第三章「言葉の灯」
木戸がわずかにきしみ、雨音とは異なる、衣擦れの音がひとつ混じった。
利休が目を向けた先、そこにいたのは──ひとりの僧であった。
薄墨色の法衣に身を包み、編笠の代わりに一本の唐傘を差している。傘には細かな雨粒がまとわりつき、軒先で水が跳ねるたび、静かなしずくが灯のように揺れて落ちていった。
その姿には、どこかこの世のものではない風情があった。だが、足元は確かに泥にまみれており、傘の内からは深い眼差しがのぞいていた。
「……夜更けに、失礼いたします」
静かな声。だが、囲炉裏の炎すら一瞬、揺れたかのように感じさせる響き。
天皇がゆっくりと振り返る。利休は深く一礼した。
「これは、まさか……弘法大師、空海さまでは」
「名など、雨と共に流れるものでございましょう」
空海は微笑しながら傘を閉じ、玄関先でそっと立てかけると、濡れた足を拭いて囲炉裏の傍へと歩み寄った。
その一歩一歩が、まるで水墨画に描かれたように静かで、だが確かな存在感を放っている。
「火と茶。良きものに巡り合いました」
空海は囲炉裏の前に腰を下ろすと、天皇に一礼をし、利休の茶に目を留めた。
「この茶は、沈黙の中に語るようですな」
「僧侶には言葉の力があり、茶人には沈黙の力がございます。互いに補い合えば、真理に近づけましょうか」
利休が応じる。
「では、私はただ静かに参りましょう。言葉とは、使いすぎれば毒にもなりますゆえ」
空海は手を合わせ、目を閉じた。その姿に、天皇の瞳がわずかに揺れた。
「空海……余は、政に言葉を費やしすぎた。民の声を聞くより先に、己の正しさを語ってしまった」
「正しさとは、誰の目で見るかによって、毒にも薬にもなります」
空海は目を開き、まっすぐに天皇を見る。
「ですが、陛下は今、こうして茶の前に座り、火を見て、雨音を聞いている。その時点で、言葉よりも深いものと向き合っておられる」
利休が茶を点て、空海に一碗を差し出す。
「この茶には、何も加えてはおりませぬ。ただ湯と葉と、そして間だけ」
空海は両手で茶碗を受け取り、湯気の中で一瞬目を閉じた。ひと口飲み、唇の端を緩める。
「……香が、雨と重なるようですな。風景と一つになる味わいです」
その言葉に、天皇が小さく笑った。先ほどまでの翳りが、幾分和らいでいる。
「そなたらの語らぬ言葉に、余の肩の重みがほどけていくのを感じる」
火は静かに燃え、釜の音が再びその場を満たす。
外の雨はなおやまぬ。だがその雨音すら、心を洗うように響いていた。
やがて、空海がひとつ深く息を吐いた。
「雨もまた、語らぬ教師です。打たれながら、沈黙の中で万物を潤す。その姿にこそ、政もまた学ぶべきことがありましょう」
利休は頷き、次の湯を注ぎ始める。
火と雨と、三人の沈黙が、今夜ひとつの調和を成していた。
そしてこの夜の記憶は、やがて誰の言葉にもならぬまま、心のどこかに灯る灯火となるだろう。