097 アカリ、壁の外に出る。
097 アカリ、壁の外に出る。
アブダビ君の背中に乗って進む薄暗い坑道。
ひんやりとした空気が肌を撫で、硬い甲殻越しに伝わる規則正しい振動だけが、私たちが進んでいることを教えてくれる。
そして、遠くに小さな光が見えた瞬間、私の心臓は期待に高鳴った。
光が急速に大きくなり、坑道を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは、どこまでも続く地平線!
空が広い!
壁に囲まれた街の中とは比べ物にならない解放感に、思わず「うわー!」って声が出ちゃった。
空気の匂いが、街の中とは全然違う。
湿った土と、むせ返るような濃い緑の匂い、そして、嗅いだことのない甘い花の香りが混じり合って、私の肺を新鮮な驚きで満たしていく。
これが、壁の外の匂いなんだ!
今まで見てきたどんな景色とも違う。
高い建物も、決められた道もない。
ただ、空と大地がどこまでも続いている。
すごい……私、本当に異世界に来たんだ!
アーサーさんによると、ここから目的地の『嘆きの湿原』までは40キロくらいあって、アブダビ君の足でも4時間近くかかるらしい。
しばらく進んだところで、アーサーさんが不意に「アブダビ君、少し止まってくれ」と声をかけ、ひらりとその背中から飛び降りた。
「え、アーサーさん?どうしたんですか?」
「ここから先は、少し地面がぬかるんでくる。二人も乗せていては、さすがにアブダビ君の負担が大きいだろう。俺は並走する」
そうこともなげに言うと、アーサーさんは本当にアブダビ君の横を走り始めた!
え、えええ!?
今のアブダビ君って、時速15キロ近く出てるんだよ!?
私、陸上部で短距離やってるからわかる!
今のアーサーさんのペース、ただのジョギングじゃない!
っていうか、私の100メートルの全力疾走と同じくらいじゃない?それを息一つ切らさずに続けるなんて!
しかも鎧を着て!
コンマ1秒を削り出すために、血の滲むような練習でヒーヒー言ってる私たちの努力って、一体何だったの!?
目の前で、私が信じてきた物理法則とかスポーツ科学とか、そういう常識が全部、粉々に砕け散っていく音がした!
「あ、アーサーさん!すごすぎます!なんでそんなに平気なんですか!?」
私の驚きの声に、アーサーさんはこちらをちらりと見て、フッと口の端を上げた。
「お前も、そのうちこのくらいできるようになる。俺たちは、普通の人間とは少し違うからな」
え……私も、こんな風に……なれるの?
ちょっと信じられないんだけど…!
私、本当に、とんでもない世界に来ちゃったんだ……!
ショックを受ける私をお構いなしに、アブダビ君はドカドカと脚を進める。
目の前に広がる光景は、私のちっぽけな常識なんて、どうでもよくなるくらい、圧倒的だった。
最初はゴツゴツした岩肌が剥き出しの荒野だったけど、進むにつれて景色はどんどん変わっていく。
地面から虹色に光るキノコが生えていたり、見たこともないような巨大なシダ植物が鬱蒼と茂っていたり。
空を見上げれば、翼竜みたいな生き物が群れをなして飛んでいくのが見えた。
すごい!
教科書でも見たことないような、手つかずの異世界の大自然が目の前に広がってる!
しばらく進むと、視界が開けて広大な草原に出た。
そこは、私の知っている草原とは全く違っていた。
地面を覆うのは緑の草だけじゃない。
青や紫、オレンジ色の、まるでベルベットみたいな手触りの草がパッチワークみたいに広がっている。
その上を、全身岩の肌をした鹿みたいな角を持つ動物たちが、のんびりと草を食んでいた。
「すごい……綺麗……」
私がその光景に見とれていると、不意に、地平線の彼方で土煙が上がるのが見えた。
草食獣の群れが、一斉にこちらへ向かって逃げ出してくる!
そのただならぬ雰囲気に、私の心臓がドクンと跳ねた。
群れの後方から、それを追いかける影。ラプトルみたいな姿をした、しなやかな肉食獣の群れだ!彼らは驚くほど統率が取れていて、巧みに草食獣の群れを追い込み、逃げ遅れた一頭に一斉に襲いかかった!
