071 アカリ、ほっぺをつねられる
071 アカリ、ほっぺをつねられる
遠くで誰かの声が聞こえる……。
アレ? 私って、誰だっけ?
あれ?
今、私、ほっぺを思いっきりつねられてる! 痛い痛い痛い! 誰!?
うっすらと目を開けると、黒い髪の精悍な顔立ちの外国人男性と、同じく黒髪の息をのむような美女が、ものすごく心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「アカリ、聞こえるか?アカリ?」
アーサーさんの声だ。
「アーサー様、わたくし、こう見えて人工呼吸の心得がございまして…」
「うるさい、黙れ!アカリ!しっかりしろ!」
アーサーさんの怒声と共に、私のほっぺはさらに強い力でつねり上げられる!
痛い!
アーサーさん!
本気で痛いって!!
ボーっとしていた頭が、その強烈な痛みで徐々に覚醒していく。
そうだ、私、アカリ。異世界に来ちゃった普通の女子高生。
そして、さっきまで……。
アーサーさんがお昼ご飯の準備をしている間、結界の練習をしようと思って、アーサーさんの超絶技巧逆立ちを真似してたら、虎子さんが現れて。
リコリスちゃんの声のこととか、私の結界の修行の話になって、なぜか虎子さんが修行に付き合ってくれることになったんだ。
虎子さんが、まるで手品みたいに綺麗な刀を取り出して……。
そして、あれ?
そしたら、その刀が私の顔面に……刺さった?
いや、刺さってはいないはずだけど、なんかこう、目の前で刀がブンブン振り回されて、あまりの速さと迫力に、私の脳みそが処理を放棄したような……。
走馬灯が見えた気がする。
幼稚園の時の私、小学校の運動会でリレーに出てた私、異世界に来て粘液まみれで色々あった私、パッパカパッパカ脳内を駆け巡って……。
虎子さんの雰囲気がガラッと変わって、まるで戦場に咲く黒百合みたいに、美しくて、恐ろしくて……。
その刀が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、私を真っ二つに……???
「アカリ!!しっかりしろ!!」
私の支離滅裂な思考に、アーサーさんの慌てた大きな声が雷みたいに割り込んできて、完璧に私の意識は現実と繋がった。
「はっ!?」
あれ?
私の顔、無事?
慌てて自分の顔を手でペタペタと確認する。
鼻もある、目もある、まつ毛も……ある! よかったー!
「アカリ!アカリ!この指は何本に見える?」
アーサーさんが、目の前に指を三本立てて見せてくる。
「三本です!」
「そうか、良かった……」
私の返事に、アーサーさんは心底安心したように、ふぅーっと大きなため息をついて私から離れた。
その顔には、疲労の色が滲んでいる。
ご、ごめんなさい、アーサーさん……。
「申し訳ございませんでした、アカリさん。わたくしったら、つい力加減がわからず、アカリさんに怖い思いをさせてしまいましたわ」
虎子さんが、それはもう美しい大和撫子のお手本のような謝罪をしてくる。
そのたおやかな姿からは、さっきまでの鬼神のような迫力は微塵も感じられない。
このギャップが怖いんですけど!
私は虎子さんの謝罪を受けながら、そういえばアレクさんが「虎子さんには気をつけろ。マジで死ぬぞ」って言ってたのを、頭の片隅でぼんやりと思い出した。
アレクさんの忠告、もっと真剣に聞いとけばよかった……。
「ですが、アカリさん!最後に小さいですが、確かに結界が張れておりましたよ!あと何回か今の修行を繰り返せば、結界は完全に習得できると思いますわ!」
目をキラキラさせて、期待に満ちた表情で私を見てくる虎子さん。
その瞳は、まるで「素晴らしい才能ですわ!わたくし、アカリさんの才能を開花させるためなら、どんな厳しい修行でも喜んでお付き合いいたしますわ!」と語っているようだ。
(いや、無理だから!絶対無理だから!)
