018 リコリス、喫茶店跡を片づける
018 リコリス、喫茶店跡を片づける
あの後、ヘベ様のお怒りは、それはもう凄まじいものでした。
どこからか年代物の長剣を持ち出してきて、本気でアポロン様やタモン様、そしてなまず様の命を奪おうと振り回していたのです。
まるで嵐のようでした、アポロン様が真剣白刃取りをして、その隙にタモン様が羽交締めして、なまず様が水で拘束しようとしても、へべ様は一瞬の隙を付き、なまず様を蹴鞠の様に蹴り上げ、奇術師のようにタモン様の拘束から流れ、呆気に取られているアポロン様に馬乗りになって、手近な酒瓶で頭を殴打してました。
けれど、一通り暴れた後、ヘベ様は今度は堰を切ったようにわんわんと泣き出してしまって……。
大切な宝物を壊された子供のように、ただただ泣きじゃくっていました。
その姿を見て、あれほど斬りつけられていたアポロン様が、刀で斬られるよりもずっと悲しそうな顔をされていたのが、とても印象に残っています。
結局、飲んでしまったお酒以上に貴重なお酒を探してくる、という約束を皆でする事で、その場はどうにか落ち着きました。
けれど、ヘベ様はひどく疲れた様子で、「あとは任せたわよ、アレク」と言い残し、ふらふらとお店の外へと消えていってしまいました。
そんなわけで、私は今、母が遺してくれた、あの小さな喫茶店の跡地の片付けをしています。
昨夜の戦闘で、お店は見る影もなく破壊され、ただの瓦礫の山になってしまっていました。
どこから手をつけていいのか分からないけれど、それでも、じっとしているよりはましな気がして、比較的小さな瓦礫を選り分けて、少しでもスペースを作ろうとしています。
アポロン様やアーサー様は、「まだ体調も万全ではないだろうから、ゆっくり休んでいなさい」とバーの方へ誘ってくれましたが……皆さんもひどく消耗しているようでしたので、私一人がのんびり休んでいるわけにはいきません。
それに、言葉の出ない私がいても、足手まといになるだけかもしれない……。
そう思って、「私は母の喫茶店を片付けます」と、身振り手振りで伝えて、こちらへやって来たのです。
言葉が出ないので苦労しましたが、きっと、私の気持ちは伝わっているはず……そう信じたいです。
こうして瓦礫を片付けていると、少しだけ、底なし沼のような思考から逃れられます。
でも、手を止めるとすぐに、暗い考えが心を蝕んでくるのです。
これから、私はどうしたらいいのでしょう。
アルマン黒爵様から逃げてきたけれど、あの粘つくような視線が、今も背中に張り付いている気がします。
きっと追手が来る。
見つかれば、今度こそ閉じ込められ、二度と外には出られないかもしれない……。
それに、もし継母様に見つかったら? あの冷たい目で、また「役立たず」「汚らわしい」と罵られ、足蹴にされるのでしょうか。
あの家に私の居場所なんて、もうどこにもないのに。
今夜、眠る場所は? この瓦礫の上でしょうか。
食べるものは? お腹が空いている感覚すら、麻痺しているようです。
お金なんて、一銭も持っていません。
私は、独りぼっち。
誰にも必要とされず、どこにも行く当てがない。
まるで、目の前の瓦礫の山のように、ただここに打ち捨てられているだけ……。
こんなことなら、あの井戸の底で、静かに沈んでしまった方が、どれだけ楽だったか……
そんな考えが、黒い靄のように心を覆い尽くそうとします。
だめだ、考えちゃだめだ。手を動かさないと。
無心に瓦礫を拾い上げ、運ぶ。
その繰り返し。
少し大きな石を持ち上げようとして、バランスを崩し、後ろに尻餅をつきそうになった、その時でした。
ポワンッ
柔らかな何かが、私のお尻の下にふわりと広がって、衝撃を受け止めてくれました。
え……?
スライム……?
いいえ、これは……水?
