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異世界で喫茶なまずはじめました。  作者: カニスキー
第三章 ゴタゴタ新生活
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087 リコリス、目を覚ます

087 リコリス、目を覚ます


 優しい朝の光がまぶたを照らし、私は目を覚まします。

 なまず様が神力で作ってくださったこの水球のベッドは、柔らかすぎず硬すぎず絶妙な反発力で、私の体を優しく包んでくれます。


 継母様のお屋敷では冷たく硬い藁の上で、毎晩のように聞こえる義姉様たちの嘲笑に耐え、自身の無力さに涙を流しながら夜を迎えていました。

 あの日々が、まるで遠い昔のようです。


 あの頃は、誰かのために何かをすることに、喜びなど感じたことはありませんでした。

 心を殺して精一杯頑張る事、それが生きるための術でした。


 ですが、今は違います。

 アカリちゃんやなまず様、虎子様、そして私を助けてくれた皆さんのことを想いながら朝食を用意する、この時間が、私にとって何よりも幸せなひとときなのです。


 今日も一日、頑張ろう。

 そう心に誓い、私は部屋の扉をそっと開けました。

 そして、目の前の光景に凍りつきました。


 廊下の床に、体のラインがくっきりと浮かび上がる、大胆なスリットの入ったネグリジェ姿の虎子さんが、うつ伏せで倒れるようにして、健やかな寝息を立てていらっしゃったのです。

 そのしなやかな体は、大量の水にまみれ、手足は心配になるくらいのありえない方向を向いています。


 恐る恐るその肩を揺さぶると、虎子さんは「んん……アカリさん……もう一口だけ……」と、幸せそうな寝言を呟かれました。

 こんなところで水浸しで寝ていると、さすがに風邪をひいてしまうと思い、虎子さんの肩を強めに揺して起こしてみます。


 目を覚ました虎子さんは、何事もなかったかのようにむくりと起き上がると、変に凝り固まった体をバキバキと音を立てながらストレッチでほぐしていきます。

 私は「一体何があったのですか?」と目で問いかけてみました。


 虎子様は「昨夜のなまず様の罠、見事でしたわ。おかげで、安眠できました」と、どこか清々しいお顔で微笑まれました。

 そして、「せっかくですから、お風呂をいただいてきますわ、オホホホ」と言って、そそくさと物置の方へ行かれました。


 昨夜は、なまず様と虎子様が、夜通し鍛錬でもなさっていたのでしょうか。

 廊下の壁や床が少し大変なことになっていますが、きっと、お二人の熱意の表れなのでしょう。

 わたくしも、皆さんの足を引っ張らないように、今日もお料理、頑張らなくっては。

 虎子様に元気をもらい、気合を入れなおして、私の戦場であるキッチンへ向かいます!


 まだ夜の冷気が残るキッチンに足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でます。

 石でできたかまどにそっと手を触れると、その冷たさが、継母様の屋敷の厨房で感じていた孤独な朝の記憶を呼び起こしました。


 ですが、もうあの頃とは違います。

 慣れた手つきで薪を組み、火打石を打つと、小さな火花が乾いた木屑へと移り、頼りなげな、しかし確かな温もりを持つ炎が生まれました。

 パチパチと心地よい音を立てて燃え広がる炎が、薄暗いキッチンを優しく照らし始めます。

 冷え切っていたかまどが徐々に熱を帯び、その温もりが部屋全体に、そして私の心にまでじんわりと広がっていくのを感じました。

 この温かさは、私を救ってくれた皆さんの優しさそのもののようです。


 昨日の夜、へべ様からいただいた小麦粉で仕込んでおいたパン生地は、布巾の下でふっくらと、まるで生きているかのように膨らんでいました。

 それを手際よく分割し、一つ一つ愛情を込めて丸め、温まったかまどの優しい熱でじっくりと焼き上げます。

 やがて、小麦の焼ける甘く香ばしい匂いが、温かい空気と共にキッチンを満たし始めました。


 鍋の中では、昨日いただいた『びっくりタマネギ』を飴色になるまでじっくりと炒めて作った、黄金色のコンソメスープがコトコトと優しい音を立てています。

 タマネギの甘みが溶け出した、心まで温まるような香りがキッチンを満たします。


 色とりどりの瑞々しい葉野菜に、森で採れたばかりの木の実を散らしたサラダは、朝露に濡れた宝石のようです。

 そして、新鮮なミルクと卵をたっぷり使ったスクランブルエッグは、フォークを入れるのがもったいないくらい、とろりとしていて鮮やかな黄色に輝いています。


 やりました!我ながら美味しそうに出来上がりました!

