第二章「沈黙の香」
囲炉裏の火はゆるやかに燃え続けていた。釜の湯がたぎる音と、雨が瓦を叩く音が交差し、古民家の中にひとつの静謐な調べを奏でていた。
聖武天皇は、ゆっくりと茶碗を置いた。その指先には、まだわずかに温もりが残っている。視線は床の節に落ちたまま、しばし動かなかった。
「……昔、東国を旅したときのことを思い出す」
ぽつりと、ひとこと。利休は茶道具を拭いながら、静かに耳を傾けた。
「道中、ある村に立ち寄った。名もなき農夫が、雨の中で火を焚いていた。余は寒さに耐えかね、その火に手をかざした。農夫は何も言わず、ただ焚き木を少し寄せただけだった」
しばし、沈黙。
「だが、その火の温かさは、今でも覚えておる。言葉も名もいらなかった。ただ、そこにあった火が、余を人に戻してくれた」
利休は黙して頷いた。炎の中に、過去の光がちらつくようだった。
「今夜、こうして茶をいただき、再びその火に触れた気がする。……忘れておったな。民とは、余にとって“遠きもの”ではなかったはずなのに」
その声には、少しばかりの悔恨と、かすかな安堵が混じっていた。
利休は新たに湯を注ぎ、次の一碗を点て始めた。手元の動きは一貫して静かで、まるでその沈黙すらも茶に込めるようだった。
「陛下が思い出されたこと、それこそが真の再生でございます。火に温められる心は、他者に向く心。政もまた、その熱を伝えるものであるべきです」
天皇は目を閉じ、長く息を吐いた。その肩が、ごくわずかに、しかし確かに緩むのが見えた。
外の雨はまだやまぬ。だが、かすかな香が室内に漂っていた。湿気に混じる木と土の匂い、火に焼かれた炭の匂い、そして茶の芳香。それらが溶け合い、静かな安らぎをもたらしていた。
「利休」
天皇がふいに名を呼ぶ。
「もし、そなたが政を為すとしたら、どうする」
利休は手を止め、少しの間、天井の梁を見上げた。
「茶の道に似ておりますな。茶は、すべてを計り、余白を見出し、己を整えることで完成いたします。政もまた、形を作るのではなく、心を整えることで形となるものでしょう」
「心を整えるか……」
天皇の口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
「ならば、そなたの茶に政を習おう。沈黙の中に、火の間に、民の声を聴こう」
その言葉に、利休は深く一礼した。
囲炉裏の火が、また一つ音を立てて弾けた。その瞬間――利休がふと、手を止めた。
眉がわずかに動く。雨の音に紛れるように、外の気配が変わったのだ。
「……おや」
利休の目が、雨に濡れた木戸の方へと向けられる。
誰かが、静かに、しかし確かにこの場に近づいている。