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異世界で喫茶なまずはじめました。  作者: カニスキー
第四章 表と裏の物語
100/101

100 アレク、常識君が故郷へ帰る。

100 アレク、常識君が故郷へ帰る。


 パイモンの宮殿へ向かう、壮大な移動が始まった。

 空間ごと移動しているらしい。


 車やゴンドラが迎えに来るだろうなんて考えていた俺の常識君は、早々に荷物をまとめて故郷へ帰ってしまったようだ。

 常識君、帰ったら連絡するよ。


 床や壁、天井という区切りはなく、ここはまるで神話世界のプラネタリウム、360度どこを見渡しても心地よい紫色の星雲が渦巻く壮大な宇宙空間が広がっている。

 時折、光の尾を引いて流星が横切り、遥か彼方では名も知れぬ銀河が静かに回転していた。


 そんな神の視点とでも言うべき光景の中に、ハイセンスな黒曜石のテーブルや、座り心地の良さそうな豪奢なソファが、完璧な配置で浮かんでいる。

 試しに腰掛けてみれば、まるでマシュマロか、あるいは出来立ての雲にでも埋もれるかのような、魂の芯から力が抜けていくような極上の座り心地だ。


 少し離れた場所では、見たこともない美しい楽器を携えた楽団が漂いながら、高級ホテルのラウンジで流れているかのような、穏やかで上品な音楽を奏でていた。

 その音色は、母親の胎内にいる時のような絶対的な安心感を魂に直接届けてくる。


 空間の隅には、まるで完璧に作られた彫像のように気配を消したメイドたちが控えている。

 これが……魔界の常識なのか。

 スケールが違いすぎる。神の座とは、あるいはこういうものなのかもしれない。


 そんな非日常空間の中、豪華なソファの上で、リコリスだけが浮かない顔で、ぐったりとしているなまずを膝に乗せ、その小さな体を優しく撫でていた。

 リコリスが一回一回願いを込めて優しくなまずの体を撫でているが、なまずの体はピクリとも動かない。

 まるで、魂だけがどこか遠くへ行ってしまった抜け殻のようだ。


 いつもならピンと張っているはずの髭は、茹ですぎた素麺のように力なく垂れ下がり、時折、苦そうに小さな寝息を立てている。

 自慢のヌルツヤ肌も、今はまるで乾いた粘土のように精彩を欠いていた。


 リコリスの大きな青い瞳が、不安の色に揺れる。

 言葉を話せない彼女は、ただただ、なまずの背中を撫で続けることしかできない。

 その表情は、まるで嵐の夜に迷子になった子猫のように心細げだった。


「どうした、なまず。さっきから元気がないじゃないか。次元転移酔いか?」

 俺が声をかけると、なまずが億劫そうに片目だけを開けた。

「なんじゃ、アレクか……。うむ、こっちに来てから、どうも活力が湧いてこんのじゃ。とにかく、眠くて仕方ない……」

 その声は、まるで古びたラジオから漏れる雑音のようにか細く、途切れ途切れだった。

 いつもなら「ワシは偉大な神じゃぞ」とふんぞり返るはずの威勢はどこにもない。


 これはただ事じゃない。

 俺はリコリスに目で断りを入れ、なまずの体を慎重に調べ始めた。


 脈拍は弱く、呼吸も浅い。

 口を開けてみても、粘膜は乾ききっている。

 外傷は見当たらない。つまり、原因は内側にあるということか。

 まるで、ゆっくりと空気が抜けていく風船のように、なまずの生命力そのものが萎んでいっている。

 俺には医学の心得は無い。こんな時、アーサーがいればと歯がゆく思うが、いないものをねだっても仕方ない。


「本当に辛そうだな。よし、待ってろ。犬耳ドクターを連れてきてやる」

 俺はリコリスの肩をポンと叩き、安心させるように頷くと、この空間で一番良いソファに座り、何やら談笑しているグラ嬢とセレスの元へと向かった。



 ソファに近づくと、なんとも奇妙な光景が目に飛び込んできた。

 中心にふんぞり返っているのは、どう見ても小学生にしか見えない犬耳少女のグラ嬢。

 しかしその実は強力な悪魔達を配下に魔界に君臨する魔王の人柱であるグラシャラボラス。

 その小さな体には全く見合わない、王様のような風格でソファに腰掛け、足をぷらぷらさせている。


 その隣には、いつの間にか着替えたのか、大悪魔セレスが艶然と微笑んでいた。

 さっきまでの禍々しくも美しかった戦闘的なボディスーツ姿とは打って変わって、今は上質な闇色の生地をふんだんに使った、極上のボディラインがくっきりとわかる艶めかしくも上品なドレスを身に纏っている。

 片腕を失いながらも、その壮絶な美貌と威厳は全く損なわれておらず、まるで年の離れた妹にでも語りかけるように、穏やかに、しかしどこか探るような目でグラ嬢と話している。


 そして、そのグラ嬢の背後には、元・肉塊ことモズルが、まるで影のように、しかし圧倒的な存在感を放ちながら静かに控えていた。

 砂漠の踊り子のような儚げな衣装に身を包み、伏せられた三つの目を彩るその長いまつ毛の下の表情は窺えないが、その佇まいは、忠実な護衛のようでもあり、あるいは美しい美術品のようでもあった。


 なんだこの構図……。

 小学生の耳としっぽロリロリ女ボスと、その片腕が無い美人すぎる姐さん悪魔、そして元肉塊の謎の三つ目の踊り子か?


