第七章「春雨に、傘をさして」
「それだから貴殿の策は常に小器用に過ぎるのだ。勝ち筋が見えてから石を打つなど、後手の極みだ」
「そうではない、真田殿。先手を打つ者こそ、最も読まれやすい。それを“大胆”と誤認するのは策士として未熟の証」
囲炉裏を囲んだ二人の策士、真田昌幸と黒田官兵衛は、火をはさみながら言葉の刃を交わしていた。
利休は黙して茶を点て、空海は目を閉じたまま、穏やかに数珠を操っている。
ふたりとも、この口論がただの喧嘩ではなく、知と信念の火花であることを承知していた。
「未熟だと?」
昌幸が唇を歪めて笑う。
「貴殿の策は確かに冴えておる。だがそれゆえ、情に欠ける。民は盤上の駒ではないぞ」
「情を過ぎれば、それは策ではなく願望だ」
官兵衛の声音は静かだが、言葉の芯は鋭かった。
「願望すら持たぬ策が、誰のためになる」
「持たぬのではない。“背負う”のだ。己の内に留め、形にせずに動く。それが真の軍略だ」
「なるほど、禅問答のようだな。ならば、敵も味方も悟らせぬうちに終わらせると?」
「理想だが、不可能ではない」
「つまらん理屈だ」
「そなたの策が熱すぎるだけだ」
「ふん、冷めた茶よりはましだろう」
火が小さく弾けた。どこか可笑しみすらあるやりとりに、空海が微笑む。
「智は火に似ると言いましたが……このお二人の策は、どうにも熱が過ぎますな」
「茶室が戦場になる日も近うございますな」
利休も一言添えたその時――
外の雨音の中に、もうひとつの音が混じった。
控えめだが、確かに存在を主張する音。傘の骨が、雨粒を受けて震える音だった。
す、と戸が開く。
「まったく……随分と騒がしいこと。これでは、春雨の風情もあったものではありませんね」
その声は涼やかで、どこか嘲笑めいていた。
だが、言葉の端に宿る気品は、決して軽薄なものではない。
入ってきたのは一人の女。
深い藍の袿に身を包み、華美な飾りを避けた落ち着いた装い。だが、その立ち居振る舞いには、揺るぎない自負と気高さがあった。
女はゆっくりと傘をたたみ、戸口にかけてから囲炉裏の方へ歩を進める。
その姿を見て、利休が静かに頭を下げた。
「これは、清少納言殿。雨の中、よくぞお運びくださいました」
「ええ、まったく……この雨に、この空気。静かに耳を澄ませていたかったのに、どこかの殿方が声を荒げて戦を始めてしまうものだから」
清少納言は、傘に滴る水を指先で払いながら、座につく。
「それにしても、春雨に火花とは、風流というには程遠い」
昌幸が口を尖らせる。
「風流な戦などあるものか。火は火として燃えねば、策は死ぬ」
「それが、貴方の限界ですわね」
「ほう?」
「火の美しさは、ただ燃えることでなく、燃え残す余白にこそある。……それを知らぬ者が、策を語るなど、聞いているこちらが冷えてしまうわ」
官兵衛が苦笑を漏らす。
「相変わらず、直球で刺してこられる。お変わりありませんな」
「変わっていたら、貴方のような策士たちと雨の夜を過ごすこともなかったでしょうね」
毒のある言葉。だが、なぜか憎めない。
彼女の声音には、人の浅さも深さも見切った者の余裕があった。
そして、それを飾ろうともしない、ある種の潔さがあった。
空海が小さく頷いた。
「情緒もまた、策と同じく人の心を映す鏡です。騒がしさの中にこそ、静けさが立ち上がるものですな」
「それは坊様だから言えること。騒がしいのは嫌いなの。ただ、黙っていられないのが厄介で」
清少納言は茶を受け取り、湯気越しに目を細めた。
「ぬるい。でも、悪くないわ。火の熱と、静けさの温さ。その間にこそ、ほんの少しの“真実”がある気がする」
利休が茶筅を置き、目を伏せる。
「まこと、雨と火の間に宿るものこそ、人の気配でございます」
「ならば、貴方は策士たちの火に、どんな湯を注ぐつもり?」
「沈黙をもって、注ぎましょう」
清少納言は唇の端を上げ、目を伏せて笑った。
「ふふ……やっぱり貴方は面白い。時代遅れのようでいて、誰よりも現代にいる。利休、貴方こそ、策士たちより恐ろしいかもしれないわ」
その言葉に、囲炉裏の火がまたひとつ弾けた。
「……恐ろしいと言われて茶を点てるのも妙なものでございますな」
利休の穏やかな返しに場が和らぎ、昌幸がふっと鼻を鳴らす。
「おい官兵衛、俺はこの場が長居に向かぬ性分でな。火が静かすぎる」
「奇遇だ。私も、語らずに座すには頭が働きすぎるらしい」
「ほう、ならば外で続きといこう。勝負の続きをな」
「望むところだ」
ふたりは立ち上がり、火を一瞥してから戸口へ向かう。
その背を、茶の香と静けさがやさしく見送っていた。
外に出ると、雨は細く、風も和らいでいた。
ぬかるんだ山道を、ふたりはなお言葉を交わし続ける。
「だがな、貴殿の策はどうにもまわりくどい!」
「策に直線はない。貴殿こそ、いつも近道を選びすぎる」
口論は止む気配もなく、雨にまぎれて遠ざかっていく。
その途中、ひとりの男が傘も持たずに歩いてきた。
静かな足取り、静かな気配。能衣のような布を肩にまとい、
ふたりの間を風のようにすり抜けていく。
だが、昌幸も官兵衛も気に留める様子はない。
口論を続けながら、ただその夜の奥へと歩んでいった。