 皆さんが「美味しい」と言ってくださる顔を思い浮かべると、自然と私の口元も緩んでしまいます。

 この温かい時間こそが、今の私の宝物なのです。


 やがて、その美味しそうな匂いに誘われて、アカリちゃんやなまず様が起きてきました。

 お風呂から上がったばかりの虎子さんも、湯上りでほんのり上気した美しいお顔で食卓に着きます。

 ですが、虎子様は少しだけ難しい顔をして、なまず様に向き直りました。


「なまず様、神力洗浄なまず玉・人間バージョン、大変結構でしたわ。ですが、一つだけ申し上げてもよろしいかしら。やはり、お風呂というものは、誰かと一緒に入って、お背中を流し合うというコミュニケーションの場でもあるべきですわ。今後の改善を期待しております」

 なまず様は「昨日、アカリも似たようなことを言っておったな……善処しよう」と、真剣な顔で頷いていらっしゃいました。


 やがて、全員の前に食事が並び、アカリちゃんが「わー!美味しそう!いただきまーす!」と元気よく手を合わせました。

 その声に続くように、皆が思い思いの形で感謝を捧げ、食事が始まろうとしています。


 その光景に、ふと、胸が締め付けられるような懐かしい痛みが蘇りました。

 継母様の屋敷では、食卓を囲むことなど許されず、いつも厨房の片隅で、冷たくなった残り物を一人、黙って口に運ぶだけでした。

 誰に感謝することもなく、ただ空腹を満たすためだけの時間。

 それに比べて、今はどうでしょう。


 温かい湯気の向こうには、私の作った料理を「美味しい」と言ってくれる、大切な人たちの笑顔があります。

 この当たり前のような光景が、どれほど尊く、幸せなことか。込み上げてくる熱いものをぐっと堪え、私もそっと手を合わせました。


「リコリスさんのスープは絶品ですわね。毎日でも食べたいくらい。ぜひ、わたくしのお嫁にいらしてくださいまし!」

 虎子様が冗談めかして、しかし真剣な目でそうおっしゃるので、私は照れてしまって俯くことしかできません。

 皆さんが私の料理を「美味しい」と言ってくださる。ただそれだけで、胸の奥が温かくなるのです。


 和やかな朝食の中、自然と今日の予定についての話になりました。

 虎子さんは、ギルドで受注した高難易度クエストのため、今日から一週間ほど遠征に出るとのこと。

 アカリちゃんは今日、アーサー様と壁の外へ出て、明後日から本格的に「帰らずの森」へ。

 そして、私となまず様は、グラちゃんとシモ様と一緒に、私の声の手がかりを探しに「世界の裏側」へと旅立ちます。

 皆、それぞれの戦いに赴くのです。


「アカリよ」

 なまず様が、神妙な顔つきでアカリちゃんに向き直りました。

「本当はお主のピクニック、ワシもついて行きたいのじゃが…今回だけはリコリスを優先させてくれ。すまぬ」

 そう言って頭を下げるなまず様に、アカリちゃんは「大丈夫だよ!」と力強く頷きました。

 その笑顔は、不安よりもなまず様と私を想う優しさに満ちています。


「これは、ワシからのお詫びの印じゃ」

 なまず様がヒレを掲げると、その先に、昨日アカリちゃんに吸い込まれた禍々しい紫色の光とは違う、温かく、そして神々しい黄金色の光の玉が現れました。

「お主をあらゆる脅威から守るための『式』じゃ!昨日夜なべをして作った最高傑作!名付けて『なまず式時間凍結結界なまずタイムバリア』!」 なまず様の説明によると、この式は、発動した瞬間、半径3メートル以内の時間を完全に停止させる、絶対的な防御結界なのだそうです。

 いかなる力も、因果律さえも、その境界を超えることはできない、と。

「す、すごい!もしかして、コレって無敵じゃない!?さすがなまず様!出来るなまず!!ありがとう!」

 アカリちゃんが目をキラキラさせて喜ぶと、なまず様は「そうじゃろう、そうじゃろう!この式に干渉できる存在なぞ、この宇宙に何人もおらんはずじゃ!」と、それはもう得意げに胸を張りました。

「まぁ、今はまだ結界を張れないから意味は無いが、結界を張ることが出来るようになれば応用で行けると思うぞ!」

「うん!なまず様!私がんばるね!!」

「素晴らしいですわ!最高ですわ!!」

 虎子様も一緒に手を叩いて喜んでくださっています。


 止まった時間は、どうやって動かすのでしょう……?

 そんな疑問が、あたしの脳裏をかすって行きました。

 みんさんの笑顔を見ていると、なんだか野暮な気がして、私はそっと胸の奥にしまいます。

 きっとなまず様はそんな簡単な事なんてお見通しのはずです。


 朝食の後、アカリちゃんはアーサー様の元へ向かうことになりました。

「それじゃあ、行ってきます!次に会えるのは4~5日後くらいになるかもしれないけど、お互い頑張ろうね!」

 アカリちゃんが差し出してくれた手を、私は笑顔で、力強く握り返しました。

 言葉はなくても、心は繋がっている。

 そう感じました。


 アルマン黒爵様の元から逃げ出し、絶望の淵にいた私。

 そんな私を救い、温かい居場所と、かけがえのない仲間を与えてくれた、なまず様と、みんな。

 今度は、私が自分の足で未来を掴む番です。


 それぞれの旅立ちの朝。

 空はどこまでも青く、私たちの未来を祝福してくれているようでした。


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