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異世界で喫茶なまずはじめました。  作者: カニスキー
第一章 始まりの物語
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003 リコリス、馬車に揺られる

003 リコリス、馬車に揺られる


 ガタタン、ゴトン、と不快な振動と音を立てて揺れる馬車の中、私は窓の外を虚ろに流れていく景色を、まるで魂を抜き取られた人形のように見つめていました。

 先程まで窓ガラスを叩いていた激しい雨は、いつの間にか止んでいました。

 雫が伝う窓の向こうには、しっとりと濡れた灰色の街並みが物悲しく後方へと過ぎ去っていきます。


 一体どこへ連れて行かれるのでしょう。

  けれど、この先に待つ場所が、あの屋敷と同じか、それ以上に辛い場所であることだけは、確信できてしまいました。

「何をそんなに怯えているのだね、仔猫ちゃん。」 向かいの席に座っていらっしゃるアルマン黒爵様が、甘ったるい声で囁きかけます。

 その目がじろり、と這うようにわたくしの顔から首筋、そして僅かに開いた胸元へと、粘りつくような視線を送ってくるのを感じ、思わず身がすくみました。


「我が屋敷にはな、お前さんのような愛らしい『仔猫ちゃん』が、それはもう沢山おるのだよ。皆、最初は少しばかり戸惑っておったが、すぐに慣れて、今では実に楽しくやっておるわい」

 黒爵様はそう言うと、わずかに身を乗り出し、お顔を近づけてきました。

 不快な匂いが混じった甘い息がかかりそうな距離に、私は思わず息を詰めます。

「お前さんも、新しい生活にすぐに馴染めるさ。あの屋敷の思い出も、すぐに忘れさせてやろう」 黒爵様は満足そうに喉を鳴らし、再び舌を出して唇を湿らせました。

 その仕草と、ねっとりとした視線に、全身の肌が粟立つような感覚が走ります。


 私は思わず胸元の服をかき合わせるようにきつく覆い、これ以上ないほど体を隅に押しやり、小さく身を捩りました。

 黒爵様から視線を逸らし、俯いて唇を強く噛みます。

 込み上げるのは、無力な自分への悔しさと、どうしようもない悲しみ。

 こらえきれず、また熱い涙が込み上げてきました。


  ぽたり、と一粒の雫が、膝の上で固く握りしめていたお母様のロケットの上に落ちました。

 その時、私ははっとしました。 涙を拭おうとしてロケットに触れた指先に、微かな、しかし確かな違和感があったのです。 震える指でそっと探ります。


 目を凝らすと、先ほど継母様に踏みつけられたせいか、ロケットの縁に施された細かな飾りの一部が歪み、本体との間にごく僅かな隙間が生まれていました。

(これは……まさか……?)

 私は息を呑み、心臓が早鐘を打つのを感じながら、周囲を窺うように素早く視線を動かします。

 黒爵様はまだこちらを見ていますが、何か別のことを考えていらっしゃるのか、幸いにも私の微細な動きには気づいていないようでした。


  震える指でそっと隙間に爪をかけ、僅かに力を込めます。

 すると、パチン、とほとんど聞き取れないほど小さな、しかし私の耳には雷鳴のように響く音を立てて、ロケットの裏蓋と思しき部分がわずかに開きました。

 そして、その中に、まるで秘密を守るようにひっそりと隠されていたのは――古びて黒ずんだ、小指の先ほどの小さな、真鍮の鍵でした。


 その鍵を目にした途端、わたくしの脳裏に、厚い埃をかぶっていたはずの過去の記憶が、堰を切ったように鮮やかに、甦ります。

 そうです、これは、間違いありません。

 実のお母様が街角で営んでいた、あの小さな、陽だまりのような温かい喫茶店の鍵。

  忘れっぽいお母様のために、お父様が街の職人の方に特別に作らせた、鍵を密かに隠せるロケット。

「いらっしゃい」カウンター越しに笑う優しいお母様の顔、店内にふわりと満ちる香ばしい珈琲の香り、磨き上げられた古い木製テーブルに反射する窓からの柔らかな光……。

 あの家に継母様たちが来る前の、短いけれど、かけがえのない、確かに幸せだった日々の、温かい、温かい記憶。


(帰りたい……あの頃に……あの場所に……!)

 胸が張り裂けそうなほどの強い、強い願いが、絶望で冷え切っていた私の全身を、まるで稲妻のように貫きました。

 忘れかけていた熱が、体の奥底から燃え上がるのを感じました。

 その瞬間、ゴトンッ!と激しい衝撃と共に、馬車が大きく揺れ、急停止しました。


「む? なにごとだ?」

  黒爵様が不審そうに眉を寄せ、窓の外を見ようとしますが、高い位置にある狭い窓からは外の状況がよく見えません。

  御者台に向かって声を張り上げます。

「おい! 何があった!? どうしたのだ、返事をせんか!」


 しかし、御者の方からの返答はありません。

 しん、と静まり返った外の様子に、黒爵様はわずかに焦りの色を見せ、「むぅ…埒があかん。少し様子を見てくる」と吐き捨て、自ら重い馬車の扉に手をかけました。

 黒爵様が扉を開け重い体を乗り出そうとしたその瞬間。

 私の目に飛び込んできたのは、馬車が停まった場所のすぐ脇にある、暗く湿った裏路地への入り口でした。

  雨に濡れた石畳が、建物の深い影になった奥へと、まるで逃げ道を指し示すかのように、誘うように続いています。


(今です……! 今しかありません……!)

 考えるより先に、体が動いていました。

 私は、お母様の形見のロケットと、その中に隠されていた小さな希望の鍵を、祈るように強く、強く握りしめると、男爵が完全に馬車から降りる前の、わずかに開かれた扉の隙間から、飛び出しました。

 そして、一目散にその暗い裏路地へと駆け出します。


「お、おい! 待て! どこへ行く、仔猫ちゃん!」

 後方で黒爵様の驚愕と焦りが入り混じった、金切り声に近い叫び声が聞こえました。


 しかし、わたくしはもう振り返りませんでした。

 ただひたすらに、濡れた石畳を蹴って、暗い路地の奥へ、奥へと、息を切らして走ります。  まるで逃亡するわたくしの姿を隠すように、ぽつり、ぽつりと降り出した雨粒が、あっという間に激しい雨のカーテンとなって降り注ぎます。

 冷たい雨が、頬を伝う涙を洗い流していくようでした。


 手の中の、冷たく硬い鍵の感触だけが、私を突き動かす唯一の確かなものでした。


今日のまとめ

リコリスちゃん、ロケットから鍵を手に入れた

リコリスちゃん、怪しい路地裏へ

御者、あくびをしたら鳥の糞が口に入った

黒爵、リコリスちゃんに逃げられた

黒爵、リコリスちゃんの荷物(櫛とハンカチと下着と服)を手に入れた

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