第十一章「言葉に刃」
囲炉裏の火は芯を保ち、静かに燃えている。
世阿弥と利休は、言葉少なにその火を見守っていた。
空海の不在、納言の残した余韻──すべてが、静かな輪郭を持ち始めていた。
だが、戸の向こうから、ひとつ異質な気配が近づいてくる。
濡れた草を踏みしめる足音。だが、ためらいがない。
風を断ち切るような歩みが、戸の前で止まった。
「失礼する!」
戸が開け放たれる音は、火の間に鳴り響く刃音のようだった。
冷たい風と共に、男が姿を現した。
まだ若いが、眼には燃えるような光がある。
袖には雨が滴り、袴の裾には泥が跳ねていた。
「こんな山奥に火があるとは。……ありがたい」
男は勝手に上がり込み、囲炉裏の前に膝をつく。
火に手をかざし、わずかに肩の力を抜いた。
「……これは、またずいぶんと風変わりな方が」
世阿弥がぽつりと呟く。
「吉田松陰、と申します。かつて松下村塾という場で、若者に言葉を刻んでおりました」
名乗りに一片の躊躇もない。
「申し訳ないが、こうして穏やかに座るのは不得手でして。
火の前に居れば居るほど、心が騒いでくる」
「それは、火に自分の内側を見る方の特徴でございます」
利休の穏やかな言葉にも、松陰は眉一つ動かさず言った。
「私は、沈黙よりも言葉を選ぶ者です。黙すことに意味があると知りながら、どうしても語らずにはいられない。
そうしなければ、この世に立っている実感すら得られぬのです」
「……その言葉、刃に似ております」
世阿弥がそう言ったとき、松陰はすっと立ち上がった。
「舞は、心を沈めるためのものでしょう? だが、私の言葉は心を揺らすためのものだ。
静かに座して世界を変えることは、私にはできない」
「では、世界をどう変えるおつもりで?」
「己が燃えることです」
それは、理屈ではなかった。
ただ、心がそこへ突き動かされているとでも言うように、松陰は言葉を重ねた。
「人々は眠っている。疑うことなく、従い、滅びていく。
だからこそ私は語らねばならない。叫ばねばならない。
“黙して語る”ことの尊さは、知っている。だが、それを知ってなお──
叫ぶしかない人間も、いるのです!」
一瞬、囲炉裏の火が吹き上がったように見えた。
沈黙。
ただ、雨音が屋根を叩いていた。
やがて、松陰はふっと息をついた。
「……申し訳ない。場を乱しました」
「ここは、乱すために火がある場所でもございます」
利休が言った。
「あなたの火もまた、一つの在り方です。
ただ、火は燃えすぎれば、器を焦がす。……それだけのことです」
松陰は囲炉裏を見つめたまま、かすかに口元を緩めた。
「……よく分かる。だからこそ、私はこの火に長く留まることができぬ」
立ち上がる。
その背は、どこか寂しげだったが、歩みは変わらず真っ直ぐだった。
「いずれまた、誰かがこの火を見つけるでしょう。
私はその時、遠くからでも良い、“熱”であれたらと思う」
そして、何のためらいもなく、松陰は闇の中へと消えていった。
雨は少しだけ、弱まっていた。
世阿弥は、火を見つめながら小さく呟く。
「……嵐のような方だ」
「嵐もまた、季節の一部。火もまた、雨を呼ぶものです」
利休が静かに言い添える。
そしてまた、火は元のように静かに燃え始めた。
だが、その芯には、確かに違う色が灯っていた。
*
その夜の雨の向こう、山道を一人の男がさまよっていた。
旅装束の裾は濡れ、下駄には泥がこびりついている。
「……はて、これは困った。道を間違えたか」
男は、かすかな灯を目にした。
「おや……あれは火か? この山中に……妙なこともある」
まるで、地図にない場所へと導かれたような感覚だった。
道理も理屈も通じぬ夜の中、彼はただ、光を追って歩き出した。