生々しい叫び声が、風に乗ってここまで聞こえてくる。
それは、テレビのドキュタリーで見るのとは全く違う、命と命がぶつかり合う、どうしようもなくリアルな光景だった。
私が息を呑んでその光景に見入っていると、並走するアーサーさんが静かに口を開いた。
「よく見ておけ、アカリ。あれが壁の外の日常だ。ここでは、食うか食われるか、それしかない。綺麗事は何一つ通用しない」
アーサーさんの厳しい声が、私の浮かれていた心に突き刺さる。
そうだ、これは観光旅行じゃないんだ。
「今日の目的は、お前に壁の外の厳しさを肌で感じさせることだ。これはピクニックじゃない。明後日から始まる『帰らずの森』での本当の戦いの前に、お前の頭の中にあるお花畑を、現実という名の泥で汚してやるための、意識改革だ」
その言葉は厳しいけど、私のことを本気で心配してくれているのが伝わってくる。
「これから行く嘆きの湿原で、生き残るための知恵と覚悟を、今日一日で叩き込んでやる。心してかかれ」
アーサーさんの真剣な眼差しに、私はゴクリと喉を鳴らし、力強く頷いた。
少し張り詰めた空気の中、アブダビ君の足さばきは変わらず、まるで戦車みたいにすごくスムーズ。
ガタゴト道も、ぬかるみも、全然気にしないで進んでいく。
二時間ほど進んだところで、アーサーさんが「アブダビ君、少し休もう」と声をかけた。
アブダビ君は近くにあった、油が浮いたように虹色に光る水たまりを見つけると、そこでゆっくりと水分補給を始めた。
アーサーさんが周囲を警戒してくれているのを確認して、私はそっとアブダビ君に近づいてみた。
「アブダビ君、お疲れ様!」
私が話しかけると、アブダビ君はギチギチギチと外骨格の顎を震わせて、蟲族の独特な言語でお返事してくれた。
アポロンリングのおかげでアブダビ君の言葉がわかる。
アーサーさんの話では、トラブル発生器らしいけど、今は感謝して使うことにしよう。
アーサーさんが周囲の警戒に専念してくれている間に、私は水筒の水を少しだけ布に湿らせて、アブダビ君の硬い甲殻を拭いてあげた。
泥や砂埃で汚れていた甲殻が、少しだけ綺麗になる。
アブダビ君は気持ちよさそうに目を細め(てるように見えた!)、カチカチと嬉しそうな音を立てた。
「アブダビ君って、すごいね、あんなに走っても全然疲れていないように見えるよ?」
私の言葉に、アブダビ君は少しだけ遠い目をして、大きなハサミの傷跡をそっと撫でた。
「ワタシは故郷の大陸では兵士長なんてものをやっていた。このくらいは余裕だ」
「へぇ、アブダビ君って元軍人(蟲?)だったんだ!どうりで強そうなはずだね!」
「強そう、か。そうかもしれん。このハサミは、かつて死神とまで言われた。だが、本当の強さというものを、ワタシは知らなかったのだ。それを教えてくれたのが、たった一人の人間と、かつて俺が見下していたその人間の仲間たちの蟲だった。この傷は、その時の勲章であり、戒めでもある」
「ええっ!?そんなことがあったんだ……」
ただの武勇伝じゃない。その声には、苦い敗北を乗り越えた者だけが持つ、静かな重みがあった。
「ああ。それからは自分探しの旅よ。この大陸へ渡り、こうして出稼ぎをしているというわけだ」
「出稼ぎって……もしかして、故郷で何かあったの?」
「うむ。我が故郷は今、二つの大きな勢力が争う戦の真っ只中でな。食料も不足気味で、残してきた仲間たちがどうしているか……心配でならんのだ。ここで稼いだ金が、少しでも奴らの助けになれば良いのだが」
アブダビ君の話を聞いて、なんだか胸がキュッとなった。
ただの巨大なサソリだと思ってたけど、全然違う。
故郷ではエリート軍人で、でも一度の敗北で自分の未熟さを知って、今は遠い故郷の仲間たちのために、一人で異国で働いてるんだ。
強くて、優しくて、仲間想い。
見た目はいかついけど、心はすごく騎士様みたい。
「アブダビ君、めっちゃカッコいいじゃん……!」
私の言葉に、アブダビ君の触覚がピクリと跳ねた。
「そうか…ありがとう」
アブダビ君の声が少しだけ震えている感じがした。
アブダビ君も色々あったんだろうな。
そんな話をしていたら、アーサーさんとアブダビ君が何かを感じたように顔を上げた。
アーサーさんが立ち上がろうとしたとき、アブダビ君がアーサーさんを大きな鋏で制した。
「私がやろう」
ガサガサッ!と近くの茂みが激しく揺れたかと思うと、次の瞬間、そこからティラノサウルスみたいな巨大な肉食恐竜が飛び出してきた!
でも、様子がおかしい。その病的なほど青白い皮膚からは、おびただしい数の巨大な白い線虫が、まるで生きている毛皮みたいにうぞうぞと蠢きながら生えている!
「ギシャアアアアアッ!!」
怪物が咆哮すると、腐った肉みたいな強烈な悪臭が鼻をついた!
「寄生獣『ヴァームドレイク』!怪獣クラスのモンスターだ!アカリ、下がれ!」
アーサーさんが叫ぶけど、私は恐怖で足がすくんで動けない!
ヴァームドレイクの巨顎が地を裂く轟音と共に開かれた。
同時に、体表の線虫は見る間に波打ち、蠢く脈動が全身を覆い尽くす。
吐き出された腐臭が辺りを満たし、その悪意に満ちた咆哮が、私を飲み込もうと眼前に迫りくる!
(死んだ!)
