個人主義という宗教
現代社会を一言で表すとしたら「混沌」だと思う。意味を調べると――天地がまだ開けず不分明である状態――だそうだ。因みに、対義語は「秩序」になる。混沌と秩序は、歴史の中で繰り返されてきた。日本の時代区分を列挙してみると、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代、明治時代、現代と大雑把に分けることが出来る。それぞれの時代には、中心となる為政者が国を治めていた。これが秩序の状態。時代と時代の間には為政者が入れ替わる戦乱があった。これが混沌の状態。現代社会は戦乱でもないのに、なぜ混沌とした状態だと僕は考えるのか……。
現代日本が記憶する最大の混沌は、太平洋戦争になる。多くの国民が戦争によって亡くなり日本の都市部は焼け野原にされ秩序が崩壊した。ところが、この最悪の状態から日本は高度成長期を経て強固な秩序を再構築していく。この高度成長期の特徴は、皆が同じものを欲しがったことだ。例えば、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビの三種の神器が爆発的に売れ日本の電機メーカーが大きく成長した。テレビが日本の隅々まで普及していく中で、童謡「およげ!たいやきくん」が爆発的なヒットを飛ばす。日本でレコード売り上げ枚数が最も多いシングル盤として記録された。大衆が同じものを求める動きは、企業としても都合が良かった。秩序を構築しやすい。政治の世界でも、自由民主党と日本社会党との55年体制が長く堅持された。
ところが、1990年にそうした定型化された秩序社会に危機が訪れる。それがバブル崩壊。混沌とした世相の誕生は、同時に多様化の時代の幕開けでもあった。産業界は消費者の好みに合わせた努力を求められるようになり、少品種大量生産から多品種少量生産へのシフトを余儀なくされた。政治の世界でも同じように多様化の波が押し寄せる。リクルート事件、金丸問題といった政界の汚職問題から自由民主党が分裂。新生党、新党さきがけが誕生した。また時を同じくして、細川護熙を中心とする日本新党が結成される。1993年7月に実施された衆議院解散は波乱の幕開けだった。自民党が過半数を割り込み、野党第一党の日本社会党が70議席に減少し、野党8政党が連立する細川内閣が誕生した。55年体制の終焉である。
このような社会的な変化の中で、家族の在り方も変容していった。お爺ちゃんお婆ちゃんと一緒に生活するサザエさんスタイルから、夫婦中心の核家族が一般的になっていくが、それだけではない。晩婚化、共働き、離婚問題、ひとり親家族、夫婦別姓、更には結婚が出来ない、もしくは結婚をしないという選択。最近ではジェンダーという概念も一般的になり、男と女の垣根が曖昧になっていく。このような家族の多様化によって、少子化という時代を迎えることになった。
このような時代変化を俯瞰するとき、僕は大きな岩が風化して砂になっていくようなイメージを持っている。物理の世界に、エントロピー増大の法則がある。物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない――という法則だ。この法則は人間が集まるコミュニティにも当てはまると思う。物理の世界において、質量がある状態とはエネルギーを蓄積している状態でもある。人間が集まるコミュニティーにおいてエネルギーとは何だろう。中心者の強い熱意はもちろん必要だ。しかし、それだけでは限界がある。なぜなら、コミュニティを維持しようとする中心者の熱意は直接関係している人にしか伝わらないからだ。小さなコミュニティなら十分な効果が発揮できても、大きな組織を編成する場合は違うエネルギーが必要になる。コミュニティが存続するためのエネルギーとは何だろうか? 僕はそれが認知革命だと考えている。
何度も紹介しているので認知革命の説明は割愛する。認知革命において重要なことは、信じられるアイドルが存在することだ。アイドルを日本語に訳すと「偶像」になる。コミュニティが存続する条件は二つあると考える。それは、偶像が存在することと、コミュニティに参加する人々がそれを崇拝していること。この関係性は不可分で、どちらかが欠けるとコミュニティは崩壊する。物理的な世界では、岩が風化する。
古墳時代には数多くの豪族が存在していた。それら豪族をコミュニティとして結束させていた要因は、先祖崇拝の宗教になる。ご先祖様は一族の繁栄を護る神として祀り上げられ、祭祀を行うことで一族が結束していた。信仰心の強さはコミュニティの結束力の強さを促し、コミュニティの規模の大きさが時代を作っていった。この時代の神は、八百神と称されるように数多くの神が存在していた。天照大神や須佐之男命といったプレミア級の神から、道祖神やかまど神といった精霊的な神まで数え上げたらキリがない。そうした神々にはランクがあり、ハイブランドな神ほど影響力が大きかった。豪族間の力関係も、信奉する神の力関係によって影響を受けていたと考える。ここで注目したいのは、「ブランド」という価値の存在。
