092 アレク、瞼を開ける
092 アレク、瞼を開ける
光りとは逆の何かの大きな奔流に飲み込まれた。
意識がブラックアウトから戻ったかと思うと、次の瞬間には、体が綿毛のように軽くなって引き延ばされながら吸い出される感覚に襲われた。
未知の次元へと強制的に射出されるような、抗いがたい奔流だ。
視界は光を失ったままなのに、網膜の裏では存在しないはずの色彩が激しく明滅を繰り返す。
意識と体の質量が逆再生のように戻り切ると、俺は瞼を閉じている事に気が付いた。
恐る恐る瞼を開ける。
そこには、光と闇が織りなす広大な世界が広がっていた。
まず俺たちの度肝を抜いたのは、眼下に広がる光景だった。
地平線という概念すら存在しないかのように、どこまでも続く夜の闇を、緻密な光の格子が支配している。
それは都市というより、一つの巨大な生命体の神経網か、あるいは精密機械の電子回路そのものだった。
光の網の結節点からは、天を突くように何本もの巨大な塔が屹立し、その間を無数の光の線――エネルギーが流れる動脈と静脈が、定められた律動で静かに脈打っている。
遥か下層では、光の粒子を撒き散らす無数の飛翔体が定められた軌道を寸分の狂いもなく行き交っているのが小さく見える。
その一つ一つの飛翔体が、俺たちには到底計り知れない目的を持って動き回っているのだろう。
その途方もないスケールを前に、俺たちはまるでこの世界という巨大な機械の上に落ちた埃の一粒であるような、ちっぽけで無力な存在に思えた。
俺たちが立っていたのは、そのうちの一本、ひときわ高くそびえる塔の頂上に設けられた、磨き上げられた黒曜石のような円形の降着場だ。
足元では、無数の光の線が複雑な幾何学模様を描き、まるで生きているかのようにゆっくりと脈打っている。
それは魔法陣のようでもあり、最新テクノロジーのようでもあった。
頭上には夜の帳が下りているが、そこに瞬くのは俺の知るどんな星々とも違った。
無数の光点が、まるで神の指先が描いた幾何学模様のように完璧な秩序をもって配置され、荘厳に脈打っている。
あれは星じゃない。
この世界の法則を司る、巨大な演算装置の末端か何かだ。
凄い。
ただそれだけ、いつも湯水のように湧いて来るくだらないボケ達も今はただ感動の下で鳴りを潜め、このすさまじい世界の圧倒的な存在感を感じていた。
周りを見るとリコリスがその美しい顔を上げ、天空に散りばめられた光りを見入っている。
彼女の腕の中のなまずが元気が無いのが少しだけ気になった。
感動に浸っているとどこかで聞いたオホホホ声が聞こえてきた。
「ようこそ、我らのパイモン様が支配する魔界へ」
そちらを見ると、一人の少女が、まるでこの世界の支配者であるかのように、腕を組んで俺たちを見下ろしていた。
年の頃はアカリと同じくらいだろうか。
腰まで届く豊かな金髪は、見事な縦ロールを描いて肩からこぼれ落ちている。
だが、そのお嬢様然とした雰囲気とは裏腹に、彼女が身に纏うのは、体のラインを生々しいまでに浮かび上がらせる、漆黒のボディスーツだった。
それは液体金属のようにも、濡れた絹のようにも見える滑らかな光沢を放ち、関節や筋肉の動きに合わせて、淡い紫色の光のラインが走っている。
無駄な装飾は一切ない。
だが、その完璧なまでのフィット感は、彼女の華奢な肩、くびれた腰、そして豊満とは言えないまでも確かな丸みを帯びた胸と尻のラインを、これ以上ないほど扇情的に際立たせていた。
そして何より目を引くのは、その完璧な髪型から突き出すように生えた、二本の小さな黒い角。
磨き上げられた黒曜石のように鋭く、鈍い光を放つそれは、彼女がただの人間ではないことを雄弁に物語っていた。
俺は頭を殴られたようにクラっときた。
悪魔型金髪お嬢様キャラに近未来ぴったりスーツ。
この暴力的なまでの情報量!俺の脳の処理能力が追いつかねぇ!
「オホホホホ!オーッホホホホホホホ!!」
甲高い、しかし妙に耳に響く笑い声が、静寂を切り裂いた。
元ピンクのモコモコぬいぐるみこと、悪魔の少女――ベレスは、腹を抱えんばかりの勢いで高笑いを続けている。
どうやら、俺とシモが入れ替わったのが、よほど痛快だったらしい。
「やりましたわ!転移直前なら干渉できると思いましたわ!さすが私!大成功ですわ!!さあ、屈辱を返して差し上げますわよ、お猿の世界の大統領さん!」
ベレスの瞳が、愉悦と復讐の色に爛々と輝く。
「やはり、異世界渡りをした仮初の姿では、わたくしの本来の力の百分の一も出せませんでしたもの!ですが、ここはこのわたくしのホームグラウンド!この姿ならば、異世界の猿に後れを取ることなどございませんわ!」
そう言うと、ベレスはまるでオモチャで遊ぶ子供のように、その華奢な手のひらに、闇そのものを凝縮したかのような黒い光球をいとも容易く生み出した。
「姫様!おやめください!」
「パイモン様にお叱りを受けますぞ!」
周囲に控えていた、同じく元モコモコぬいぐるみの側近達が、人型のぴっちりスーツ姿で悲鳴のような声を上げるが、完全にハイになっているベレスの耳には届いていない。
ベレスと目が合った。
彼女はランランと瞳を光らせて口の端を歪ませた。
次の瞬間
黒い光球が、空気を歪ませるほどの邪気を放ちながら、俺に向かって撃ち放たれた!