虎子さんのあの剣技、理解不能なレベルで凄まじかった。
刀が振り下ろされる瞬間、空気が歪んで、時間の流れがおかしくなったような感覚。
死、という概念が、リアルな手触りをもってすぐそこまで迫ってきたあの恐怖。
走馬灯で見た、なまず様の粘液まみれで異世界にダイブした瞬間とか、アポロン様の神々しさに土下座した記憶とか、そういうのが霞むくらいの強烈な体験だった。
あんなの何回も繰り返したら、私のSAN値がゼロどころかマイナスに振り切っちゃう!
「ストップだ、虎子。アカリの中にはなまずが仕込んだ真空爆弾もある。お前の修行だと、間違ってそっちが発動するかもしれん」
ナイスタイミング、アーサーさん!
私の心の叫びが聞こえたの!?
「そうですか……それは少々厄介ですわね。それでしたら、五感を潰して逆さ吊りにして、滝壺にでも放り込んでみましょうか?あるいは、魔獣の巣穴に単身で…」
虎子さんが、物騒すぎる修行方法を真剣な顔で考え始めている!
やめて!
それ、修行じゃなくて拷問だから!
「いやいやいや、良いです、遠慮します!虎子さんも明日からお仕事なんでしょ?その準備をしに来たんじゃないんですか?私、午後からアーサーさんに修行つけてもらうって、もう約束してるんで!」
私は必死の形相で、アーサーさんに向けてバチバチとウインクの救難信号を送った。
お願いアーサーさん!このままだと私、虎子さんの愛のムチ(物理)で再起不能になっちゃう!
アーサーさんは、私の必死のウインクを見て、やれやれといった感じで深いため息をつき、ようやく助け舟を出してくれた。
「そうだ、虎子。明日はアカリを壁の外に連れて行く予定だ。午後はその準備だな。アカリに現実を見てもらって、心構えを整えてもらうつもりだ」
アーサーさん、ありがとう!
やっぱり頼りになる!
そのぶっきらぼうな優しさが、今の私には後光が差して見えるよ!
「あら?ハンター登録ですの?」
虎子さんが、意外そうな顔でアーサーさんを見る。
「そうだ。壁の外に出るには、いろいろとライセンスがいるからな」
「それでしたら、わたくしがご一緒しましょうか?アーサーさんは、例の鎧を着てハンターギルドへ行くおつもりでしたの?」
虎子さんの言葉に、一瞬アーサーさんの眉間に深いシワが寄った。
何かを天秤にかけているような、難しい顔だ。
そして、何かを決意したように、小さく頷いた。
「……ああ、もしよければ、アカリの登録を頼めるか?その間、俺はアレクに頼まれたピクニックの準備をさせてもらう」
それを聞くと、虎子さんの表情が、ぱあっと花の蕾が開くように華やいだ。
「あらあら、それでしたら、1時間ほどお時間をいただけませんか?瓦礫に埋まっています私の具足を、なまず様に見ていただきたいのですわ。アカリさんのハンター登録は、その後でわたくしが責任をもって」
その笑顔は、どこまでもたおやかで美しい大和撫子そのものだった。
さっきまでの鬼神っぷりはどこへやら。
そんな訳で、1時間後に診療所に集合ということになった。
私は、アーサーさんに言われた通り、診療所の庭先で再び逆立ちをしながら、虎子さんへの認識を少しだけ、ほんの少しだけ変えることにした。 (虎子さん……普段はあんなに優しくて綺麗な人なのに、スイッチが入るとああなっちゃうんだ……。ギャップ萌え……いや、萌えてる場合じゃない!気をつけよう、虎子さんのスイッチは、絶対に押しちゃダメだ……!)
そして、アーサーさんの頼もしさを再確認し、午後の特訓への期待と不安を胸に、私はプルプルと震える腕で逆立ちを続けるのだった。




