29 深淵を喰らわせる
深く、深く降りていく。
セレノア宮で、自らに打ち込まれた糸を遡って潜るのは何度か経験している。だが、こうしてアミラ皇女を媒介に降りるのは、前回に続いて二度目だ。
『黒衣の男はまだ来ていない……』
ユリウスの思念が、静かに流れ込んできた。
戦闘に入るまでは、私の身体に触れて外界の様子を伝えてくれるよう、彼に頼んであった。
『支えて。もうすぐアレヴィシアに接触する。』
私も思念を返す。
眼前に、またあの白く輝く女神が現れる。
静謐な美しさは、そのままだ。
あと一歩近づけば目覚めさせてしまう――その距離で足を止め、ユリウスに問いかけた。
『イシュティナさんは目覚めた?』
『いや、まだだ。』
『目覚めたら教えて。こっちも気づかれるまで、時間の問題だけど――』
その時だった。
女神の身体がピクリと蠢く。
ゆっくりと、目が開いていった。
通常、エルフの瞳は空のような青か、エメラルドのような緑を湛えている。
けれども、女神となった彼女の瞳は、白目の部分まで――光のない、底なしの深淵の黒だった。
どこまでも堕ちていきそうなその闇が、じっと私を見つめている。
全身に悪寒が走る。
総毛立つ肌が、皮膚ごと後退ろうと震えている。
本能が、逃げろ、と警鐘を鳴らす。
私はそれを、気力でねじ伏せた。
口から胃の中身――いや、胃そのものが逆流してきそうな吐き気に襲われる。
なんでこんな化け物と、対峙しようなどと思ったのだろう。
一瞬、後悔が脳裏をかすめる。
だがもう――引き下がれない。
戦うしかない。
『イシュティナが意識を取り戻した! 混乱してるが、とりあえず大丈夫そうだ。
黒衣の男はまだ現れてない!』
ユリウスから思念が届く。
『ありがとう。こっちも女神が動き出した。引き続き支援をよろしく。』
返事をして、私は女神に集中する。
ユリウスが身体に触れた部分から魔力を送ってくれている。その流れが心強い。
彼の魔力が、万が一の時の命綱となる。
もし呑まれてしまっても、彼の魔力を辿れば帰還できる。
そう心を奮い立たせ、私は女神に手を差し伸べた。
『さあ来るがいい。お前を書き替えてやる。』
私を見据える女神から、白く細い糸が無数に――スルスルと伸びてくる。
以前とは比べものにならない。
私を捕食しようとしているのか。
――良いだろう。喰らうがいい。
私の魔力には、これでもかというほど構文と術式が載せてある。
最初は取り込んでも気づかない。いつもの食事だと思うだろう。
だが、それは罠だ。
私の魔力は女神と同化した瞬間、その構文を彼女に刻み込む。
思念体の私に、無数の糸が打ち込まれた。
魔力が吸い上げられていくのが分かる。
私を気に入ったのか、女神はチマチマと吸い上げるのを面倒がったようで、一気に私を手繰り寄せた。
眼前に、女神の顔が迫る。
ここは思念の世界だ。本物と比べ、彼女の顔は巨大に膨れ上がって見えている。
ピシリ――。
その顔に亀裂が入った。
左右に大きく割れた断面には、びっしりと、菌糸のような細い糸が詰まっているのが見えた。
『ゴハン……ゴハン……オイシイゴハン……』
女神の嬉しそうな声が、頭の中にガンガン響いた。
『おいしい魔力よ。存分に食らいなさい――っ!』
私は、身体中の、ありったけの魔力を彼女に叩きつけるように流し込んだ。
バクン、と肉が吸い込まれるような音を立て、女神は顔に開いた割れ目を閉じ、私の魔力を呑み込む。
間一髪で、私の意識までは呑まれず、逃げおおせた。
女神は再び目を閉じ、満足そうに玉座へ戻ってゆく――
と、その時。
『黒衣の男が現れた! ものすごく怒っている。ルキアス、イシュティナ嬢が戦闘に入ったっ!』
ユリウスの思念が飛び込んでくる。
『こっちも作戦通りよ。もう少しだけ支援して。今戻るか――』
そこまで言いかけた瞬間、異変が起きた。
女神が――苦しみ悶えていた。
身体をよじり、私を恨めし気に睨みつけてくる。
『キサマ……ナニヲシタ……』
怒気を孕んだ声が、私を一気に怖気づかせる。
しまった……想定以上に効いてしまったのか?
