099 リコリス、魔界に立つ
099 リコリス、魔界に立つ
リコリス視点
グラちゃんの花屋の地下の魔法陣が光ったと思うと、私たちは今までいた場所とは全く違う、不思議な場所にいました。
足元には黒曜石を磨き上げたような滑らかな床が広がり、頭上には見たこともない星々が幾何学模様を描いて瞬いています。
ここが、魔界なのですね……。
あまりの美しさに息を呑みましたが、すぐに私の心は不安でいっぱいになりました。
私の腕の中で、いつもなら「おお!これは壮観じゃ!」と大はしゃぎするはずのなまず様が、ぐったりと弱々しくなっていたからです。
次元を渡る旅は、なまず様の体に大きな負担をかけてしまったのかもしれません。
私が誰かに相談しようとあたりを見渡すと、あちら側に、金髪を綺麗な縦ロールに巻いた、お人形さんのように可愛らしいけど不思議な服の女の子がお付きの人たちに囲まれて高らかに笑っていました。
ですが、その子の姿を捉えた瞬間、近くにいたグラちゃんの雰囲気が一変したのです。
いつもは元気で太陽の笑顔で笑うグラちゃんが、今はまるで氷のように冷たい、ゾッとする雰囲気をその小さな体から放っています。
その瞳は、金髪の女の子ただ一人を見据えています。
私は、グラちゃんのあまりの変貌ぶりに、恐怖で体が凍りつきそうになりました。
息が詰まり、頭が真っ白になって、ただその場に立ち尽くすことしかできません。
尋常じゃない雰囲気です。
とにかく落ち着いてもらおうとグラちゃんの元へ駆け寄ろうとしましたが、後ろから肩に手を置かれて止められました。
振り返ってみると、不思議な肉塊だったモズルちゃんが、今は砂漠の国の踊り子のような、透けるほど薄い布を纏った、儚げで美しい三つ目の少女の姿に変わっていました。
そんなモズルちゃんが真剣なまなざしで、私がグラちゃんの元に行くのを止めてくれました。
さらに私の混乱に拍車をかけたのは、私たちの隣に立っている人の姿でした。
一緒に魔界へ来たはずのシモさんの姿はどこにもなく、代わりに、なぜかアカリちゃんたちとピクニックへ行くはずだったアレクさんが、ひどく困惑した顔で立っていたのです。
どうして?シモさんはどこへ?
私が困惑している間にも事態はドンドン進んでいきます。
なんと!アレクさんが怖い雰囲気のグラちゃんに話しかけたと思うと、アレクさんはどこからか出した拳銃で高笑いの女の子を打ち抜いたのです。
女の子は無事でしたが、撃たれたはずの女の子は何故だか嬉しそうにアレクさんと戦闘を始めてしまいました。
二人の間を飛び交う光と衝撃は、今まで見たどんな戦いよりも恐ろしいものでした。
戦いはアレクさんの勝利で終わりましたが、アレクさんは焦ったようにぐったりと意識が無い女の子の体をあちこち触りはじめました。
その姿に、女の子のお付きの方々が「姫様に何を!」と血相を変えて襲いかかります!
その瞬間、モズルちゃんがふわりと舞い、アレクさんとお付きの方々の間に立ちはだかります。
彼女が優雅に腕を広げると、身に纏っていた薄布がまるで生きているかのように広がり、お付きの方々の視界を遮りました。
苛立ちを募らせたお付きの方々は、半狂乱になりながら光る刀や光線で暴れまわっていますが、モズルさんはそれを舞うように、ひらりひらりとかわしてお付きの人の邪魔を続けていました。
アレクさんが、女の子のズボンに手をかけおしりをむき出しにした時、私はびっくりしてやめさせようとアレクさんの元に駆け寄ろうとしましたが、いつのまにかいつもの元気な感じに戻ったグラちゃんに止められました。
もうわけがわかりません、手の中のなまず様は相変わらずお髭をしなしなとさせて私の腕の中でぐったりとしているし、アレクさんは女の子のお尻に何かをしようとしているし、モズルさんは戦っているしで、私の頭の中はぐちゃぐちゃでした。
ただただ、なまず様を抱きしめることしかできませんでした。
アレクさんが女の子のお尻に叫びながら何かを詰め込んだところで、その場は一応落ち着いたみたいでした。
お付きの人たちは泣きな崩れるし、アレクさんは天に向かってガッツポーズをしています。
ふと、私たちの近くの空間がまるで石を投げ込まれた水面のように揺らめき始めました。
空間を歪めて現れたのは、壮絶に美しい女性と二人の黒い鎧の騎士様でした。
その女性は魔界の人が着ているぴっちりとした同じような黒いスーツであるものの、他の人たちより力強く禍々しくそして美しい装いです。
この場にいた魔界の住人の人たちは彼女をセレス様と言って跪いて恐れおののいています。
セレス様は、アレクさんの元で倒れている少女や、ひれ伏している魔界の人たちには目もくれず、まっすぐにグラちゃんの前まで歩み寄ると、深々と膝を折られました。
「この度は、我が娘ベレスが非礼の限りを尽くしましたこと、その責は全て監督不行き届きの私にございます」
静かな、しかし魂まで震わせるようなその声に、私は身を縮めることしかできません。
そして、次の瞬間には信じられない光景が繰り広げられました。
セレス様が、グラちゃんの前にひざまずいて白い布を口に含んで右手を一人の黒い騎士様の肩に置きました。
もう一人の黒い騎士様がどこからか取り出していた大きな戦斧を振り上げてセレス様に視線を送りました。
まさか!そう思った次の瞬間!
