079 アーサー、ギルド会館の扉を開ける
079 アーサー、ギルド会館の扉を開ける
重厚なオーク材のギルドの扉を、俺はそっと開いた。
その瞬間、文明社会のそれとは思えない、むせ返るような熱気と汗と、そして微かな血の匂いが、俺の嗅覚を殴りつけた。
俺は、一言も発さず、再びそっと扉を閉めた。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。
振り返り、後ろにいる一行に向かって、作りうる限り最高の笑顔を顔に貼り付ける。
「よし、予定変更だ!美味いものを奢ってやるから、ギルド見学は来週にしよう!新しくできたカフェに、雲まで届きそうな『特大ギガントパフェ』ってのがあってだな…!」
「「ブーーーーーッ!!」」
なまずとグラ嬢から、子豚の大合唱のようなブーイングが飛んでくる。
だが、俺の全細胞が、長年の苦労で培われた危機察知能力が、けたたましく警鐘を鳴らしているのだ。
今すぐここを離れろ、と。
普段のギルドは、ハンターたちの野太い声が響きつつも、どこか落ち着いた、役場のような雰囲気を保っている。
それがどうしたことか。今はまるで、非合法の地下闘技場のメインイベント、世紀の一戦がまさに始まらんとする、異様な興奮状態に陥っていた。
無理だ。絶対に無理だ。
こんな煮えたぎるマグマのような場所に、なまずとグラ嬢という制御不能のニトログリセリンを連れて行くなど、燃え盛るキャンプファイヤーの中に爆弾を投げ込むような愚行だ。
「嫌じゃ!今、見たい!今すぐ見たいのじゃ!」
「ちょこっとだけ!先っぽだけ先っぽだけ!」
グラ嬢となまずが駄々をこねるが、ここで折れるわけにはいかない!この防衛線を突破されたら、俺の平穏な日常は完全に終わる!
「ギルドは今、年に一度の大掃除で忙しいんだ!だから来週の方が面白いぞ!それに特大ギガントパフェはあと一時間で限定数が売り切れる!完食したらナンバー入りのギガントメダルがもらえるんだぞ!」
「メダル」という言葉に、なまずの髭がピクリと反応した。
よし!行ける!あと一押しだ…!
このままパフェの魅力で言いくるめ、確実にこの場から離脱しなければ…!
そう俺が勝利を確信しかけた、その時だった。
ギルドの扉が内側から勢いよくバンッ!と開き、中から涙目の受付嬢が転がり出てきた。俺の担当でもあるアイだ。
普段は折り目正しく着こなしているギルドの制服は乱れ、きっちり結い上げているはずの亜麻色の髪も数本ほつれている。
彼女は、救世主を見つけたような顔で俺に駆け寄ると、すがるようにその服の裾をガッシリと掴んだ!
「よかった!アーサーさん!!お願いです、虎子様を止めてください!!」
やめろ!お前の担当は「黒騎士」だとギルドの誰もが知っているんだ!そのお前が、ただの一般市民であるはずの俺に泣きついてどうする!勘のいい奴に俺が黒騎士だと気づかれたらどう責任を取るつもりだ!
