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歴史転換ヤマト  作者: だるっぱ
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国家の成立

 飛鳥時代において、聖徳太子が政治の舞台に登場した以前と以後を比較した時、大きな差異があります。それは、国家を意識したかどうかでした。それまでの大和王権は各地の豪族が集まった豪族連合になります。豪族は先祖崇拝から発展したそれぞれの神をトーテムにして団結していました。そうした豪族たちを統治する立場として大和王権が存在していましたが、大和も豪族の中の一つにすぎず宗教的な権威によって各豪族を従えていました。この関係性は一つの国家というよりも、現代的な感覚でいえば合衆国に近い。だから、大和王権の王だけは、王の中の王という意味で「大王」と呼ばれていました。そのような大和王権に変化をもたらしたのが、西暦552年の仏教公伝になります。朝鮮半島の百済より、仏典と仏像がもたらされました。欽明天皇はその仏像の見事さにとても感銘します。


「西方の国々の仏は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」


 この仏教の受容について欽明天皇は、豪族たちに意見を求めました。蘇我稲目は、大王に意見を述べます。


「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」


 対して、物部尾輿は従来の豪族連合という統治方法にこだわりました。


「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」


 意見が割れたため欽明天皇は仏教の受容を断念しました。ただ、蘇我稲目が仏教を信奉し寺を建立することについては認めます。ところが、その直後に疫病が流行し国に甚大な被害が出ました。物部尾輿は、疫病の原因は「仏神」のせいで国神が怒っているためであると考え、大王に奏上します。欽明天皇は、物部による仏像の廃棄それに寺の焼却を認めました。ここから、物部と蘇我の対立が始まるのです。


 仏教公伝から35年後の西暦587年に、彼らの子供たちである蘇我馬子と物部守屋による丁未の乱が勃発しました。この時、聖徳太子は14歳で従軍します。彼は四天王の像を自らの手で彫って、旗色が悪かった自軍を鼓舞して勝利に導きました。この戦争によって、蘇我馬子が率いる連合軍は物部一族を滅ぼしてしまいます。


 西暦593年、推古天皇が誕生しました。同時に聖徳太子は皇太子になります。この時、彼は20歳。この時代に、摂政という官職はありませんが、聖徳太子は実質的な政治の中心者だったと考えられます。西暦600年に第一回遣隋使が海を渡り使者が文帝に謁見しました。文帝から、政治について質問がなされます。その返答内容が隋書倭国伝に残されていました。


 ――天を兄とし、日を弟とした。天が明けぬうち出てあぐらをかいて座り政務し、日が出ると政務をやめ弟にゆだねた。

 

 要約すると、兄が太陽が登りきらない明け方に政務を行い、太陽が昇ると弟に仕事を引き継いだ――といった意味になります。この時の天皇は推古天皇なので性別は女性になります。「なんで、兄と弟やねん?」と疑問が持ち上がりますが、重要なのはこの返答から当時の政治形態が見えてきます。学者の梅原猛は、推古天皇は巫女として夜明け前に祈祷を行い、実務である政務を聖徳太子が日の出とともに行ったと考えました。


 古代において政治とは、宗教的な権威が重要です。巫女の役割とは、占いによる決裁でした。推古天皇はそうした宗教的な権威の象徴として振舞っていたと考えられます。その推古天皇のもとで、差配を任されていたのが聖徳太子になります。この頃の行政は日の出とともに始められたので、その行政を統括する責任者として聖徳太子が活躍していたのでしょう。


 その後西暦603年に、冠位十二階が制定され、翌年に十七条憲法が発布されます。西暦607年には、第2回遣隋使が隋に赴き小野妹子が煬帝に国書を渡しました。有名な書き出しで始まる「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」の国書になります。学校の教科書にも紹介されるこの一連の流れが、どうして重要なのかというと、「国家」という概念を歴史上はじめて意識したからでした。仏教学者の中村元は、国家が誕生するパターンについて次のような段階があると指摘しています。 


 ①その文化圏全体を支配統治する一つの巨大な国王または統治者が出現し、彼の属する

王朝の基礎が確立する。

 ②精神的な面においては、諸部族対立の時代には見られない新しい指導理念が必要とされる。

 ③その指導理念を、あるいはその指導理念の精神的な基調を、なんらかの普遍的な世界宗教が提供する。

 ④その指導理念は、確定された文章表現(たとえば詔勅)のかたちで、公に一般の人々に向かって表現される。

 ⑤普遍的な世界宗教は、この統一国家において急激に発展する。


 この段階を経ていく中で特に重要になるのが「新しい指導理念」の存在になります。豪族連合は、それぞれに神が存在しており且つ対立状態でもありました。そうした豪族を宗教的また軍事的な影響力で従えさせていたのが大和王権になります。この関係性を一つの国家としてまとめ上げるという取り組みは、それまでにない全く新しい概念でした。各豪族が同じ指導理念のもとで行動を同じくするのです。それは、二次元の世界が三次元の世界を認識できないように、当時の常識を打ち破った新しい世界観でした。文字を読める人が限られていたこのような時代において、聖徳太子だけが新しい未来を創るために必要なパーツが見えていた。それが、「冠位十二階」と「十七条憲法」になります。また、国家を確立する覚悟を「国書」として隋に提出するのです。


 バラモン教が広く信じられていた古代インドは、日本における神道によく似ていました。地域ごとに信じられる神様が存在している多神教世界で、且つ儀式を重要視していました。儀式は司祭者であるバラモンが務めていて、人々を統治していました。そのような祭祀宗教であるバラモンを否定する立場として仏教が誕生します。仏教は、王族であるクシャトリアに広く浸透しました。その後、アショーカ大王によってインドが統一されたとき指導理念として仏教が選択されたのです。仏教は、国家を統べるための法律となり、また人々が生きていく上での規範として機能しました。国土の中から誕生したか、外来で持ち込まれたかの違いはあるにせよ、インドと日本における仏教の受容過程はよく似ています。東アジアに限ると、チベット、ミャンマー、カンボジア、タイといった国においても似たような経緯をたどっています。世界に目を向けると、秦の始皇帝やローマによるキリスト教の国教化も似たような現象として見ることが出来るかもしれません。


 今週末、いよいよ大台ヶ原に行きます。山に登ることで、原始的な宗教観を感じれたら良いなと思っています。古代と現代とでは全く環境が違いますが、疑似的であっても体験することは、僕にとって大きな糧になります。

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