22 禁じられた祭殿
「なぜあんな場所にアミラ様が……あのお方はあのような場所に居てはならないのに……」
イシュティナさんは、まるで血を吐くように、口惜しげに言った。
「あったあった。」
いつのまにか席を立っていたユリウスが、書棚から一冊の本を抜き取り、私たちの方に見せてくる。
彼が見せてきたのは、ここ数代を記した王族名鑑だった。
「アミラ・エルディナ・ザガル=アルダ。これだね。僕たちの大叔父、ルードヴィヒ王弟殿下の聖女として召喚されたとある。王国暦704年――今からおよそ50年前だ。召喚と契約のあと、馬車の事故で重傷を負い、神殿に引き取られて……そのまま亡くなったらしい。」
「ルードヴィヒ王弟殿下は、まだご健在だな。トシコ陛下の葬儀にもご参列されていた。」
ルキアス殿下の言葉に、イシュティナさんは目を伏せ、ぽつりと呟く。
「アミラ様が、五十年前にご結婚されて、すぐに事故に……?
でも……あの場で拝見したお姿は、まるで……あの時からずっと変わらず、玉座に座っておられたようで……」
彼女はしばらく何かを振り払うように沈黙し、やがて決意を宿した瞳で、私の方へ向き直った。
「アナスタシア殿……私は、アミラ殿下を取り戻したい。
でも、あの場の空気を感じた時、悟ったのだ。――あれは、普通の術や力ではどうにもならない“何か”に囚われている。
力づくでは、きっと、無理だ。
だから……どうか、あなたの知恵を貸してほしい。お願いだ。」
その言葉を受けて、隣のルキアス殿下も、真剣な声で続けた。
「イシュティナの願いは、なるべく叶えてやりたい。
俺もあの場所を見た。あれは……俺たちだけでは太刀打ちできない。
同行して、意見を述べてくれるだけでもいい。頼む。」
二人に頭を下げられて、それが『女神の祭殿』の調査依頼だと聞かされたとき――
イシュティナさんの敬愛する主君の奪還という、きわめて個人的な、しかし切実な理由による依頼だと知ったとき――
不謹慎かもしれない。けれど私は、どうしようもなくワクワクしていた。
だって、それは――
王朝成立期最大のブラックボックス、『女神の祭殿』なのだ。
未だ誰も、実在を証明できていないあの場所が、本当に存在していて、誰かが座っているなんて――こんな話、逃す手はない。
……なのに。
私は即答できなかった。
こういうことは、私ひとりでは決められない。
ユリウスに、きちんと許可を得なければ――
「アナ、全部顔に出てるよ……」
ユリウスの方を向くと、目が合った。
……お見通しらしい。
「行ってもいいの?」
期待を隠しきれずに問うと、ユリウスは苦笑して首を振った。
「本当は行かせたくないさ。
でも、行かせなかったら一生恨まれそうだからね。」
彼は少しだけ肩をすくめて、冗談めかして言った。
「ありがとう、ユリウス殿、アナスタシア殿!」
イシュティナさんは、深々と頭を垂れて感謝を示していた。
『原初の森』は、この国にとって神聖視される土地ではあるものの、立ち入り自体が禁じられているわけではない。
だが――『女神の祭殿』に限っては話が別だ。そこは神殿の管理下に置かれ、最高位の神官ですら内部に立ち入れない厳重な聖域とされている。
とはいえ、実際には外部に番人がいるわけでも、目に見える結界が張られているわけでもなかった。
ルキアス殿下たちが誤って入り込めてしまったのも、そうした形式だけの管理の緩さゆえだ。
「アミラ殿下の拘束に神殿がどれほど関与しているかわからない以上、正式な許可は、かえって我々の立場を危うくする。
ルキアスやユリウス殿たちは信頼しているが……この国の制度や神殿には、今は不信感しかない。」
イシュティナさんの主張は、私も強く同意せざるを得なかった。
王子や聖女の心も体も、まるで物のように作り変え、
それを「奇跡」や「恩寵」と美しく飾り立てる神殿の在り方。
以前なら疑いもしなかったそれが、今は自分の身に迫る制度として、恐怖と嫌悪を募らせていた。
何はともあれ、まずは調査だ。
アミラ皇女の契約王子であるルードヴィヒ王弟殿下への接触案も出たが、高齢に加え心臓を患っているとのことで断念した。
現時点では状況を外部に漏らす危険の方が大きい。
召喚後のアミラ皇女についても、表に出る情報は極めて少ない。
結局、秘密裏に四人で再び『女神の祭殿』に赴き、私が中心となって調査を行うことに決まった。
祭殿までは、騎馬で半日ほど。