現代の資本主義社会において、企業はブランディングを重要視する。中小企業ならワンマン社長のリーダーシップでチームを引っ張っていくことが出来るが、グローバルな企業に発展していくのならブランド力が必要になる。これは現代版の宗教だ。消費者から崇拝されるような企業イメージを作っていくことで、売上の向上を期待することが出来る。ブランディングにはロゴも必要だ。このロゴは、宗教でいうところの偶像にあたる。
コロナ渦が開けた日本において、巨大組織の不祥事が次々と明るみになった。宝塚歌劇団のイジメによる転落死、ジャニーズ事務所の性加害問題、トヨタをはじめとする自動車企業のデータ改ざんによる不正問題、更には自民党による政治資金問題。どの組織も、高度成長期にブランディングが成功した組織になる。それなのにコロナ以後は社会的な信用度が落ちる事態に見舞われた。問題そのものは、コロナ以前から抱えていただろう。それでも問題が表面化しなかったのは、コミュニティに属する人々の組織ブランドを護る気持ちが強かったからと考える。この構造は、宗教的な信仰心と同じだ。ではなぜ、コミュニティに所属する人々から崇拝の気持ちが薄れていったのだろうか? 僕はその原因を「人権」だと考えている。
「人権」という概念を構成している要素は、「自由」と「平等」になる。18世紀ごろにこの概念が誕生したことによって、組織と個人の対立構造が表面化した。文学作品においても、組織が人々の人権を蹂躙するデストピア的な作品が注目を集めるようになる。ただ、ここで注意しなければならないのは、組織そのものを単純に悪と決めつけるのは注意が必要だ。なぜなら文明の発展は、組織的な規模の大きさ無しには発展しえなかったからだ。農業にしても工業にしても、多くの人々が協力するから対価を得ることが出来る。その多くの人々が効率よく仕事をするためには、システム化された組織がどうしても必要だった。では何が問題なのだろう。
――何のために組織が存在しているのか?
僕は組織が存在する意義に注目する。その組織が、人々のための機能しているのなら問題はない。対して、組織の為に人々が利用されているのならデストピアになる。近代は、産業革命によって資本家によるデストピアな世界が各地で展開された。また二度にわたる世界大戦によって、国の為に人々の命が大量に消費される。そうした反省から、現代では「人権」という概念が一般的になった。現代社会は、この「人権」が当たり前に語られる。学校では公民や倫理の時間で「人権」という概念を勉強してきた。誰が見ても完全無欠な正しい概念と考えられているが、僕はここに落とし穴があると考えている。なぜなら、個人主義という新しい宗教が誕生したからだ。
個人主義は、何も悪くはない。決して悪ではない。ただ、自己責任という大きな対価を必要とする。組織は個人を束縛する面もあるが、個人を守る安全装置という側面もあった。組織から一定の距離を置くということは、この安全装置が利用できないことでもある。学校のPTA活動や地域の自治会が機能不全を起こしているのは、この個人主義が一般的になったことと無関係ではない。ただ個人主義を貫くのなら、自分を守るだけの力が問われる。個人を守る力とは何か? それはお金だと考える。個人主義という宗教においての、偶像はまさに「お金」なのだ。
現代も宗教は存在しているし、企業的なブランドが機能を失っているわけではない。ただ、それ以上に「お金」を信奉する個人主義が、僕たちの意識の中に大きく育ってしまった。この一点で僕は、現代は人類史の一大転換期だと考えている。歴史は繰り返すというが、これからの未来は違う。人類が初めて体験するフェーズに入った。この個人主義を強固に補完しているのがネット社会になる。過去にも、個人主義が問われた時代はあった。ギリシャの賢人たちや、釈迦の教えもその始まりだったと考える。ところが、その時代には世界を繋ぐネットワークはなかった。釈迦が唱えた末法は、僕的にはこの個人主義の台頭だと考えている。釈迦はこの個人主義を桜梅桃李と表現し、末法という時代は万年も続くと予言した。つまり、多様化という混沌とした世界や、人権をベースにした個人主義は未来永劫に続いていくのだろう。ただ、お金さえあれば幸せになれるという考え方に捕らわれたままなら、未来は無いと考える。「お金」を偶像とする個人主義に代わる、新しい概念の台頭が必要だと考える。