060 なまず、再び立ち上がる
060 なまず、再び立ち上がる
三つの手とヒレが固く結ばれた瞬間、部屋の中に、温かく、そして力強い希望の光が満ち溢れたような気がした。
絶望の淵から、再び立ち上がる時が来たのじゃ!
ワシとリコリスは、グラの力強い言葉と、その小さな体に宿る底知れぬ知性に、改めて感服しておった。
この頼もしい小さな賢者がおれば、どんな困難も乗り越えられる!
そう確信したワシは、改めてグラに問うた。
「グラよ!リコリスの声を奪った『契約の相手』とは、一体何者なのじゃ?そして、その声はどこに『保管』されておるというのじゃ?」
ワシの問いに、グラは先ほどまでの快活な表情から一転、眉間に深いシワを寄せ、難しい顔で腕を組んだ。
その場の空気が、再び張り詰める。
まるで、深海にでも迷い込んだかのような、重苦しい圧力がワシらを包む。
「うむ……ズル=ゴーモンが視た断片的な情報と、妾の知識を照らし合わせた結果、恐らくじゃが……」
グラは一度言葉を切り、ワシとリコリスの顔を交互に見つめた。
その瞳には、今まで見たことのないような、深い警戒の色が浮かんでおる。
まるで、禁断の知識の扉を開こうとしておるかのように。
「犯人は、この世界の表側にはおらぬ。世界の『裏側』……あるいは『狭間』と呼ばれる、光も届かぬ混沌の領域に潜む、『悪魔』と呼ばれる存在の可能性が高い」
「あ、悪魔じゃと!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしもうた。
悪魔とは、また物騒な、そして途方もない話になってきたわい!
リコリスも、ワシの腕の中で息を呑み、その小さな体がこわばるのを感じた。
彼女の心に、新たな恐怖が影を落としたのが分かった。
「妾も悪魔なんで分かるんじゃが、命や魂を代償に契約を用いて望みを叶える、今回の件やり方がすごく悪魔っぽい手順を踏んであるの、しかも、契約者は他人の声を代償に自ら望みを叶えておる、よほど巧みに契約を結んでおるのだろうよ」
グラの説明に、ワシはゴクリと喉を鳴らした。世界の裏側……悪魔……。ワシの知る、この穏やかな(?)異世界とは、あまりにもかけ離れた、おぞましい存在じゃ。
リコリスの過去に、そんな存在が関わっていたというのか……!
「そ、その悪魔は、一体どこにおるのじゃ?名前は?姿形は?ワシが今すぐ乗り込んで、リコリスの声を返させちゃる!」
ワシが憤然と問い詰めると、グラは静かに、しかし重々しく首を横に振った。
「残念ながら、そこまでは分からぬ。世界の裏側は容易には干渉できぬ領域じゃ。悪魔どもは、蜘蛛の巣のように複雑な次元の狭間に潜んでおるからのぅ。じゃが……」
グラは、ふと何かを思いついたように、ポンと手を打った。
その瞳に、一筋の光明が差したように見えた。
「奴らの居場所を直接知ることはできずとも、リコリスの声が『保管』されておる場所の手がかりなら、あるいは見つけられるやもしれん」
「なんと!それは誠か、グラ!」
ワシは思わず身を乗り出した。
リコリスも、暗闇の中で一条の光を見出したかのように、期待に満ちた目でグラを見つめておる。
「うむ。この世界には、ありとあらゆる事象、過去から未来に至るまでの全ての『記録』を司る、特別な異空間が存在しておる。アカシックレコード、星の記憶、呼び名は何でもよい。その空間を管理し、禁断の記録すら閲覧する権能を持つ者がおるのじゃ」
「記録を司る空間……管理する者……」
まるで神話の時代の、世界の根源に触れるような話じゃ。
じゃが、グラの言葉には、揺るぎない確信がこもっておる。
「その管理者に心当たりがあるのじゃ。古の契約によって、知識の探求と記録の保存を至上の喜びとする、かのソロモン王に仕えた七十二柱の悪魔の一柱……名をパイモン。序列九位にして、地獄の西方を統べる恐るべき王の一人じゃ」
ソロモンの悪魔……パイモン……!
その名を聞いた瞬間、ワシの背筋にゾクリとした悪寒が走った。
それは単なる恐怖ではない。
むしろ、これから始まるであろう壮大な戦いへの武者震いに近い、高揚感じゃ!
強大な敵、未知の世界、そしてリコリスを救うための困難な道のり……。
冒険の匂いがプンプンするではないか!
ワシの神としての血が、久方ぶりに騒ぎ始めておる!
「そのパイモンとかいう悪魔に会えば、リコリスの声のありかが分かるというのか!?」
「確実とは言えぬが、可能性は高い。パイモンは『記録』の悪魔。過去のあらゆる契約、あらゆる出来事の記録を保持しておると言われておる。リコリスの声を奪った契約の記録も、あるいは……。じゃが、相手は気位の高い地獄の王じゃ。素直に協力してくれるかは分からぬ。相応の対価を要求されるやもしれんし、下手をすれば……魂ごと喰われ、永遠にその書庫の飾りとなるやもしれんぞ?」
グラはそこで言葉を濁したが、その意味は痛いほど伝わってきた。
悪魔との取引は、常に破滅と隣り合わせじゃ。
じゃが、ワシの心は既に決まっておった。
リコリスのためならば、たとえ地獄の果てであろうと、悪魔の王であろうと、恐れるものなど何もない!
このワシの全てを賭けて、必ずやリコリスを救い出してみせる!
「よし、グラ!そのパイモンという悪魔に会いに行くぞ!案内せよ!」
ワシが力強く宣言すると、リコリスもまた、固い決意を秘めた瞳で、コクンと力強く頷いた。
その小さな手は、ワシのヒレを強く握りしめておった。
グラは、そんなワシたちの様子を見て、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
その瞳は、まるでこれから始まる遊戯を心待ちにする子供のようでもあり、全てを見通す賢者のようでもあった。
「フフ……そうこなくてはな!それでこそ、妾が見込んだ者たちじゃ!よかろう、案内してやろう。じゃが、心しておけ。これより先は、お主たちの想像を絶する領域じゃ。生半可な覚悟では、魂ごと喰われかねんぞ?妾でも、助けられる保証はないからのぅ」
グラの言葉には、警告と、そしてそれ以上の期待が込められておるように感じられた。
世界の裏側、記録を司る異空間、そして地獄の王パイモン。
リコリスの声を取り戻すための、新たな、そしておそらくは最も困難な冒険が、今、始まろうとしておった。
ワシは、リコリスをギュッと抱きしめ、まだ見ぬ強敵との戦いに、心の底から武者震いするのを感じておった。
やってやろうではないか!この大鯰様なまずの実力、そしてリコリスを想うこの熱き心、見せてくれるわ!