ルキアス殿下たちが熱心に魔物を掃討してくださっていたおかげで危険は少ないものの、道が整備されているわけではなく、馬車では到底進めない。
ルキアス殿下とイシュティナさんは、それぞれ自分の愛馬に騎乗する。
私はというと――ユリウスの馬に、同乗させてもらうことになった。
……正直、乗馬は苦手だ。
昔、貴族の令嬢のたしなみだと言われて無理やり練習させられたが、馬の方も私がヘッポコだと見抜いていたのだろう。
勝手に草を食み始め、一歩も動いてくれなかったことがある。
その時は、クラウス兄さんに死ぬほど笑われたっけ……。
まあ、今回はユリウスが一緒だから、大丈夫だ。
――大丈夫なはずなのだけれど。
半日もこうして密着して、彼の体温に触れ、体臭に包まれていると――
……やっぱり、大丈夫じゃなかった。
「ここだ。この建物だ。」
陽も真上に差し掛かった頃、先頭を行くイシュティナさんが馬を止めた。
目の前に広がっていたのは、森の中にぽっかりと開けた芝の広場。
その中央に、白亜の神殿のような建物が静かにそびえている。
この一角だけ、まるで別世界のようだった。
何らかの魔法が働いているのか、広場は森に侵食されることなく保たれ、白壁は長年の風雨にさらされてもなお、くすみ一つ見せていない。
私は慎重に周囲の魔力を探る。
奇妙な静寂と穏やかな力の流れは感じるが、こちらを直接監視したり、攻撃するような意図は読み取れない。
同じように周囲の気配を探っていたユリウスも、目が合うとわずかにうなずき返してきた。
「これは……ガルナシオン王朝末期、今からおよそ八百年前のエルフ族の典型的な建築様式ですね。
我々人間からすればやや小ぶりに感じられますが、エルフの建築物としてはかなり大型の部類に入ります。――もしかすると、我々の王城にも匹敵するほどの、格調高い建物だったのかもしれません。」
私は、とりあえず今の知識で所見を述べた。
すると、ルキアス殿下たちが驚いたようにこちらを見る。
「一目見ただけでわかるのか。……アナスタシア嬢って、本当に学者だったんだな。」
「……ちょうど私の専門の時代だっただけですけどね。」
私は少し照れながら返した。
「入口はこっちだ。」
イシュティナさんがいざなったのは、正面の大扉ではなく、その脇に控えた小さな通用口だった。
おそらく、この建物が本来機能していた頃は、正面の大扉は儀式や式典の際にだけ開かれ、普段の出入りはこの脇道から行われていたのだろう。
……うん。正式な通用口でない、となると――
やっぱり私たちは、招かれざる客ということになるのだ。
イシュティナさんは何のためらいもなくドアノブを握り、扉を押し開く。
よく見ると、鍵が壊れていた。
最初から壊れていたのか、それともイシュティナさんたちが前回の探索で壊したのか――
……うん、やっぱり私たちは招かれざる客には違いなかった。
内部は狭い回廊になっていて、すぐに天井の高い広間に出た。
私たちの靴音が妙に反響し、広い空間に吸い込まれていく。
内側の構造も、典型的なエルフの建築様式で、保全状態は驚くほど良好だ。
立地や建築様式から推測すれば――もしかしたら、ここは大陸を去る直前のエルフたちの主神殿。
偉大なるエルフ女王アレヴィシアの、居城の一部だったのではないか……。
私は広間中央の通路に立ち、真正面を見つめる。
深く息を吸い込む。
空気は清浄で、埃の匂いすら感じない。
だが、目を閉じて魔力の流れを探ると、建物全体に漂う違和感が見えてくる。
現代の術式とは全く系統の異なる、単純で、しかし数千年持続しても揺るがない空間保持の魔法が、静かに張り巡らされていた。
――けれど。
その保持の魔法でも、浄化しきれない“痕跡”があった。
広間の隅や柱の陰に、隠れるように倒れた遺体の数々。
白骨化したエルフの戦士、人間の兵士らしき亡骸が、美しい空間の陰で静かに眠っていた。
ルキアス殿下たちが最初に訪れたときは、きっと正面に気を取られて、ここまでは目が届かなかったのだろう。
――そして、中央通路の突き当たり。
壁沿いに並んだ玉座の列。その上に座す、いくつもの干からびた遺体の中――
唯一、まるで自ら光を放つように、ただ一人の女がそこに座していた。
年のころは十八ほどだろうか。顔立ちはイシュティナさんにどこか似ている。異国の戦士の気配を漂わせたまま、静かに、微動だにせず。
今にも目を開け、こちらを見つめ返してきそうなその姿は、とても五十年もの時を、この場所で過ごしてきたとは思えなかった。




