第九章「声なき声、形の奥にて」
囲炉裏の火が落ち着いたリズムで燃えていた。
雨はなお細く、途切れる気配を見せずに降り続いている。
その音を背景に、静かな対話が始まっていた。
清少納言と世阿弥。
陽と陰。詞と舞。
その対話は、まるで異なる世界の鏡が向かい合ったかのような、張り詰めた静謐をまとっていた。
「……それで、“型”に心が宿るというの?」
納言の声は、やや挑戦的だった。だが不思議と尖ってはいなかった。
「はい。型は、心を越えるための“うつわ”です。心は揺れますが、型は残ります。
私は……心を封じることで、観る者の心を開こうとしています」
世阿弥の声は低く、しかし熱を孕んでいた。
「けれど、観る側に委ねるってことよね。それ、責任を放棄してると思わない?」
「……いいえ」
世阿弥は首を横に振る。
「観る者にゆだねるからこそ、私たちは“整える”。舞台の呼吸、光と影、間と間――
すべては、心を“預ける”ための準備なんです」
「ふぅん……私なら、直接伝えるけどね。皮肉も愛情も、ぜんぶ言葉にして残す。
曖昧な期待に頼らない。それが“ことば”の誇りよ」
世阿弥は黙った。だがその瞳は、微かに揺れたまま、炎を見つめていた。
「……そう思っていたこともありました」
「ん?」
「言葉は……強い。でも、それゆえに、時として、何も残さないこともある。
“残るもの”を求めすぎて、言葉を削ぎ落とし、ついには……立ち姿だけが残った」
納言は少し首を傾げた。
「それが、舞台の極意?」
「いいえ……違います。ただ……」
火の音が消えたかのように、静寂が降りた。
世阿弥の目が、ふと一点を見据える。
「舞は、祈りです。見る人の心に、沈黙の中で語りかける祈り。
人は忘れる。言葉も消える。けれど、“姿”は、かすかに焼きつく。
それが、人の記憶という“舞台”に、たった一つ、残せる芸だと……私は……」
言葉が途切れた。
気がつけば、世阿弥は夢中で話していた。
囲炉裏の前、空海も利休も、黙って聞いていた。
だが、納言は何も言わずに立ち上がっていた。
その所作に、世阿弥の肩がびくりと揺れる。
「……あの……その、つい、話が過ぎてしまいました。もし、不快でしたら……」
納言は答えない。
ただ、そっと袖を直し、足元に目を落としながら歩き出す。
世阿弥はその背を追いかけるように視線を向けたまま、言葉を失っていた。
「……利休」
戸口の前で、納言がぽつりと名を呼ぶ。
「良い火でした。よく温まりましたわ」
「それは、何よりでございます」
納言は下駄を履く。湿った夜の空気が、扉の隙間から入り込む。
そして、扉に手をかけたまま、ちらりと後ろを振り返る。
「……ふふ。言葉にせずとも残る“姿”なんて、
なかなかどうして、面倒で素敵じゃない」
皮肉っぽく、だが確かに褒めるような口調で。
そしてそのまま、雨の中へと消えていった。
世阿弥はしばらく、その言葉の意味を測るように沈黙していた。
「……怒ってはいない……のでしょうか?」
おそるおそる問う世阿弥に、利休はわずかに口元を緩めた。
「怒っておられたら、言葉を残されます。あの方は、怒りすら“詩”にされる方ゆえ」
その言葉に、世阿弥は小さく息を吐いた。
「……ああ、よかった……」
その背中には、まだほんの少しだけ緊張が残っていたが、囲炉裏の火がそっと和らいだ光を返すように、その姿を包んでいた。
沈黙の中、空海が静かに数珠を鳴らし、立ち上がった。
「さて……私はこれにて。夜が深まるにつれ、声なき声が増えてまいります」
「もう行かれるのですか?」
世阿弥が問うと、空海は首を横に振るでもなく、ただ柔らかに笑んで言った。
「私は沈黙を持ち帰る者。今宵は、十分にいただきました」
利休は深く頭を下げる。
「どうぞ、道中お足元にお気をつけて」
「火は、絶やさぬように」
それだけを残して、空海は雨の帳の中へと消えていった。
しばらくして、戸の外の足音が聞こえなくなった頃、
火の間にふと、風がひとすじ、すり抜けた。
雨脚は変わらぬままなのに、空気が微かに、違っていた。
温度ではなく、音でもなく――ただ、“何か”が巡ってきたような、
そんな静かな違和感が、囲炉裏の灰の隙間をそっと撫でた。
利休が目を伏せ、手元の茶碗にそっと指を添えた。
世阿弥はそれに気づかず、まだどこか気恥ずかしそうに、火を見つめていた。