目をギュッと瞑った、その瞬間。
ガキンッ!という硬い音と共に、衝撃が私を襲った。
恐る恐る目を開けると、私の目の前にはアブダビ君の巨大なハサミが!あの線虫の鞭を、いとも簡単に弾き返してくれていたのだ!
「アカリ殿、私の背後から離れるな」
アブダビ君の声は、冷静で、力強い。
ヴァームドレイクは獲物を邪魔されて怒り狂ったのか、今度は狂ったような咆哮をあげながら巨体ごと突進してきた!
ドゴォォン!と、地面が揺れるほどの轟音!でも、アブダビ君は分厚い甲殻でその全てを受け止め、びくともしない!
すごい……!ゲームや映画で見るのとは全然違う!本物の戦いだ!
ヴァームドレイクが大きく口を開ける、口の中にも白い線虫がびっしりとひしめいているのが見えた!
ヴァームドレイクが酸性の唾液を吐き出して目くらましを狙うけど、アブダビ君は冷静にそれを避け、逆に回り込んで巨大なハサミを振り下ろす!
ザシュッ!と肉が断ち切れる生々しい音!
ヴァームドレイクの足が一本、宙を舞った!
「ガァァアアアアアッ!!」
トラックの全力クラクションのような声量で苦痛を叫ぶヴァームドレイク!だけど、アブダビ君は攻撃の手を緩めない。
元兵士長っていうのは伊達じゃないんだ!
その動きには一切の無駄がない!
勝負は、一瞬だった。
ヴァームドレイクが最後の力を振り絞って突進してきたその動きに合わせて、アブダビ君はまるで舞うようにその巨体を沈み込ませ、すれ違いざまに、天高く掲げた尻尾を閃かせた!
それはもう、ただの突きじゃなかった。
黒い稲妻が迸ったみたいだった。一瞬の閃光の後、ヴァームドレイクの巨大な眉間には、小さな、でも致命的な深さの穴が一つだけ空いていた。
怪物は、自分が死んだことすら理解できないみたいに、数秒間、その場に立ち尽くした。
やがて、その巨大な口から、苦痛とも悲しみともつかない、甲高い断末魔の叫びが迸った。
「キュイイイイイッ!」
それは、この世の終わりを告げるような、物悲しい響きだった。
そして、その巨体はゆっくりと傾き、地響きを立てて倒れ伏した。
絶命の瞬間、ヴァームドレイクと目が合った気がした。
アブダビ君は、返り血の緑色の粘液と白い線虫を浴びながらも、何事もなかったかのようにハサミを一度打ち鳴らし、静かに私の方を振り返った。
その姿は、まさに歴戦の勇士。
私、とんでもないボディーガードと一緒だったんだ……!
私は緊張の糸が切れ、腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
さっきまで目の前で繰り広げられていた光景が、頭の中で何度も再生される。
肉が断ち切れる生々しい音、怪物の断末魔、あたりに立ち込める死の匂い、そして最後にこちらを見ていた死の直前のあの瞳……。
「立てるか、アカリ」
アーサーさんが、私の前にしゃがみこんで、手を差し伸べてくれた。でも、その手を掴むことができない。体が、言うことを聞かない。
「……言葉では、わかってたつもり、でした」
震える声で、なんとかそれだけを絞り出す。
「アーサーさんが言ってたこと、頭では理解してるつもりだった。でも、ダメです。目の前で、あんな……。私、本当に、死ぬかもしれない場所にいるんですね」
ゲームじゃない。映画でもない。これは、現実なんだ。
私の考えが、どれだけ甘かったか。本当の命の危機を前にして、ようやく理解した。
アーサーさんは、そんな私を黙って見つめていたけど、やがて静かに、でも力強く言った。
「そうだ。だが、お前は一人じゃない。俺も、アブダビ君もいる。だから、立て。自分の足で立って、前を向け。それが、ここで生き残るための第一歩だ」
その言葉に、私はハッとして顔を上げた。
そうだ、私、一人じゃないんだ。
震える足に力を込め、私はアーサーさんの手を借りずに、ゆっくりと立ち上がった。
アーサーさんの手をとらず立ち上がった私に、アーサーさんは優しくポンっと頭を手で叩いてくれた。
怒涛の休憩が終わり、私は再びアブダビ君の背中に乗り、アーサーさんは並走を再開した。
さっきまでキラキラと輝いて見えていた景色が、今は全く違って見えた。草原を彩る不思議な色の草花も、空を舞う翼竜の影も、その全てに命を奪いかねない牙が隠されているような気がして、背筋が寒くなる。美しいけど、怖い。
ワクワクするけど、足がすくむ。
高揚と絶望がごちゃ混ぜになって、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
しばらく進んだ後、アブダビ君が静かに足を止めた。
「ここから先は、自らの足で進むことになる」
アーサーさんの言葉に頷き、私はアブダビ君の背中から降りる。
空気は湿り気を帯び、足元からはじゅくじゅくとした不気味な音が聞こえ始めた。
『嘆きの湿原』は、もう目の前だ。
いよいよだ。
怖くて足がすくむ。
でも、もう逃げない。
私は、この世界で、自分の足で立って生き残るんだ。




