101 アレク、大悪魔の前に座る
101 アレク、大悪魔の前に座る
俺は覚悟を決めて、セレスの向かいのソファに腰を下ろした。
魂の芯まで力が抜けるような極上の座り心地が、逆に今の状況では落ち着かない。
目の前の彼女は、先ほどの禍々しくも美しかった黒いボディスーツではなく、動くたびにサラサラと夜の闇が波打つような、上質な薄い生地で作られたドレスを身に纏っていた。
そのドレスは、上品な雰囲気でありながらも、艶めかしく肌に張り付くように仕立てられていて、見るだけで自然と彼女の豊満なボディラインが脳内に浮かび上がってしまう。
しかし完璧な美貌であるがゆえ、先ほど切り落とされた右腕がないという一点の欠落が、強烈な違和感のシグナルを脳内に鳴らし続けていた。
セレスの瞳はどこまでも穏やかだ。
だが、それは嵐の前の静けさ。
その実態は、可憐な野の花が咲き乱れる草原に、無数の地雷が埋め込まれた火薬庫そのものだ。
ここから始まるのは茶飲み話ではない。
茶飲み話の皮を被った、戦後の交渉テーブルなのだ。
よし、切り替えろ、俺。
いつものチャラけた思考はここで破棄だ。
目の前の女は、そこらのチンピラや魔獣とは次元が違う。
これは国家間の、いや、それ以上に厄介な交渉だ。
ここからは大統領として培った冷徹な思考で、一言一句、一手一手に全神経を集中させる。
油断すれば、魂ごと持っていかれるぞ。
「何か、お飲みになりますか?」
セレスはそう言うと、テーブルの上に置かれた銀のポットに左手を伸ばした。
その動きは、慣れない片腕のせいでどこかたどたどしい。
来た!今、心理戦のゴングが鳴った!
俺の庇護欲を誘うための罠かもしれない。
だが、ここは立場上、乗らざるをえない!
「あ、いえ!私がやります!」
俺は慌てて立ち上がり、彼女のカップに透き通った琥珀色の液体を注いだ。
ここで紳士的な対応を見せることが、果たして有利に働くのか不利に働くのか。
思考が高速で回転する。
「うふふ、ありがとう」
セレスは優雅に微笑むと、俺の淹れた茶を一口含んだ。
その唇の動き一つですら、計算され尽くした駆け引きに見える。
俺は自分のカップを手に取り、何気なくソファに腰を下ろした。
その瞬間、しまった、と内心で舌打ちする。
紳士的に振る舞おうと彼女の近くのポットから茶を注いだ結果、俺が座るべき場所は、必然的に彼女との物理的距離が縮まる位置しか残されていなかったのだ。
今更元の席に戻るのは不自然!
迂闊だった!
ここはもう完全に彼女の間合いの内側だ!
カップを置いた彼女は、まるで熟練のホステスのように、巧みに会話の主導権を握り始めた。
「ごめんなさいね、いきなり片腕を失ったからバランスが取れなくって」
セレスは片目をつぶって、お茶目に笑う。
その仕草には一片の気負いもなく、まるで旧知の友人と茶飲み話でもしているかのような、自然で柔らかな空気が流れている。
この場に交渉事など存在しないと錯覚させるほどの、完璧なまでの無防備さ。
もし、これが全て計算された演技なのだとしたら、目の前の女はそこらの魔王など比較にならぬほど、恐ろしい怪物だ。
「この度は大変でしたね」
この女が口にする言葉に無意味なものなど一つもないはずだ。
これは探りか?
それとも、これから始まる交渉の布石か?
どのカードで返すのが正解だ?
下手に弱みを見せれば喰われる。
かといって、ここで強気に出るのは得策ではない。
俺は脳内で数秒間、あらゆる返答パターンをシミュレートし、最も無難で、かつ隙を見せないであろう言葉を選んでセリフを返した。
「今回の件、本当にありがとう。一人の母親として心からのお礼を言うわ」
そう言ってセレスは大悪魔としてでなく、母親として深々と頭を下げた。
その瞬間、俺の視線は重力に従い、彼女の深く開いた胸元へと吸い込まれた。
そして、見つけてしまったのだ。
その豊満な谷間の、ほんの少し左寄りに鎮座する、小さな黒子を。
(あ!おっぱいにほくろ発見!!やったー!)
瞬間的に俺の知能指数はチンパンジーレベルまで急降下し、思考は完全に停止した。
おっと!危ない!!
なんて恐ろしい精神攻撃だ!
「ベレスは長い間子供に恵まれなかった私に、ようやく授かった最愛の娘なのです。可愛くて、愛しくて……あの子の為ならば、私、この首を差し出す覚悟でしたわ」
セレスの瞳は、ただの芝居ではなかった。
そこには、娘のためなら躊躇なく自らの命を差し出したであろう、母親としての絶対的な覚悟が燃えていた。
腕一本を失ったことなど、その決意の前では些細なことに過ぎないのだと、その揺るぎない眼光が物語っていた。
なるほど、あの気位の高い縦ロール娘の母親だけのことはある。
母娘揃って、その芯の強さは筋金入りだ。
「今回の件、あの大魔王グラシャラボラス様を相手に私の腕一本で済んだのは大変な偉業ですわ。さすがは大英雄ヘラクレス様の薫陶を受けた方ですわね」
セレスの言葉に、俺は背筋が凍るのを感じた。 ……なんだと?
