12 鍵と檻
「聖女の……召喚術式……」
私も思わず声を潜め、もう一度その紙に目を落とす。
――これってめちゃくちゃヤバいものでは?
我が国の黎明期を語る上で、王子による聖女召喚は決して避けては通れない問題である。にもかかわらず、伝承以上のことは明らかになっておらず、文献も見つかっていない。
聖女召喚の術式は、建国以来変わっていない、という話ではあるが、その術式や詠唱は神殿の門外不出とされ、魔法陣には視認阻害魔法までかけられているため、王子自身や召喚された聖女でも、正確に再現できるほど記憶することは不可能である。
聖女召喚の術式が分かれば――、王朝成立期を専攻する学者ならば、考えた事のない者はいない。
まさか、召喚される側の方にそれが顕現しているとは……思ってもみなかった。
しかも、丁度そこに、王国黎明期や、古術式学に精通した学者たちが立ち会うなど、信じられないくらいの幸運が重なったとしか思えない。
「もちろん、これは軽々しく公表できる情報でないことは承知している。
だが――あの場に居合わせた者たち全員が、これに強く興味を示し、私を中心に『極秘の勉強会』を立ち上げた。
この術式を、どうにかして解明したいと考えている」
ミルドア先生は、私の耳元から顔を離して、緊張を解いた表情で続ける。
「聖女という立場を差し引いても、君の小論文――
『王国成立期における術式魔法の構文化過程の推察』、だったかな。あれだけのものを書ける君の頭脳が、僕は欲しい。そしてこれは、君自身の研究にも、大いに資するはずだ……」
「私も!参加させてくださいっ!!」
即答した。
あまりに嬉しくて、思わず声が裏返った。力が入りすぎたのだ。
先生は満足げに頷き、私の手元の紙を指して言った。
「では、それを君の手帳に書き写して構わない。次回までに、表層だけでも独自に読み込んでおいてほしい。
下層については――もし解読できそうなら挑戦しても構わないが、まずは表層に集中すること。
ああ、それと……君の手帳には、視認阻害の魔法をちゃんとかけてあるね? 念のため、取り扱いは厳重に頼むよ。」
「はいっ! ありがとうございます!」
私は深く礼をしてから、いそいそと机に向かい手帳を開いて、震える手でその魔法陣を一筆一筆、書き写していった。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、気がつけば今日の作業時間が終わっていた。
ミルドア先生は用事があると言って、一足先に部屋を出て行った。
私も周りを片づけ、他のお弟子さんたちに挨拶をして、部屋をあとにする。
図書館のバックヤードの廊下を、騎士さんと並んで歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「アナスタシア!」
振り返ると、従兄のセドリックが追いついてくるところだった。
彼はちらりと騎士さんに目をやったが、すぐ気を取り直したように、私に向かって言った。
「もう帰るの? だったら、馬車まで一緒に行こう」
「ええ、いいわ」
私はそう答えた。
「――本当に……おまえが目の前で消えたときは、信じられなかったよ。まさか君が、聖女に召喚されるなんて……思ってもみなかった」
セドリックは、私の隣に並びながら話し出す。
「そうね。私も、信じられなかった。まさかあのタイミングで……ありえないわよね」
「――ねぇ、王城にいるんだろ? その……ちゃんと大切にされてる?」
セドリックは、覗き込むように私の顔を見て訊いた。
「え? ええ、ユリウス殿下には、よくしていただいているわ」
「そうか。それならよかった。でも……心配してたんだ。
ほら、俺、召喚祝賀晩餐会には呼ばれなかったからさ。おまえと会うの、召喚の時以来で――」
「ごめん、なんか心配させちゃったね。手紙でも書けばよかったんだけど……なんか、忙しくて……」
私が慌てて言うと、セドリックは眉を下げて、少し笑った。
「いいよ。クラウス――おまえの兄さんからも色々聞いてる。
ミレイユが急に嫁ぐことになったって。エイヴァリー辺境伯家って……想像もしてなかったけど、
あいつ、とうとうとんでもない人を怒らせたのかな?」
「はは……そうかもね」
私は、姉がどうなったのか、詳しくは聞かされていなかった。
――なるほど、エイヴァリー辺境伯家かぁ。たしか当主はアラン様……。
まあ、姉とも年齢的には、かろうじてバランスはとれる……年齢的には。
でもねぇ。
あの家は、国境の警備に専念してらっしゃって、王都にはほとんど姿を見せないことで有名だし――
あのお姉さまが、あそこに嫁いで……おとなしくしていられるかしら。
「アナスタシアは――もう、殿下と暮らしているんだろう? その……どうなんだ?」
物思いにふけっていた私に、セドリックが思いつめたような声で話しかけてきた。
「え? どうって……?」
「いや、その……年頃の男女が、同じ屋根の下で暮らしてるわけだし。
契約とか、婚姻とか――そういう話も出てるんじゃないかな、って……」
セドリックは、きまり悪そうに目線をそらしながら言った。
「……なんか、勘違いしてるかもしれないけど――ユリウス殿下とは、そういう関係じゃないわ。
一緒に暮らしているのは、その……慣例として、王子は召喚した聖女をすぐに保護する“権利と義務”があるって、そう聞いているの」
「そう……なんだ」
彼の視線が、もう一度、私の方へ戻ってきた。
「――慣例では、聖女は王子に嫁ぐんだよね?