それとも、彼女は予想以上に繊細なバランスの上に成り立っていて、私が均衡を崩してしまったのか?
どのみち、このままでは――まずい。
『アナ、どうした!? 何があった!』
ユリウスの声が響く。
だが、返事をする余裕すらない。
女神の糸が私を絡めとろうと、次々と突き刺さんばかりに追いかけてくる。
必死で意識を浮上させようともがくが、魔力を失いすぎてうまくいかない。
それでも逃げ回っていると――女神が突然、魔力を吐き出した。
私から奪ったものではない。
未精製の――原初の魔力だ。
その奔流が、濁流のように私を襲う。
『きゃあぁっっ!』
意識が、現実に押し戻された。
だがアミラ皇女を通じて、未精製の魔力が私の身体に逆流してくる。
全身の魔力回路が、異質な魔力に焼かれていくのが分かった。
どこもかしこも痛い。
いや――右腕が、異様に痛い。
私は現実の世界で目を開けた。
ユリウスが、必死の形相で私を何かから引き離そうとしている。
アミラ皇女だ。
アミラ皇女が、私の右腕に噛みつき、噛みちぎろうと激しく頭を振り乱していた。
彼女は普通の人間のはずだった。
けれど、口が裂けるほど大きく開き、まるでワニかサメのように深く噛みついて離さない。
大量の血しぶきが舞った。
あ……これ、まずいやつだ。
動脈、切られてる?
あまりに現実感がなくて、他人事のように思っていたら――
怒声が耳に飛び込んできた。
「貴様ら! 女神に何をしたっ! 私の女神を穢しおってっっっ!」
黒衣の男が、ルキアス殿下とイシュティナさんと戦いながら叫んでいた。
その瞬間、不意に吹き飛ばされたイシュティナさんが、こちらに突っ込んできた。
側面からぶつかり、ユリウスが私を引き離そうとしていた腕ごと、私たちは吹き飛ばされた。
――あ……右腕が、ちぎれた。
宙に舞いながら、見たことのないほどの大量の血液が飛び散るのが、妙にゆっくりと目に映る。
アミラ皇女が、私の腕を噛み砕いていた。
「あ、がっ……」
床に叩きつけられ、無様な声が漏れる。
私は魔力も血液も、失いすぎていた。
身体は動かないのに、脳細胞だけが異常に冴えて働いている。
「アナっ!」
床に転がったユリウスが、即座に飛び起き、私へと駆け寄る。
イシュティナさんも立ち上がり、黒衣の男に反撃しようとした――が、
黒衣の男がイシュティナさんの背中を踏みつけ、至近距離から風魔法を叩き込んだ。
身を切り刻む鋭い風が、彼女を容赦なく斬り裂いていく。
と、その時だった。
音にはならない。
けれども、それが女神の苦悩の叫びだと、はっきり分かる。
膨大な魔力波が、神殿全体を揺るがした。
「ぐはっ――」
黒衣の男が胸を押さえ、血を吐き出す。
そうか――この男、女神とつながっているんだ。
妙に冴えた頭が、瞬時に答えを導き出した。
考えるより先に、口が叫んでいた。
「イシュティナさんっ! そこに落ちてる私の腕が接続してます! 魔力を叩き込んでください!
それで、女神も男も動揺します!」
返事を待たず、イシュティナさんは男の足下から転がり出た。
そしてアミラ皇女が投げ捨てた、私の右腕を拾い上げる。
「よーし、喰らいなあっ!」
イシュティナさんが、私の右手の術環から魔力を叩き込んだ。
一拍置いて、再び強烈な魔力波が空間を揺さぶる。
「くそぅ……お前らぁ!」
血を吐きつつ立ち上がる黒衣の男――その背後から、ルキアス殿下が飛び込む。
鋭く閃いた剣が、彼を肩から袈裟に斬り裂いた。
私を抱きとめていたユリウスも、右手を突き出し、氷の刃を次々と飛ばす。
鋭い氷槍が、黒衣の男の身体に何本も突き刺さった。
「くそっ、くそっ、この私が……!
――ここは一旦、女神のもとへ戻らねば……!」
男は自らの身体を、赤く揺らめく魔力で包み込むと――瞬間移動の術式で、霧のように消え失せた。




