表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界で喫茶なまずはじめました。  作者: カニスキー
第一章 始まりの物語
2/101

002 リコリス、部屋で泣き崩れる

002 リコリス、部屋で泣き崩れる


 私は屋根裏へと続く軋む階段を乱暴に突き上げられ、物置同然の自室に、まるで物のように放り込まれました。

 そこは部屋というより、屋敷の隅に追いやられた、忘れられた空間です。

 傾いだ天井は息苦しいほど低く、壁には雨漏りが描いた染みが広がっています。

 唯一の窓は小さく、ガラスは薄らと白濁しています。

 隙間風がひゅうと音を立てて絶えず吹き込み、冬は骨身に凍み、夏は蒸し風呂のようでした。

 家具らしいものは何も与えられず、硬い藁が詰められた寝床と、壁際に置かれた古びた木箱が一つあるだけです。

 埃とカビの臭いが混じり合った、淀んだ空気が漂っていました。


 「コレで最後になるんだからね、お友達のゴキブリ達にでもお別れをしておきなさいよ」

 「嫌ですわお姉様、ゴキブリ達も、リコが居なくなってせいせいすると思うわよ」

 お姉様達は、こめかみに響くような笑い声とともに、乱暴に扉を閉めました。


 無情な音を立てて扉が閉められ、独りになると、全身を強張らせていた震えが、ようやくほんの少しだけ和らぎます。

 けれど、安心などできません。

 逃れようのない現実がすぐそこまで迫っていることを思うと、堰を切ったように涙が溢れ出してきました。

 それでも、このままここで泣き続けるわけにはいきません。

 泣いていても、またお姉様たちに引きずり出されるだけです。


 私は深い諦めと共に、震える足で立ち上がり、壁際の木箱へと歩み寄りました。

 それが私の持つ、ささやかな、けれど全てでした。

 蓋を開けると、中には擦り切れて何回も繕って薄くなった下着が数枚と、繕い跡が幾重にも施された古いワンピースが二、三着。

 その古着の間に、大切に仕舞われた小さな布包みがあります。


 祈るような気持ちで、震える指がそれを解くと、中から現れたのは、歯が何本か欠けてしまった古い黄楊つげの櫛と、隅にイニシャルが控えめに刺繍された白いハンカチでした。

 櫛は、優しい笑顔しか思い出せない実のリリアンお母様が遺してくれた、唯一の温かい記憶の欠片。

 ハンカチは、厳格でしたが、その奥に不器用な愛情を確かに感じさせてくれた、今は亡き、ヴィクトルお父様の形見。

 私は、二つの形見を壊れ物を扱うようにそっと握りしめます。


 その場に力なくうずくまり、ひっく、ひっくと嗚咽を漏らしました。

 声にならない、ただただ悲痛な響きだけが、がらんとした貧しい部屋に虚しく吸い込まれていきます。

 屋根裏部屋の小さな窓の外では、毎朝パン屑を分けていた小鳥たちが、心配そうに揺れ動く枝の上から中の様子を窺ってくれていました。


 どれほどの時間が流れたのでしょうか。

 不意に、扉が蹴破らんばかりの勢いで乱暴に開け放たれ、お姉様たちが嘲るような表情で顔を覗かせました。


「あらあら、まだめそめそ泣いていたの?本当にダメな子ね!」

 クロティルデ姉様がわざとらしく肩をすくめてみせます。

「さっさと出てきなさい!黒爵様がお待ちかねよ!いつまで待たせるつもりなの!?」

 ブリュンヒルデ姉様が苛立ちを隠さずに言い放ちます。

「本当にみっともないわ。そんな汚い部屋でうじうじして、だから黒爵様みたいな方くらいしか貰い手が現れないのよ」

 クロティルデ姉様が容赦なく言葉を突き刺します。


 私は、木箱の中身をまとめた小さな布包みだけを持たされて、再びお姉様たちによって部屋から引きずり出されました。

 屋敷の玄関ホールへと、まるで罪人でも連れて行くかのように、乱暴に連れて行かれます。

 今日の玄関ホールは、いつもは広々としているはずなのに、息が詰まるほど冷たく、陰鬱な空気で満たされていました。

 そこには、腕を組み、壁に寄りかかって待つ継母様と、相変わらず唇を舐めながら、粘りつくような視線をこちらに注ぐアルマン黒爵の姿がありました。


 継母様は、私が連れてこられるのを見ると、ゆっくりと前に進み出て、冷たい視線を投げつけてきます。

「…最後に、これを返しておきましょう」

 そう言って、継母様は懐から小さな金属製のロケットを取り出しました。

 それは古びて輝きを失ってはいましたが、私にとっては見紛うはずもない、実のお母様が遺した、大切な、大切な形見のロケットです。


 継母様は、私がこのロケットをどれほど大切に思っているかご存知で、言うことを聞かせるために、ずっと取り上げていたのです。

 継母様は、その大切なロケットを、まるで道端の石でも捨てるかのように、私の足元へぽとりと投げ落としました。


「あっ……!」

 私は、はっと息を呑みました。

 一瞬、恐怖も現状も忘れ、お姉様たちの腕を力任せに振りほどくと、床に這いつくばるようにしてロケットに手を伸ばします。

 しかし、その指先が冷たい金属に触れる寸前、継母様の靴の硬い踵が、無慈悲にもロケットを踏みつけました。

「!」

 私は息を呑み、顔を上げます。


 継母様は冷酷な目で見下ろしながら、一枚の羊皮紙を私の目の前に突き付けました。

「さあ、これにサインをしなさい」

 それは、私が、お父様から正当に受け継ぐはずだったフルーリエ家の屋敷、家具、そしてお母様が愛用していた品々など、両親との思い出が詰まった一切の財産に関する権利を放棄するという契約書でした。