「ちっ!」
咄嗟に神力を練り上げ、結界を展開する!
黒球は結界に衝突し、バチバチと嫌な音を立てて霧散したが、その衝撃に腕が痺れた。
なんて威力だ!
俺は、この状況をどうにか収めてくれるであろう救世主に、すがるような視線を向けた。
だが、そこでゾッとした。
グラ嬢の雰囲気が、いつもと違いすぎる。
いつもの笑いながら「面白いことになりそうじゃのぅ」なんて言って目を輝かせている、あの無邪気な少女の面影はどこにもない。
彼女はただ、静かに、ベレスを見つめている。
だが、その瞳は、まるで温度という概念が存在しない、絶対零度の闇。その小さな体から立ち昇る気配は、もはや「気配」などという生易しいものではなく、空間そのものを捻じ曲げ、俺の魂を直接握り潰さんばかりの、圧倒的な『圧』だった。
空気が、凍る。
さっきまで感じていた魔界の喧騒が嘘のように、音が消えた。 俺の肌が粟立ち、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
……魔王
そうだ、こいつは、ただの犬耳少女じゃない。
数多の悪魔を束ね、世界の裏側に君臨する、本物の魔王グラシャラボラス。
考えてみれば、グラ嬢は完全にメンツを潰された形だ。
これは自分に何の断りもなく、勝手に自分の配下を好きにされたのに等しい行為だった。
それも世間知らずな小娘にだ。
特に、お気に入りのシモを、俺のような(自称)イケメン大統領に勝手にすり替えられたのは、彼女の逆鱗に触れたに違いない。
そして最悪なことに、普段ならこういう時に彼女を諌めるはずのシモが、ここにいない。
完全にハイになっているベレスは、自分の背後で静かに、しかし確実に臨界点を超えようとしている本物の恐怖に、全く気づいていない。
助けを求めるように、リコリスに抱えられたなまずに目をやるが、なぜかぐったりとして、ピクリとも動かない。
次元転移の負荷か!?
なんてこった! このままでは、あのオホホ娘が、魔王の気ままぐれで塵も残さず消し飛ばされる!
「おい!グラ子、落ち着け…」
俺が声をかけた瞬間、グラ嬢はゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返った。
そして、俺は後悔した。
その目に、感情はなかった。
犬耳も翼も、今は禍々しい力の奔流に揺らめいている。
ただ、俺の存在を認識し、それを排除するためだけの、純粋で、どこまでも冷たい殺意だけが、そこにあった。
言葉が出ない。
本能が、思考を放棄して逃げ出せと絶叫している。
脳髄を直接鷲掴みにされるような悪寒が背筋を駆け上り、吐き気がこみ上げてくる。
舐めるな!
俺は英雄で、大統領だぞ!
溢れ出そうな胃液ごと、恐怖を根性で飲み干す。
「約束したよな?」
声が、震えていないか?
大丈夫だ、まだやれる。
「……」
返事はない。
ただ、殺意の濃度がさらに増した。
ダメか?
いや、俺がまだミンチにされていないのは、グラ嬢が俺の話を聞いている証拠だ!
賭けるしかない!
「帰ったら、近親ロリコンアーサーとヤンママJKアカリを何とかしてくれるって、約束したよな?」
「……」
相変わらず底知れない殺意がそこにある。
だが、賽は投げられた!
俺は俺の全てを魔王グラシャラボラスの中のグラ子に賭けて、突き進む!
「俺が、あの勘違いアホ悪魔をお仕置きする!グラ子様が腹を抱えて笑い転げるような、キッツいお仕置きだ!だから!ここは俺に任せてもらえないか?」
「…………」
永遠にも思える沈黙。
心臓が張り裂けそうだ。
「………お主…面白い奴じゃのう」
ふっ、とグラ子が息を漏らした瞬間、俺を押し潰さんとしていた『圧』が霧散した。
見れば、いつもの犬耳少女が、そこにいる。
顔の造形はそのままなのに、まるで別人だ。
「妾はな、ちょっとエッチで笑える感じのお仕置きが好みじゃぞ。期待を裏切るでないぞ、大統領」
「おう!任せろ!グラ子に、最高に笑えるノーパンしゃぶしゃぶをご馳走してやるぜ!」
「お主、本当に面白い奴じゃのう!」
よし!いつものグラ子だ!
俺は安堵の息を吐く間もなく、空間から愛用の銃を取り出し、躊躇なく、未だに側近たちと悶着しているベレス嬢の、その綺麗な縦ロールのど真ん中に向けて引き金を引いた。




