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静けさに問う  作者:
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第一章「帝と茶人」

山あいの古民家。夜はすでに更けていた。外では春雨が静かに瓦を叩き、軒先(のきさき)からは雫がぽつりぽつりと落ちている。囲炉裏の火だけが、薄暗い室内に揺れる明かりを灯していた。赤くゆらめく炎が柱と床にかすかな影を描く。


千利休はその前に一人、膝をついて座していた。釜の湯がかすかに音を立ててたぎる。炭はじりじりと崩れ、時折パチリと音を立てた。座布団が囲むその中央に、ただ一つ、誰も座っていない空白がある。それはまるで、あらかじめ誰かを迎えるために残された場所のようだった。


外の静寂を破るように、玉砂利を踏む足音が近づいてくる。濡れた木戸がきしみながら静かに開いた。


濡れた袍に身を包み、ひとりの男が現れる。顔には旅の疲れと、どこか言葉にできぬ翳りを宿していた。聖武天皇――帝でありながら、この夜はただの一人の人として現れた。


「……変わらぬな、利休」


落ち着いた低い声が室内に響く。


利休は深く頭を下げた。


「お足元の悪い中、ようこそお運びくださいました、陛下」


天皇は言葉を返さず、静かに囲炉裏の前に腰を下ろした。衣の裾を整え、火に手をかざす。その動作は、どこか慎重で、そして疲れていた。囲炉裏の火が、その顔の輪郭をゆっくりと照らしていく。


「火というものは……不思議だな」


天皇がぽつりと言う。


「強ければ焼き尽くし、弱ければ冷える。だが、こうして囲めば、なぜか人の心がほどけてゆく」


「火も、人も、間が必要でございます」


利休は湯を汲みながら応じた。


「近づきすぎれば灼かれ、離れすぎれば凍える。ちょうどよい距離を見つけること、それこそが肝要でございます」


「余は……前に出すぎたのかもしれぬ」


天皇は火から目を離さず、語る。


「民を思い、政を為そうとするあまり、声を聞かずに形を整えることにばかり心を費やしていた。正しさというものが、こんなにも重く、鋭いものとは思わなかった」


利休は抹茶を入れ、静かに茶を点てていく。


「正しさは刃にもなります。ですが陛下がその重さを感じておられるのなら、それはすでに、誤りを正す側におられるということ」


茶筅(ちゃせん)の音が、雨音に静かに混じる。釜の湯気が、ふわりと立ちのぼった。


「どうぞ。この一碗を」


利休は差し出す。


天皇は両手で茶碗を受け取り、湯気越しに目を細めた。ひと口、口に含み、長い沈黙が落ちる。


「……温かいな」


その言葉は、火と同じように、静かに胸にしみた。


「政とは、寒さに似ている。人々を温めようとするたび、何かが燃やされる。だが、それが人であってはならぬ」


利休は頷いた。


「それゆえ、火も政も、制する心が要ります。心を澄ませ、間を保ち、相手を観る。そのためにこそ、沈黙がございます」


「沈黙か……」


天皇は言葉を噛みしめるように繰り返した。


「そなたの茶は、なぜこうも心を静かにさせるのか」


「茶は語りません。語らぬことで、己の声を聞かせてくれるのでございます」

囲炉裏の火がまたひとつ弾けた。


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