ヘラクレス様!?なんでその名前を知ってる!?
誰にも話したことないぞ!?
情報戦で完全に負けてる!
これはヤバイ!ヤバすぎる!
いや待て、落ち着け。
情報の出所は、十中八久グラ嬢だろう。
さっき俺の事を話していたと言っていたじゃないか。
だが、もし違ったら?
もし、セレス自身がこの短時間で俺の素性を丸裸にしていたとしたら?
突発的な事故でこの場に転送された、イレギュラーな存在である俺のことまで……。
だとしたら、こいつが持つ情報網と権力は、俺の想像を遥かに超えている。
相手の目的を早く確定させ対策を練らないと、魂ごと根こそぎ食い尽くされるぞ!
警戒しろ!
セレスの一挙手一投足、言葉の端々まで最大限に警戒しなければ!
まさか、俺の机の二番目の引き出しの二重底の中身まではバレて無いよな!
もし、万が一、見つかってたらアーサーから無理矢理、押し付けられた事にしよう!
「ですが、命が助かったとは言え、あの子が大衆の面前で辱めを受けた事実は消えませんわ」
セレスの瞳がキラリと光る。
来た!本題だ!
「あれは、緊急救命で……!」
俺はしどろもどろになりながらも反論する。
「ええ、分かっておりますわ。これはベレスの身から出た錆。ですが、あの子がこれから衆目に晒され、心無い噂に傷つけられることを思うと、この身が張り裂けそうですの」
セレスの瞳が、真剣な光を宿して俺を射抜く。
その瞳が、ほんの一瞬、気づくか気づかないかというほど微かに、血のような赤色に揺らめいたのを、俺は見逃さなかった。
……なんだ?今の……
「一つだけ、全てとは行きませんが、次善の形で丸く収まる方法がございますの。……貴方が、あの子の夫となるのです」
俺は唾をのむ。
「わたくし、貴方にでしたらあの子を託しても良いとさえ感じておりますの」
セレスの目が真っ直ぐ俺を捕らえる、なぜだろうか、瞳孔に宿る赤い光から目を逸らす事が出来ない。
「そ、それは……種族も違いますし……」
いやいやいや!
託されても困るんですけど!?
今回はヒュドラの毒と解毒薬の奇襲で何とかなっただけなんですけど!
次、あの娘に会ったら殺意マックスの縦ロールドリルで貫かれてゲームオーバーだから!
俺が口ごもると、セレスの瞳が妖しく光った。
その瞳は、もはや隠そうともせず、見る者の理性を溶かすような、深く、甘いルビーの色に染まっている。
「多少気性は荒いですが、私が貴方に逆らわぬよう、みっちりとしつけ直しますわ。想像してごらんなさい?人間より遥かに強く、大悪魔の血を引いた高貴な穢れを知らない少女に、欲望の限りを尽くせるのですよ」
……欲望の限りを……?
一瞬、泣きながら命乞いをするベレスの首を絞めている俺のイメージが浮かんだ!
おかしい!
頭がぼーっとする……。
(でも、確かに……悪くないかもしれない……) ゴクリ、と喉が鳴る。
まずい、何か変だ!
ドロドロとした黒い感情がヘドロのように思考領域に侵入している!
目の前のセレスの濡れた赤い唇や、網膜を焼き付くすような胸元の肌色から目が離せない!
セレスは、俺の動揺を見透かしたように、さらに畳み掛けてきた。
「あら、もしかしてアレクさんは、わたくしのような熟れた果実の方がお好みかしら?こんなおばさんでも、体には自信がございますのよ」
(熟れた果実……。そうだ、それもいい……。この人の言う通りにすれば、俺は……)
セレスのその美しい指が、俺の太ももの内側を、まるで愛撫するかのようにゆっくりと滑ってくる。
その感触に、背筋がゾクゾクした。
言葉に詰まる俺に、セレスはダメ押しとばかりに、良いことを思いついたというように紅い瞳を輝かせた。
「そうですわ!ベレスとわたくしの二人でご奉仕いたしましょう。きっと、魂が溶けてしまうほどの悦楽に溺れることができますわよ。貴方の為にすぐに右腕を繋げましょう。あぁ、今から繋いだ腕で貴方の体温を感じるのが楽しみですわ」
もはや、俺の身体は蜘蛛の糸に絡め取られた虫のように動かない。
セレスの瞳の紅い光が針となり、魂にドクドクと甘美な麻痺毒を注ぎ込んでいるようだった。
「ご存じかしら?英雄の魂が悪魔の器を得た時、それは至高の芸術品となるのです。そうなれば、永遠の肉欲に溺れましょう。貴方はただ首を縦に振りさえすれば良いの、お願い、うなずいて」
やべぇぇぇぇ!!
