039 黒爵の思惑
039 黒爵の思惑
重厚なカーテンが閉ざされた部屋は、昼だというのに薄暗く、高価な調度品だけが鈍い光を放っていた。
部屋の中央には、黒檀で作られた巨大な執務机があり、その奥にアルマン黒爵は座していた。
彼の膝には、メイド服に身を包んだ若い女性が座っている。
彼女は獣人の中でも特に高い戦闘力を誇る虎獣人のはずだが、今はその鋭い爪も牙も隠し、まるで発情期に入った猫であるかのように、トロンとした瞳で黒爵に体をこすりつけている。
一般的には虎の獣人は孤高の武人のような存在で、決してこのように男に媚びを売るようなことはしない。
しかしながら彼女は、甘えた声で喉を鳴らし、幸せそうに黒爵に身を委ねている。
異様という他なかった。
黒爵は、右手で女性の柔らかな頭を優しく撫でながら、左手で自分のあごに手を当てて思案にふけっていた。
彼の目の前、机の上には、逃げ出したリコリスが残した粗末な荷物が広げられている。
古びた下着に、幾度も繕われたワンピース。
その中で、黒爵の目を引いたのは、一本の柘植の櫛だった。
歯が欠け、艶などなくなった、一見すればただの安物に見える櫛。
しかし、黒爵はそれを手に取り、指先でなぞった。
その感触は、決して安物ではない、しっかりとした作りの証だった。
そして、なかでも黒爵の興味を最も強く引いたのは、櫛の根元にひっそりと記された紋章だった。
それは、黒爵よりも上位の爵位を持つ、とある青爵家――月影家の紋章だったのだ。
「ほう……これは、また凄い物が釣れてしまったな」
黒爵は、櫛を見つめながら口元を歪めた。
単なる没落貴族の娘かと思いきや、まさか青爵家、それも月影家の紋章を持つ品を持っているとは。
厄介な、しかし同時に非常に価値のある情報だった。
リコリスという「仔猫ちゃん」は、自分が思っていたよりもずっと、複雑な事情を持っているのかもしれない。
ノックの音が、思案を破った。
「入れ」
黒爵の声に促され、一人の女性が入ってきた。
美しい顔立ちだが、その顔の半分には痛々しい大きな傷跡が走っている。
彼女は部屋に入るなり、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、黒爵様。リコリス嬢のお迎えに失敗いたしました」
その場で切腹しろと言われれば、そのまま切腹してしまいそうな、真っ青な顔で謝罪する女性。
黒爵の膝の上の虎獣人女性の眉間に微かに皺が寄った。
彼女が何か言いかけた時、黒爵がそれを遮るように言った。
「それよりも、もう一人のリンドウはどうしたのですか?」
リンドウ、それは今回リコリスの受け取りに向かわせたもう一人の部下の名だ。
彼女もまた、獣人の中でも優れた戦闘能力を持つ豹獣人だったはず。
「リンドウは現在治療中です。リコリス嬢についていた女が思いの外手練れで、軽い負傷を負ってしまいました」
傷の女性はさらに恐縮して話す。
リンドウが負傷するほどの相手。
それは、ただの護衛ではないだろう。
黒爵はそれを聞いて、舌で唇をぬるりと舐めた。
「それはそれは大変だったな。あとでたくさん労ってやらねばな」
口の端を歪めるその表情には、労いと共に、どこか歪んだ愉悦の色が浮かんでいた。
傷の女性は、さらに顔色を失い、震える声で言った。
「次こそは必ずや、リコリス嬢を黒爵様のもとへ」
それを聞いて、黒爵は机の上の柘植の櫛に目をやった。
「状況が少し変わった。この櫛について詳しく調べなさい。月影家の紋章だ。それで、今回の失態は無かったことにしてやろう」
彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がると、窓辺まで歩いて窓の外を眺めた。厚いカーテンの隙間から漏れる僅かな光が、彼の顔を照らす。
「私の考えが正しければ、リコリスの子猫ちゃんは私が思っていたよりもずっと掘り出し物かもしれない」
そう言って、黒爵は嬉しそうに顔を歪ませながら、また、ぬるりと舌なめずりをした。
彼の目は、獲物を見定めた捕食者のように、暗い光を宿していた。