 魔界の人々は容姿が自由すぎる!

 普通のイケメンマッスル大統領である俺の方が、この中じゃ一番の地味なのではないだろうか?

 どうしよう、俺のプレジデントジョークである、「おはようございマッスル!」みたいな鉄板ジョークも、この魔界じゃ「ふぅん、で?」みたいに絶対零度の視線で返されて滑り倒す未来しか見えない!なんて恐ろしい世界だ!まるで魔界だ!


 ……いや待て、一周回って俺の『普通』が一番の個性まであるな。

 よし、俺は『普通』属性でこの魔界を生き抜いてやる!


「おう、アレク。ちょうどよいところに来た。今、お主のことを話しておったところじゃ」

 グラ嬢がケラケラと上機嫌に笑う。

 さっきまでの、魂ごと凍てつかせるような魔王の威圧感はどこへやら。

 そこにいたのは、足をぷらぷらさせながら「今日の晩御飯は花丸ハンバーグが良いのじゃ!」などと、実に平和なことを考えていそうな、いつもの犬耳少女ボスだった。


 オンとオフの切り替えが激しすぎやしないか? 風邪ひくぞ。

 いや、風邪をひくのはむしろ俺なのか?


 そんな事を考えながら、俺はまず、二人の会話を遮ることへの詫びとして、失礼のないように丁寧に頭を下げた。

 これは大統領として培った処世術だ。


「お取り込み中、申し訳ございません。どうやら、なまずが本当に辛そうなので、少し見てやっていただけませんか?」

 話に割り込んできた俺を、セレスはその瞳を妖艶に細めて見つめてきた。

 敵意は無いが何故だろう、脊髄を直接舐められたようにゾクッと来た。


 どうやらグラ嬢も、さっきからなまずのことが気になっていたらしい。

 俺の登場で話は一段落したらしく、グラ嬢がなまずの方に心配そうな視線を投げた。

「ちょうどよい、どれどれ、見て進ぜよう」と、後ろに控えていたモズルに目配せしてソファを立った。

 それに続いて俺もなまずの方へ戻ろうとした、その時だった。


「もしよろしければ、アレクさん。少しお話しませんか?」

 ソファに座ったままのセレスが、俺を引き留めた。


 思わずグラ嬢に視線を送る。

『なまずは見ておいてやるから、アレクはここを頼む。妾的にも、セレスは無視できん相手じゃ。話し相手をしてくれると助かる』

 グラ嬢の目線と犬耳が高度に連携し合い、俺に無言でありながら高い情報量のアイコンタクトを返してきた。

『えーヤダー!俺、この人の娘の後ろの尊厳に無免許で治療行為を施したんですけど!?それを理由に殺されるかもしれないじゃないですかー!』

 俺も負けじと筋肉と目線を使ってグラ嬢に助けを求める。

『多分大丈夫じゃ。お主は一応妾の連れであり、一応娘の命の恩人じゃ。多分、本当に礼を言いたいだけじゃと思うぞ。知らんけど。』

『「多分」とか「一応」って多くないですか?助けて!ヘルプミー!!』


 こいつ、シモ以外の人間は本当に適当なんだよな、私、シモ君の友達!もっと真剣に助けてヘルプ!

 俺は、腕の上腕二頭筋をピクピクと痙攣させ筋肉通信でSOSのサインを送る!

『万が一の事があったら何とかしてやるから安心せい。骨は拾ってやるからの』

『やめて!それ手遅れってやつです!お願い!助けて!』

『ほほほ、がんばるのじゃぞ!』

 グラ嬢は器用にバイバイと犬耳を振って、楽し気に俺だけ残してこの場を去っていった。


 背後から感じるセレスの無言の存在感に、俺の背中に一筋の汗がツーっと流れる。

 おいおい、この前の商業サミットで各国の首脳陣に囲まれた時よりプレッシャーが半端ないんですけど!?

 あの時はまだSPがいた!

 今は俺一人!

 丸腰!

 しかも相手は娘のケジメに腕一本差し出すガチの魔界ヤクザだぞ!

 俺の体中の筋肉が、まるで独立した生命体のように悲鳴を上げ始めた。

 大胸筋は『俺、帰ったらあの娘にプロポーズするんだ』と不吉な事をつぶやきだし、広背筋は『母さん、僕の死亡保険金でうまいものでも食べてくれ』と遺言をしたためはじめ、腹直筋に至っては『我々は無抵抗主義だ!』と白旗を上げて文字通りヘソ天で全面降伏している。


 待てお前ら!

 まだ戦いは始まってもいない!

 俺の筋肉たちよ、まだだ、まだ慌てるような時間じゃない…はずだ!


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