究極の選択!
いや、選択肢なんてない!これは正真正銘地獄への片道切符だ!
ダメだ!ここで流されたら後戻りは出来ない!!
(悪魔に……俺が!?美女に権力そして永遠の命か、悪く無い)
何これ!?何これぇぇ!!
何か俺の脳内に別の思考が勝手に生まれてるんだけど!!
このままじゃ、頷いちゃう!
英雄悪魔大統領になっちゃう!!
(英雄悪魔大統領か、悪く無い)
のおぉぉぉ!!もう一つの思考と繋がりそう!!
その瞬間、俺はセレスの真の目的に気づいた。
こいつ、俺を悪魔にして、自分の配下に加えようとしてやがる!
セレスの甘い紅い目の輝きが、俺の魂の結び目をゆっくりゆっくり解きほぐしていく!
赤子が必死に抵抗しても母親は優しくオムツの結び目を解きほぐすように、俺の精神の大半は、抵抗虚しくほとんどむき出しになる。
だが、魂の最後の芯のようなところが、英雄としての矜持を叫ぶ!
落ち着け俺!
こんなピンクの誘惑、どうってことない!
そうだ!
こういう時にはアーサーのバニースーツを想像して対抗するんだ!!
アーサー!!俺を助けてくれぇ!!
……脳裏に浮かんできたのは、なぜか頬を赤らめ、はにかみながらモジモジしているバニースーツ姿のアーサー。
その手にはお盆が乗っていて、上目遣いでこちらを見ている!
うげぇぇぇぇぇ!!
気持ち悪い!!
精神が悲鳴をあげながら、おぞましい異物を排除しようと精神世界にゲロを吐く。
思考領域に少しだけ空白地帯が生まれた。
オッケーだ!……少し持ち直した!
だが!
まだ足りない!
脳髄にこびり付いた黒い感情は、アーサーが稼いでくれた思考の領域へ直ぐに再侵略を開始する。
こうなったら、禁断の領域!
アーサーのバニースーツの汚いケツを想像して!
……グフッ!!
ぐわぁぁ!
オロロロロロ……!!
脳内は精神ゲロの大洪水、土石流の如く押し寄せる精神ゲロに押し流されて、精神に絡みつこうとしていたセレスの呪力は彼方へ押しやられていった。
ふぅ、助かったのか?
さすが、アーサーだ!
頼りになる男だ!
おい!やめろ!
勝手に動くな!
腰を前後に振るんじゃねぇ!!!
その精神的な衝撃は、セレスにも伝わったらしい。
彼女は「なっ!?」と驚愕の表情で俺から身を引いた。
俺は、まだ震える声で、しかし毅然として言い放った。
「……そのお申し出、大変光栄に存じます。ですが、お受けすることはできません。申し訳ございません……」
俺の言葉に、セレスは一瞬呆気にとられていたが、やがて、その唇に恍惚とした笑みを浮かべた。
「素晴らしい……!その気高さ!ますます貴方が欲しくなりましたわ!」
彼女の瞳が、先ほどよりもさらに禍々しい血のように濃い深紅に輝く!
「ですが、人間である以上限界がございますのよ。わたくしのこの瞳は『支配の魔眼』。魂そのものに直接命令を下す、抗うことなど許されぬ絶対の力。貴方の高潔な精神がどれほど抵抗しようとも、貴方のむき出しの魂は既にわたくしに跪いているのですわ。さあ、もう一度、私の瞳を見て……」
彼女は再び身を乗り出し、その甘い香りと、抗いがたい魔眼の力で俺の理性を完全に絡め取ろうとした、その時だった。
ふわり、と。
どこからともなく現れた一枚の薄布が、まるで意思を持ったかのように、俺とセレスの間に静かにたなびいた。
モズルだ。 セレスはその薄布に気づくと、ピタリと動きを止め、そして心底残念そうに、しかしどこか楽しげに肩をすくめた。
「あらあら、残念ですわ。どうやら、時間切れのようですわね」
彼女は立ち上がると、俺を見下ろしながら、しかしどこか名残惜そうに言った。
「今はまだ、その時ではないようですわね。ですが、覚えておいて、私の愛しい英雄様。貴方のその気高い魂、いずれ必ず、手に入れて見せますわ」
その瞳には、先ほどまでの甘い誘惑の色はない。 代わりに、決して手放さぬという、より強く、より純粋な執着の炎が、爛々と燃え盛っているのを俺は感じた。
その言葉は、もはや娘へのケジメなどという生易しいものではなかった。
それは、所有権の宣言。
俺の魂に対する、絶対的な宣告だった。
ゲームチェンジ。
わがまま娘に対する戦後交渉という見えない心理戦は、俺が気づかぬうちに、全く別の、より恐ろしいゲームへと変わっていたのだ。