斧の黒い騎士様は悲痛ともとれる掛け声を発し、その巨大な戦斧を一思いに振り下ろしたのです!
世界がゆっくりと流れました。
振り下ろされた戦斧の軌跡が、赤い残光となって私の目に焼き付きます。
本来繋がっているはずのセレス様の肩と腕の間に、一瞬だけぽっかりと空いた空間。
そこから噴き出した鮮やかな赤い血が、スローモーションのように宙を舞いました。
セレス様の手を持っていた黒い騎士様が切れた腕を恭しく抱きしめるそのしぐさまでも鮮烈に脳裏に刻まれて行きました。
そのあまりの光景に、私の思考は完全に停止してしまいました。
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まり、私はその場に崩れ落ちそうになりました。
それを、隣にいたモズルさんが、そっと支えてくれます。
彼女の体温がなければ、私はきっと気を失っていたでしょう。
セレス様は口に含んだ白い布が真っ赤に染まるくらいに、悲鳴をかみしめる様に耐えていました。
セレス様の黒いボディスーツが切断面を液体金属のように覆い、全身に光の筋が大きな血管のように駆け巡っています。
きっと生命維持装置かなにかが全力でセレス様の命を繋いでいるのでしょう。
目の前で落とされた腕を差し出すセレス様と、それを当然のこととして、静かに見据えるいつもと雰囲気が違うグラちゃん。
二人の間には、私には到底理解できない、古くからの厳しい掟が存在するのだということだけが分かりました。
「見事なケジメじゃな、セレス。これで禊は果たされた、その腕はお前にくれてやる、好きにするが良い。それと謝るならそっちの英雄にも謝っておけ、そいつが居なければ今頃お前の娘は肉塊になっておったぞ。」
グラちゃんのその一言で、ようやく張り詰めていた空気が少しだけ和らぎます。
グラちゃんに許されたセレス様は、ようやく床に倒れている娘のベレス様に目を向けました。
その瞳は、大悪魔としての威厳を保つため、冷たく凍てついています。
ですが、ベレス様の胸のあたりでスーツの光が正常に脈打っているのを確認した瞬間、ほんの一瞬、ほんの僅かに、その氷のような表情が揺らいだように見えました。
それは、娘の無事を確かめた、お母様の顔でした。
「……連れて行け」
その一言で、セレス様のお付きの人達は切り落とされた腕と気を失っているベレス様をへ運んで地面に溶けるように落ちていきました。
アレクさんが何かを言おうとすると、セレス様は彼に鋭い視線を向けました。
「貴方が救った命、無駄にはいたしませんので」
その言葉は、感謝というよりも、もっと別の……底知れない何かが含まれているように感じました。
アレクさんを見つめるその瞳は、まるで獲物を品定めするかのようで、私はアレクさんのことがとても心配になりました。
全ての「後始末」を終えたセレス様が指を鳴らすと、私たちの足元が、美しい宇宙空間へと変わりました。
さっきまでの血の匂いや、張り詰めていた空気が嘘のようです。
セレス様が指を鳴らした瞬間、私たちが立っていた黒曜石の床が、まるで溶けるように透明に変わりました。
眼下には、地平線の彼方まで続く、紫色の星雲が渦巻く壮大な宇宙空間が広がっています。
そして、何もないはずの空間から、まるで王様が座るかのような、豪奢なソファとテーブルが音もなく現れました。
さっきまでの殺伐とした儀式の場が、一瞬にして、星空を眺めるための超高級な応接室へと姿を変えたのです。
「この空間ごとパイモン様の宮殿へご案内いたします。どうぞ、3時間くらいこちらでおくつろぎください。」
私は、そのあまりの光景に言葉も出ませんでした。
移動が始まって豪華なソファに腰を下ろしても、私の心は少しも休まりませんでした。
私の膝の上で、なまず様がぐったりとしているのです。
いつもならピンと張っているはずのお髭が、今はしなしなになってしまっています。
私が優しく体を撫でると、なまず様は弱々しい声で答えました。
「うむ……どうも調子が悪くてのぅ。体に力が入らんというか……活力が湧いてこんというか……とにかく眠いのだ」
その言葉に、私の胸は不安で張り裂けそうになりました。
アレクさんが、そんな私たちの様子に気づいて声をかけてくれます。
ですが、なまず様は「今は少し休ませてくれ」とおっしゃるだけ。
いつもと違うなまず様の様子に、アレクさんも事の重大さに気づいたようでした。
「うーむ、これはなんだか辛そうだ。そうだ、こういう時にはグラ嬢に相談だ」
そう言って、アレクさんはグラシャラボラス様とセレス様が話している方へと向かっていきました。
二人の魔王様と大悪魔様。
その輪の中に、アレクさんが一人で入っていきます。
私には、彼がとても危うい場所へ向かっているように見えて、ただただ、彼の無事を祈ることしかできませんでした。




