第四章「火を継ぐもの」
囲炉裏の火は、深夜の冷え込みに対抗するように、なお静かに燃えていた。
空海が残した言葉は、まだ室内の空気に染み渡っており、誰もそれを壊すような言葉を発さなかった。
天皇は、膝の上に両の手を重ね、長く目を閉じていた。
その顔には、ほんのわずかな陰りと、それを越えた者だけが持つ静かな決意が浮かんでいた。
利休が新たに茶を点て、そっと差し出す。天皇はそれを手に取り、湯気の向こうに利休の目を見た。
「……利休よ。余は、もう迷わぬ」
その声は深く、しかし澄んでいた。
「ここへ来たのは、政から逃げたのではない。ただ、聞きたかったのだ。沈黙の中にある声を。火と茶の間に宿る、真の温もりを」
「そして、得られましたか?」
利休が問う。
天皇は、ひと口茶を飲み、静かに頷いた。
「うむ。成すべきことを、成そう。正しさではなく、温もりをもって、民に応えよう」
その言葉に、空海もまた目を細めて頷いた。
「その心がある限り、陛下の道は清らかでありましょう」
天皇は立ち上がった。肩に羽織をかけ、玄関先へと歩み出る。
外の雨は、先ほどよりもわずかに弱まっていた。だが、まだ夜の帳は深く、彼の姿は闇にすぐ紛れていった。
「では……」
最後に振り返ったその顔は、もはや“帝”ではなかった。
一人の男として、そして“人々のために在る者”としての眼差しが、そこにあった。
「火を絶やすな、利休。風が吹こうとも」
その一言を残し、天皇は雨の夜へと消えた。
*
その後、しばしの静寂が流れた。
空海は囲炉裏のそばで再び坐り、手元の数珠をゆるやかに動かしていた。
利休もまた、茶道具の手入れを始める。言葉は交わさずとも、ふたりの間には深い安堵があった。
「……火が静かだ」
利休が呟いたときだった。
突如、木戸が激しく叩かれた。
「利休!居るか、そこに貴様は!」
声とともに戸が力任せに開かれる。
雨と泥にまみれた数名の家来が雪崩れ込み、続いてその中心に、織田信長が現れた。
黒羽織の裾を跳ね上げ、濡れた髪を振り払うようにして、信長は鋭い眼光で室内を見渡す。
「……遅かったか」
そのひとことは、咎めでも呟きでもなかった。まるで、己の遅れを誰にも詫びぬ者の言葉だった。
利休は立ち上がり、静かに頭を下げる。
「ようこそ、信長公。雨の中、わざわざお越しくださり──」
「余計な口を利くな、利休。あの男はここにいたな。帝だ」
空気が一気に張り詰めた。
囲炉裏の火が、はぜた。雨音が急に遠ざかるように、世界の輪郭が変わったような感覚。
「帝が民と共に歩こうとする? それは”美しい理想”だ。だが、理想が過ぎれば国は乱れる」
その声には、抑えきれぬ怒りと、何かを急くような焦りが滲んでいた。
一見冷静に見える物腰の裏で、信長の中には相反する感情がせめぎ合っているようだった。
「利休。おぬしは何を見せた。何を聞かせた。……余に隠すほどの火を、ここで育てたというのか」
利休は静かに目を伏せる。
「私は、ただ、一碗を差し出しただけでございます」
信長の眼が細められた。雨の滴が、鞘に落ちて鋼を打つ。
信長の眼差しは、火そのものだった。
燃え盛るわけではない。だが、炉に押し込めた炭がなお熱を失わず、芯からすべてを焼こうとするような、
そんな内に秘めた猛火が、沈黙の中で利休を射抜いていた。
「一碗を差し出しただけ、だと?」
その声音は低く、しかし確かに怒気を孕んでいた。
だが、そこには焦りもあった。静かに、目には見えぬ形で、その奥に渦巻く焦燥が感じ取れた。
「利休……余が帝を手元に置いておく意味が、そなたにはわからぬとでも言うか」
利休は、静かに答える。
「わかっております。ゆえに、陛下は己の意志でお立ちになったのです」
「意志だと?」
信長が、わずかに口元を歪める。
「天下は意志だけで回らぬ。人の心が国を動かすと思っているのか。違う。力だ。力と、秩序。それを作るのが政であり、我が手で握るべき“かたち”だ」
空海が、静かに数珠を鳴らした。その音は、薄い鐘の音のように耳に残る。
「力に形を与える者は、常にその形の内側から崩されます。……だからこそ、陛下はここへ来られたのでしょう」
信長が空海へと顔を向けた。その目に、一瞬だけ、苛立ちとは異なる色が浮かぶ。
「弘法大師までも、利休と同じ夢を見るか」
「いいえ、私は夢など見ておりませぬ。ただ、雨の音を聞きに来たのです」
信長は目を細める。そして言った。
「茶と沈黙の中で、帝が何を手に入れたかは知らぬ。だが、戻ってこぬ以上、何を“手放したか”が重要だ」
利休が目を伏せ、茶道具をそっと拭う。その手は穏やかだが、明らかに緊張を孕んでいた。
「陛下は、民の声を背負いなおす覚悟を得られました。だからこそ……この場に、信長公は間に合わなかったのです」
言い切った利休の声に、囲炉裏の火がまたひとつ、鋭く弾けた。
信長は沈黙したまま、炉の奥をじっと見つめる。
やがて、低く呟くように言った。
「……火を育てるとは、こういうことか」
利休はゆっくりと頷いた。
「火は、制せねば暴れ、放てば消えます。陛下が持ち帰る火が、風に負けぬよう──私はただ、間を整えたにすぎません」
信長は立ち上がる。羽織の裾が揺れ、雨のしずくが床に落ちた。
「……ならばその火が、どこまで国を照らすか見届けるとしよう」
言葉とは裏腹に、その目には、何かがこぼれ落ちそうな葛藤が宿っていた。
「だが利休。火が狂えば──その時は、おぬしの茶室ごと焼き払う」
その一言を残し、信長は踵を返した。
家来たちもまた、それに続くように濡れた足音を残し、闇の中へと消えてゆく。
扉が閉まると、室内に再び、雨音だけが戻ってきた。
利休は囲炉裏の前に腰を下ろし、ふう、とひとつ息を吐いた。
「……火が暴れぬよう、心を澄ませるしかありませぬな」
空海はうなずいた。
「政も、茶も、そして祈りも。皆、火の扱いに通じる道です」
静けさが戻ったその空間には、かつての天皇の言葉、
そして信長の怒りが、まだ微かに残っていた。
そしてそれを、火が――黙って燃やし続けていた。