俺は眉間に深い渓谷を刻み、アイの手を振りほどこうとする。
だが、彼女は火事場の馬鹿力か、あるいは「黒騎士様を逃してはならない」という使命感か、テコの原理でも使っているのか、びくともしない。
「いきなり虎子様がアカリちゃんを連れてきて『明日までにこの子にライセンスイエローを発行してくださいまし』って無茶を言い出して、ギルドマスターは不在で、副ギルドマスターが対応してたんですけど、なぜか『帰らずの森』への護衛選抜トーナメントが始まっちゃって!『虎子様にしばかれたい隊』と『黒騎士様を守り隊』の皆さんが殺し合い一歩手前の模擬戦を始めてしまって、もう大変なんです!!」
このままだと俺が逃げると思ったのだろう、アイは俺のシャツを掴みながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、しかし驚異的な滑舌で現状をまくし立てた。
その瞳には「絶対に逃がさない」という鋼の意志が宿っていた。
よくわからないが、ヤバいことだけは理解できた。
帰ろう。
あっ、駄目だ。
グラ嬢となまずの目が、星々のようにキラキラと輝いている。
商店街でたまにやってる贔屓の戦隊ショーの開演前の子供の顔だ。
俺の脳がこの状況を打破するための交渉カードを必死に検索するが、検索結果が表示される前に、グラ嬢が俺の脇をすり抜け、その小さな手でギルドの扉を開けようとする。
ご丁寧に、いつの間にかリコリス嬢の腕からヌルリと抜け出したなまずが、グラ嬢の頭の上にちょこんと乗っていた。
開かれていく扉の隙間から漏れ出す熱気が、俺の頬を撫でる。
その光景が、やけにゆっくりと見えた。
扉の向こうは、もはや俺の知っているギルドホールではなかった。
普段なら、磨き上げられた大理石の床に、依頼書が整然と貼られた掲示板、そして重厚なマホガニーのカウンターが落ち着いた雰囲気を醸し出す、少し高級なホテルのロビーのような空間だ。
だが今は、テーブルや椅子は壁際に無造作に積み上げられ、中央には巨大なサークルができていた。
まるで、神聖な儀式でも行うかのように。
そして、その中央では、筋肉の塊と筋肉の塊が、熊同士の殴り合いのような原始的な戦闘を繰り広げている。
フロアの奥には、虎子とアカリの姿が見えた。椅子に座ったアカリは、思考停止したような呆けた顔で、魂が半分ほど口から抜け出している。その横で虎子は、どこか妖艶な笑みをたたえ、頬に手を当てて男たちの戦いをうっとりと眺めている。
周囲では、熱気に浮かされたハンターたちが、声援か野次か分からない怒号を飛ばしていた。
なまずとグラ嬢は、そのカオスに吸い込まれるように、何の抵抗もなく観客の中に溶け込んでいく。
そして、目に無数の星を浮かべながら、中央で戦う男達に「いけー!」「もっと殴り合えー!」とエールを送り始めた。
リコリスが、どこか不安そうな顔で、申し訳なさそうに俺の横に寄り添ってくる。
絶望に震える俺の腕を落ち着かせるように、腕の中の肉塊がその触手を優しく俺の腕に絡めてくる。
アイが、ほとんど半泣きで俺に囁いた。
「虎子様が『最も強い者をアカリちゃんの護衛につける』って…!優勝者には虎子様と黒騎士様が直々に稽古をつけてくださるって…!
それをみんな拡大解釈して、『虎子様や黒騎士様の弟子になれる!』、特に『黒騎士様を守り隊』の人たちは『ご尊顔を拝めるチャンスだ!』って…!死人が出ていないのが不思議なくらいの激闘を…!」
俺は信じられないという顔でアイを見た。
確かに俺は虎子に護衛を探してくれとは頼んだが、なぜ、このような蟲毒じみた方法で護衛を選抜しているんだ?
俺の頼み方が悪かったのか?
「アーサーさん、良いんですか!?このままじゃ、優勝者に黒騎士の正体を明かさないといけなくなりますよ!?」
「なんだと!?俺はそんな話、聞いていないぞ!」
「聞いていなくても、もう無理です!見てください、あの皆さんの雰囲気!何か変ですよ!?」
確かに、中央で戦う男たちのみならず、周囲で叫んでいる観客達も、瞳孔が開き、どこかトランス状態に近い。
まるで、虎子という名の妖花が放つ甘い毒に、理性を侵されているようだ。 「アーサーさん、どうするんですか!このままだと、あの二人のどちらかに正体を…!」
アイの悲痛な叫びで、俺はハッと我に返った。
中央では、血と汗にまみれた二人の男が、朦朧としながらも拳を振るい続けている。
だが、どう見ても体格の勝る大男の方が優勢だ。決着は近い。
まずい。このままでは本当に、俺の平穏な日常が終わる。
だが、ここに黒騎士の鎧はない!
アーサーとして素顔で戦うなど論外中の論外だ!
焦る俺の視線が、虎子のそれと交差した。
彼女は、俺に向かって、にっこりと優雅に微笑んだ。
(もうすぐ、最強の戦士が誕生いたしますわ。どうぞ、お楽しみに)
その視線には確かにそのような意思がのせられていた。
何言っているんだ?この女は?
ふいに観客たちの声援が一層強い物になった。
もはや迷っている時間も無い!
ええい!こうなれば仕方ない!!
俺は、現在この場で取りうる、最短にして最悪かもしれん解決方法に手を伸ばした!
これが正解なのか、それとも地獄への片道切符なのか。
それを考える時間は、残念ながら、俺には与えられてはいなかった。