アナスタシアも……その“慣例”で、殿下に嫁ぐの?」
私は目を見開いて、彼の顔を見つめた。
セドリックは――今まで見たことのない、険しい顔をしていた。
それは、少年の顔でも、軽薄な従兄の顔でもなかった。
……男の顔だった。
「やめなよ。もったいないよ。」
「あんたねぇ、そりゃあ、ユリウス殿下は私にはもったいないくらい素敵な――」
「違う」
セドリックは首を振った。
「そうじゃない。……おまえが、もったいないんだよ」
私は、思わず足を止めた。
セドリックも歩みを止め、私に正面から向き直った。
「聖女は、殿下のお命がかかっているから降りられないかもしれない。だけど、結婚までは――しなくていいんじゃないか?」
彼の声が震えていた。
「本当に……もっと早く、おまえに思いを伝えておけばよかった。
婚姻……いや、婚約だけでもしておけば――」
彼の手が、ゆっくりと私の肩に伸びてくる。
それは、何かを取り戻そうとするような、かすかな震えを含んだ動きだった。
すぐそばで、騎士さんが制止しようと半歩踏み出す気配が伝わる。
――と、その時だった。
「アナスタシアっっ!!」
名を呼ぶ声が、廊下の向こうから響いた。
視線を向けるより早く、足音がこちらへと駆けてくる。
ユリウス殿下は私たちのもとにまっすぐ歩み寄ると、
迷いなく私の肩を引き寄せ、両腕で強く――抱きしめた。
「……聖女に、触れようとしていたようだが」
彼の声は低く、しかし鋭く通る。
そのまま、私を庇うようにかばいながら、セドリックを見据えた。
「セドリック・クルーゼン子爵令息――これは、一体、どういうつもりかな?」
見上げたユリウスの顔は、怒りも嫉妬も隠そうとしていなかった。
その視線は、私の親族の青年に向けられたものとは思えないほど――冷たく、
そして、確かに殺意を帯びていた。
「っ……」
ユリウスの放つ覇気に、セドリックは一瞬たじろいだ。
それでも――彼は踏みとどまった。
唇を引き結び、真正面から殿下を見返す。
「アナスタシアは――あなたには、過ぎた女性だと言ったんです。」
声が震えることはなかった。
それどころか、セドリックは静かに、しかし鋭く言葉を継いだ。
「王子の命を繋ぐために、聖女として立つ。そこまでは――百歩譲って認めましょう
けれど、あなたの子を産ませるために、“王子妃”という檻に閉じ込めるなど――
それは、王立図書館の禁書庫の鍵を、令嬢のアクセサリーに仕立てるほど――愚かで、惜しい行為だと言っているんです」
「貴様ぁっっ」
ユリウスの怒声が廊下に響いた。
彼は腰に佩いていた剣の柄に、迷いなく手を掛ける。
――まずい、このままではセドリックが……不敬罪に問われる……!
私はとっさにユリウスの柄に掛かった右手に自分の手を重ねる。
「やめて、セドリック、そこまでよ。」
私は意識して、断ち切るように言った。もしかしたら、足や手は震えていたかもしれない。
「ユリウスも、やめて。ここは、図書館よ……騒ぎを起こしたくないわ。」
彼の顔を見上げて、視線を合わすようにさらに続ける。
「おねがい。」
ユリウスの手から力が抜け、柄から離れるのを感じると、肩から力が抜けた。
「っっ……失礼!」
その場を振り払うように、セドリックが私たちの脇をすり抜けていく。
足早に、出口の方へと向かっていった。
思わず彼の後ろ姿を見ようと、わずかに身を動かしたその瞬間――
「――っっ!」
ユリウスに、強く抱き込まれた。
言葉も出ないほどの力で、胸元に押し寄せる彼の熱。
そして、私の右手が取られる。
その甲に、指先に、手のひらに――次々と、激しい口づけが落とされた。
触れるというより、喰らいつくように。
そして――ふと顔を上げた彼の視線が、私を捉えた。
それは、
それは――獰猛な、猛獣の目だった。
王子の目ではない。
私という獲物を、ようやく奪い返した捕食者の――燃えるような瞳だった。