き出す。


 そうか――この男、女神とつながっているんだ。


 妙に冴えた頭が、瞬時に答えを導き出した。

 考えるより先に、口が叫んでいた。


「イシュティナさんっ! そこに落ちてる私の腕が接続してます! 魔力を叩き込んでください!

 それで、女神も男も動揺します!」


 返事を待たず、イシュティナさんは男の足下から転がり出た。

 そしてアミラ皇女が投げ捨てた、私の右腕を拾い上げる。


「よーし、喰らいなあっ!」


 イシュティナさんが、私の右手の術環から魔力を叩き込んだ。

 一拍置いて、再び強烈な魔力波が空間を揺さぶる。


「くそぅ……お前らぁ!」


 血を吐きつつ立ち上がる黒衣の男――その背後から、ルキアス殿下が飛び込む。

 鋭く閃いた剣が、彼を肩から袈裟に斬り裂いた。

 私を抱きとめていたユリウスも、右手を突き出し、氷の刃を次々と飛ばす。

 鋭い氷槍が、黒衣の男の身体に何本も突き刺さった。


「くそっ、くそっ、この私が……!

 ――ここは一旦、女神のもとへ戻らねば……!」


 男は自らの身体を、赤く揺らめく魔力で包み込むと――瞬間移動の術式で、霧のように消え失せた。




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