まるでクッションのような、不思議な水の塊。
私が恐る恐る、その不思議な水のクッションをむにむにと触っていると、ふと、こちらを見ている視線を感じました。
視線の先には……なまず様がいました。
近くの壊れた壁の物陰から、心配そうに、でも少し遠慮がちに、こちらの様子を窺っています。
私が見ているのに気がついたのか、なまず様は慌てたようにサッと物陰に隠れてしまいました。
……助けてくれたのですね。
私は、ちゃんとお礼を言わなくては、と思い、ゆっくりと立ち上がって、なまず様がいるであろう物陰へと歩み寄りました。
物陰に隠れていたなまず様は、私が近づいてくるのを見ると、観念したように姿を現しました。
でも、その目は、なんだかとても弱々しくて……まるで、何か悪いことをしてしまって、お母さんに怒られるのを待っている子供のような目をしています。
私は、できるだけなまず様を怖がらせないように、その目線に合わせて、そっと隣に座り、ペコリと深く頭を下げました。
助けてくれたことへのお礼と、昨夜の無事を喜ぶ気持ちを込めて。
言葉が出ないのが、本当にもどかしいです。
「……娘よ。すまんかったな」
なまず様が、とても申し訳なさそうな声で言いました。
「ここは……お前の、大切な家だったんじゃろ? それを、ワシらの戦いで……」
私は、ふるふると首を横に振りました。
ここは私の家ではなく、母のお店だったのです。
「ん? 違うのか? うーむ、やはり言葉が話せないと不便じゃのう」
なまず様も困ったように、盥の中で体をくねくねとさせます。
「そうじゃ! 文字にしてみよ! この国の文字も、先ほど学習したからの!」
えっへん! と、なまず様が少し得意げに胸(?)を張りました。
私は、近くに落ちていた手頃な木の棒を拾い上げ、地面にゆっくりと文字を書きました。
『ここは 母の みせ でした』
「ほう……母親の店、であったか。では、お主の母親に、まずは謝罪に行かねばなるまいな」
なまず様の言葉に、私の心臓が小さく痛みました。
私はまた地面に文字を書きます。
『母は もう いません なくなりました』
それを見た瞬間、なまず様の動きがピタリと止まりました。
「……なんと……ワシは……ワシは何ということを……」
なまず様の体が、みるみるうちに青ざめていくのが分かりました。
『きに しないで ください』
慌ててそう書き足します。
もう、慣れてしまったことですから。
「いや、しかし……! では、せめて父親殿に……!」
『父も なくなりました』
そう書き加えると、なまず様は盥の中でフラフラと揺れ始め、今にもひっくり返りそうです。
「で、では……そなたの、保護者の方には……?」
消え入りそうな声で、なまず様が尋ねます。
保護者……あの継母様と義姉様たちの顔が浮かび、体がこわばります。
私は少しだけ迷って、そして正直に書きました。
『にげて きました』
それを見たなまず様は、しばらくの間、石のように固まっていました。
そして、恐る恐る、といった様子で盥から這い出すと、私の目の前の地面に、五体投地の姿勢でひれ伏したのです!
「申し訳ない!! 本当に、申し訳ないことをした!! この店は、お主の亡き母君の大切な形見であったのだろう!? そして父君も亡くし、保護者からは虐待を受けておったのであろう!? そのぼろぼろのチチバンドが何よりの証拠じゃ! ワシは! ワシは、そなたの最後の希望すら、奪ってしまったのかもしれん! なんということを!!」
なまず様の言葉は、深い後悔の念で震えていました。
……どうして、なまず様は私の下着のことまで知っているのでしょう。
不思議でしたが、それ以上に、私の境遇をここまで理解し、心を痛めてくれていることに、胸が熱くなりました。
誰も私のことなど気にかけてくれないと思っていたのに……。
五体投地のまま、ぶるぶると震えていたなまず様。
ふと、その震えが止まりました。
そして、ゆっくりと顔を上げたなまず様の目に、先程までの弱々しさは消え、まるで燃え上がるような、強い闘志の光が宿っていました!
「……娘よ! ワシは、決めたぞ! ワシは、やる!!」
なまず様の周りに、メラメラとやる気の炎が見えたような気がしました。
「少し離れておれ!」
有無を言わせぬ力強い声。
私は、ただコクンと頷いて、言われた通りに一歩、後ろに下がるのでした。
今日のまとめとか裏話
へべ、旦那の影響で結構強い
リコリス、ボロボロのチチバンド
なまず、やる気をだす




