第八章「静寂に舞う」
雨はまだ、静かに降っていた。
囲炉裏の火は少し落ち着きを取り戻し、空間にゆったりとした余白を作っていた。
官兵衛と昌幸が去った後、火の間には再び静寂が戻ってきた。
残ったのは、利休、空海、そして清少納言。
それぞれが思考を宿したまま、言葉を選びあぐねるような沈黙だった。
「……賢しらな男たちね、あのふたりは」
沈黙を破ったのは、清少納言だった。
茶碗を手に取りながら、半ば呆れたように呟く。
「策だの、理だの……挙げ句、春雨の音すらかき消すような声で、己の器をひけらかして」
「……策もまた、芸でございますからな」
利休がぽつりと応じる。
「芸? あれが?」
「“かたち”を作るという点においては、通ずるものがあるでしょう。完成ではなく、完成に至る“構え”を練ること……」
「ふぅん……」
納言は、器の縁を指でなぞりながら、やや不満げに眉を寄せた。
「結局、皆“かたち”に逃げるのね。美しさなんて、結局は中身よ。どれだけ言葉を削ぎ落としても、最後は――」
「……あの、失礼……雨宿りをさせていただけないでしょうか」
声が割って入った。
納言の目がすっと吊り上がる。
「……ええと、いま、話の途中だったのだけれど?」
戸口に立っていたのは、ひとりの男だった。
肩から濡れた布を下げ、傘も差さず、浅葱色の羽織に雨を滲ませたその姿には、どこか気配を消した者の佇まいがあった。
だが、声を発したその“間”には、舞の一歩目に似た、緊張と覚悟が滲んでいた。
「申し訳ありません……。雨音の向こうに人の声が聞こえて……つい、足が向いてしまって……」
世阿弥は深く頭を下げた。声は低く丁寧だったが、その目は、どこか怯えた小動物のように清少納言を避けていた。
納言は、唇を軽く噛む。
「なんなの、今日という日は。男たちは皆、人の言葉を遮るのが趣味なのかしら」
空海が苦笑し、利休が静かに戸口へと歩み寄った。
「どうぞ。火も、雨を嫌う方には優しゅうございます」
「……ありがとうございます」
世阿弥は頭を下げ、戸を静かに閉めてから囲炉裏の端へと腰を下ろした。
その所作に、思わぬ柔らかさがあった。
「お名前は?」
納言が、やや険のある声音で訊ねる。
「……ただの、芸に携わる者です」
「芸? 貴方が?」
問い返すその口調には、まだわずかに苛立ちが残っていた。
だが、彼女の目はすでに観察者のそれに変わりつつあった。
世阿弥は頷いた。
「舞を……。舞台の“かたち”を生きることで、己を削ってまいりました」
「へぇ。面白いわね」
納言の目が細まる。その口元には、興味と皮肉が同時に浮かんでいた。
「では訊くけれど、“舞”ってなに?」
唐突で、鋭い問いだった。
世阿弥の肩が一瞬、ぴくりと動いた。だが、答えはぶれなかった。
「……心を、かたちに宿すものです」
「ふぅん。私からすれば、心を言葉にした方がずっと早いけれど」
「言葉は……流れます。残るのは、受け取る者の解釈だけ。
舞は……かたちで残る。意図を沈め、形で語りかけるものです」
「かたちだけを残す? 傲慢ね。観る人間に、全部投げるってことじゃない」
「……はい。信じて、投げるしかできません」
世阿弥は、少しだけ声を落とした。だが、その目には揺るぎがなかった。
清少納言は、そのまなざしをしばらく見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「……なるほど。貴方、思っていたより根が強い」
「いえ……ただ、舞台に立つということが、それしか許してくれないのです」
「……面白い。舞と詞、どちらが人の心に残るのか、試してみたくなるわね」
囲炉裏の火が、音もなく燃えた。
空海は目を閉じたまま、微かに口角を上げていた。
利休は、静かに湯を注いだ。
雨はまだ、続いていた。
だがその音は、不思議と静かに聞こえた。
芸が火を囲む夜。
沈黙と声が、ひとつの舞台の上で交わろうとしていた。