第十二章「雨の余白にて」
雨は、ほとんど音を立てなくなっていた。
軒先を伝う雫は、もはや静かな飾りのように揺れている。
囲炉裏の火はなお穏やかに、芯からゆるやかに燃えていた。
世阿弥は、その前に静かに立っていた。
舞台を去る者のように、足音を極限まで沈めながら。
「……私は、語りすぎました」
「それもまた、舞の一部でございます」
利休が微笑を含みながら応じる。
「言葉が空になることで、かたちが残ります。
あなたの言葉は、消えてゆくに足る“火”を帯びておりました」
世阿弥はしばらく黙っていた。
やがて、囲炉裏を一礼し、ふと目を伏せる。
「……舞台には、もう一人、最後の客が来る気がします」
「ええ。茶を、整えておきましょう」
それだけ言って、世阿弥は戸口へと向かう。
外には、細く、やわらかな雨。
そのなかへ、まるで霧のように彼は消えていった。
残されたのは、利休のみ。
*
火はなお、一定のリズムで揺れていた。
茶釜の湯は、小さく鳴っている。
利休は、ひとつ深く息を吸い、
ゆっくりと、立ち上がる。
棚に並ぶ茶道具に手をかけ、ひとつひとつ、確かめるように、
柄杓。
茶碗。
茶筅。
そして、棗。
動きに迷いはない。
だが、そこに急ぎはない。
一挙手一投足が、音を立てずに空間に沈んでいく。
水を汲む。
柄杓の音が、かすかに空間に浮かぶ。
それを、茶碗に移す。
湯気が、静かに立ち上る。
茶筅を取る。
利休の指が、まるで絹をなでるように持ち上げる。
混ぜるのではない。
点てるのでもない。
ただ、茶と湯を、重ね合わせる。
音がない。
だが、時がある。
ひとつの流れが生まれ、消えていく。
湯気のむこうに、空が見えるようだった。
利休は、茶を一碗に整える。
静かに置く。
それは、ただの所作でありながら、
どこか、迎える者への祈りのようでもあった。
*
そのとき――
外の木々が、ほんのわずかに揺れた。
雨は、もう止んでいた。
鳥が一声、遠くで鳴く。
そして、草を踏みしめる音。
はじめは迷うように。
やがて、確信を帯びて。
戸口の向こうに、ひとりの男が現れた。
肩には旅の埃。
眼には戸惑いと、消えぬまっすぐさ。
「……あの……失礼。道に迷いまして」
声には、まだ若さがあった。
だがその声の奥には、
何か、形になる前の“時代”が宿っていた。
利休は、微笑んで頷いた。
「どうぞ。お入りなさいませ」
男は深く一礼し、囲炉裏の前に歩み寄る。
名は、まだ語られていない。
だがこの旅人こそ──
将軍となる前の、徳川慶喜であった。




