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静けさに問う  作者:
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第四章「火を継ぐもの」

囲炉裏の火は、深夜の冷え込みに対抗するように、なお静かに燃えていた。

空海が残した言葉は、まだ室内の空気に染み渡っており、誰もそれを壊すような言葉を発さなかった。


天皇は、膝の上に両の手を重ね、長く目を閉じていた。

その顔には、ほんのわずかな陰りと、それを越えた者だけが持つ静かな決意が浮かんでいた。


利休が新たに茶を点て、そっと差し出す。天皇はそれを手に取り、湯気の向こうに利休の目を見た。


「……利休よ。余は、もう迷わぬ」


その声は深く、しかし澄んでいた。


「ここへ来たのは、政から逃げたのではない。ただ、聞きたかったのだ。沈黙の中にある声を。火と茶の間に宿る、真の温もりを」


「そして、得られましたか?」


利休が問う。


天皇は、ひと口茶を飲み、静かに頷いた。


「うむ。成すべきことを、成そう。正しさではなく、温もりをもって、民に応えよう」


その言葉に、空海もまた目を細めて頷いた。


「その心がある限り、陛下の道は清らかでありましょう」


天皇は立ち上がった。肩に羽織をかけ、玄関先へと歩み出る。

外の雨は、先ほどよりもわずかに弱まっていた。だが、まだ夜の帳は深く、彼の姿は闇にすぐ紛れていった。


「では……」


最後に振り返ったその顔は、もはや“帝”ではなかった。

一人の男として、そして“人々のために在る者”としての眼差しが、そこにあった。


「火を絶やすな、利休。風が吹こうとも」


その一言を残し、天皇は雨の夜へと消えた。



その後、しばしの静寂が流れた。


空海は囲炉裏のそばで再び坐り、手元の数珠をゆるやかに動かしていた。

利休もまた、茶道具の手入れを始める。言葉は交わさずとも、ふたりの間には深い安堵があった。


「……火が静かだ」


利休が呟いたときだった。


突如、木戸が激しく叩かれた。


「利休!居るか、そこに貴様は!」


声とともに戸が力任せに開かれる。

雨と泥にまみれた数名の家来が雪崩れ込み、続いてその中心に、織田信長が現れた。


黒羽織の裾を跳ね上げ、濡れた髪を振り払うようにして、信長は鋭い眼光で室内を見渡す。


「……遅かったか」


そのひとことは、咎めでも呟きでもなかった。まるで、己の遅れを誰にも詫びぬ者の言葉だった。


利休は立ち上がり、静かに頭を下げる。


「ようこそ、信長公。雨の中、わざわざお越しくださり──」


「余計な口を利くな、利休。あの男はここにいたな。帝だ」


空気が一気に張り詰めた。

囲炉裏の火が、はぜた。雨音が急に遠ざかるように、世界の輪郭が変わったような感覚。


「帝が民と共に歩こうとする? それは”美しい理想”だ。だが、理想が過ぎれば国は乱れる」

その声には、抑えきれぬ怒りと、何かを急くような焦りが滲んでいた。

一見冷静に見える物腰の裏で、信長の中には相反する感情がせめぎ合っているようだった。


「利休。おぬしは何を見せた。何を聞かせた。……余に隠すほどの火を、ここで育てたというのか」


利休は静かに目を伏せる。


「私は、ただ、一碗を差し出しただけでございます」


信長の眼が細められた。雨の滴が、鞘に落ちて鋼を打つ。


信長の眼差しは、火そのものだった。


燃え盛るわけではない。だが、炉に押し込めた炭がなお熱を失わず、芯からすべてを焼こうとするような、

そんな内に秘めた猛火が、沈黙の中で利休を射抜いていた。


「一碗を差し出しただけ、だと?」


その声音は低く、しかし確かに怒気を孕んでいた。

だが、そこには焦りもあった。静かに、目には見えぬ形で、その奥に渦巻く焦燥が感じ取れた。


「利休……余が帝を手元に置いておく意味が、そなたにはわからぬとでも言うか」


利休は、静かに答える。


「わかっております。ゆえに、陛下は己の意志でお立ちになったのです」


「意志だと?」


信長が、わずかに口元を歪める。


「天下は意志だけで回らぬ。人の心が国を動かすと思っているのか。違う。力だ。力と、秩序。それを作るのが政であり、我が手で握るべき“かたち”だ」


空海が、静かに数珠を鳴らした。その音は、薄い鐘の音のように耳に残る。


「力に形を与える者は、常にその形の内側から崩されます。……だからこそ、陛下はここへ来られたのでしょう」


信長が空海へと顔を向けた。その目に、一瞬だけ、苛立ちとは異なる色が浮かぶ。


「弘法大師までも、利休と同じ夢を見るか」


「いいえ、私は夢など見ておりませぬ。ただ、雨の音を聞きに来たのです」


信長は目を細める。そして言った。


「茶と沈黙の中で、帝が何を手に入れたかは知らぬ。だが、戻ってこぬ以上、何を“手放したか”が重要だ」


利休が目を伏せ、茶道具をそっと拭う。その手は穏やかだが、明らかに緊張を孕んでいた。


「陛下は、民の声を背負いなおす覚悟を得られました。だからこそ……この場に、信長公は間に合わなかったのです」


言い切った利休の声に、囲炉裏の火がまたひとつ、鋭く弾けた。


信長は沈黙したまま、炉の奥をじっと見つめる。


やがて、低く呟くように言った。


「……火を育てるとは、こういうことか」


利休はゆっくりと頷いた。


「火は、制せねば暴れ、放てば消えます。陛下が持ち帰る火が、風に負けぬよう──私はただ、間を整えたにすぎません」


信長は立ち上がる。羽織の裾が揺れ、雨のしずくが床に落ちた。


「……ならばその火が、どこまで国を照らすか見届けるとしよう」


言葉とは裏腹に、その目には、何かがこぼれ落ちそうな葛藤が宿っていた。


「だが利休。火が狂えば──その時は、おぬしの茶室ごと焼き払う」


その一言を残し、信長は踵を返した。


家来たちもまた、それに続くように濡れた足音を残し、闇の中へと消えてゆく。


扉が閉まると、室内に再び、雨音だけが戻ってきた。


利休は囲炉裏の前に腰を下ろし、ふう、とひとつ息を吐いた。


「……火が暴れぬよう、心を澄ませるしかありませぬな」


空海はうなずいた。


「政も、茶も、そして祈りも。皆、火の扱いに通じる道です」


静けさが戻ったその空間には、かつての天皇の言葉、

そして信長の怒りが、まだ微かに残っていた。


そしてそれを、火が――黙って燃やし続けていた。

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