 この家に残る、ささやかな記憶の欠片までも根こそぎ奪い去ろうとする、非情な紙切れです。


「ほら、早くサインなさいよ!」ブリュンヒルデ姉様が背後から急かします。

「ぐずぐずしていると、その大事なロケットがどうなっても知らないわよ?ぺしゃんこになるかもね」

 クロティルデ姉様が意地の悪い笑みを浮かべ、わざとらしく付け加えます。

 私は必死に首を横に振り、足元のロケットに再び手を伸ばそうとしますが、継母様はさらに踵に力を込め、ロケットがみしりと嫌な音を立てました。

「サインをしなければ、このガラクタがどうなっても知りませんよ?」

 継母様の冷酷な脅しと、足元で無残に踏みにじられるお母様の形見。

 まるでお母様が踏みつけられているような、焦りと悲しみが溢れます。

 私に選択の余地など、もはや残されていませんでした。


 差し出されたペンを、震える手で受け取ります。

 涙で視界が滲み、目の前の文字すらまともに見えません。

 それでも私は小さく頷き、契約書のサイン欄に、か細く震える文字で自分の名前を書き込みました。

 羊皮紙に吸い込まれる一筆一筆が、過去との繋がりを、音もなく断ち切っていくように感じられました。


 サインが書き込まれたのを冷ややかに確認すると、継母様は満足そうに契約書を取り上げ、ようやくロケットから足を退けてくれました。

 私は、歪んで傷ついたロケットを慌てて拾い上げ、胸に強く、強く抱きしめます。

 もうこれしか自分には残されていないのだと、力なくその場に泣き崩れました。


「まあ、本当にみっともない。そんなガラクタのために」

「本当に意地汚いのね。だから貰い手も…あら、いらっしゃったんでしたわね、黒爵様というステキな方が」

 お姉様たちは顔を見合わせ、あからさまに嘲りの声を上げて笑いました。

 一通り私を嘲笑い、満足した継母様は、アルマン黒爵に向き直りました。

「さて、黒爵様。これでよろしいでしょう。この子は本日より、あなたの『所有物』ですわ。どうぞ、お好きなようになさってくださいませ」

 まるで、物か何かを売り渡すかのような、感情のこもらない事務的な口調でした。


「うむ」

 黒爵は鷹揚に短く頷くと、控えていた下男の方に目配せしました。

 下男の方は心得たとばかりに、ずしりと重そうな革袋と、異様な紋様が彫られた黒い木箱を差し出します。

 下男の方はまず、金貨が詰まっているであろう革袋をクロティルデ姉様に手渡しました。

 クロティルデ姉様は「まあ!」と甲高い歓声を上げ、金貨の重みを確かめるようにはしゃいでいます。


 次に、下男の方は黒い木箱をブリュンヒルデ姉様に差し出しました。

 ブリュンヒルデ姉様は、それを押し付けられるように受け取ると、一瞬、気味悪そうに眉をひそめ、すぐに母親の後ろに隠すようにしました。

 継母様はその様子を一瞥しましたが、特に気にする風もなく、黒爵に軽く頷いてみせました。


「ふふ…」

 継母様は口元を歪めて笑います。

「もしこの子が、黒爵様のところで子でも成したとしても、こちらにご報告など結構ですわよ。もう、我々とは何の関係もない赤の他人なのですから」

「まあ、お母様ったら!」

「なんて面白いことを仰るの!」

 その心ない揶揄に、お姉様たちも甲高い声を重ねて笑いました。

 私は、ただ唇を強く噛み締め、歪んだロケットを握りしめることしかできませんでした。

 熱い雫が、目頭から静かに頬を伝いました。

 絶望が心を締め付け、涙が後から後から溢れてきます。


「では、黒爵様、あとはよしなに」

 継母様がそう言うと、黒爵は再び下男の方に顎で示しました。

 下男の方は無言で私に近づき腕を掴みます。

 私は抵抗する気力もなく、魂が抜け落ちた人形のように、なされるがままに玄関の外へと引き立てられました。

 外は依然として冷たい雨が降りしきり、世界を灰色に染めていました。

 そこには、黒爵家の紋章らしきものが鈍く描かれた、黒塗りの重々しい馬車が停まっていました。


 下男の方に促され、私は濡れたステップを踏み、馬車の中へと押し込まれます。

 扉が重々しく閉められる直前、私は最後に一度だけ、自分が生まれ育ち、ご両親とのささやかな幸せな記憶が詰まった家を振り返りました。

 薄暗い窓の奥に、嘲笑う継母様とお姉様たちの歪んだ顔が、幻のように見えた気がしました。


 やがて、馬車は軋む音を立てて重々しく動き出しました。

 私は、固く握りしめたロケットの冷たく歪んだ感触だけを頼りに、暗く揺れる馬車の中で、これから自分を待ち受けるであろう未知の、そしておそらくは過酷な運命に、ただ身を震わせるしかありませんでした。


今日のまとめ

リコリスちゃんは母の形見のロケットを手に入れた

継母はお金と何かを手に入れた

黒爵はリコリスちゃんを手に入れた

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