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歴史転換ヤマト  作者: だるっぱ
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⑬小泉八雲記念館

 出雲探索の最後は、中村元記念館に集中するつもりだったのに当てが外れました。今から予定を変更しようにもここは島根県の東端になります。橋を渡ればすぐそこは鳥取県の境港でした。時間は限られているので、遠くには行けません。


 ――さて、どうしたものか。


 スマホを取り出して「博物館」と打ち込み、検索を始めます。境港にある「水木しげる記念館」、松江市にある「小泉八雲記念館」や「松江歴史館」等がヒットしました。どれも僕が調べたい古代の歴史とはあまり関係がありません。どうしようか迷った挙句に「小泉八雲記念館」に行くことにしました。距離にして15kmほど。30分もあれば到着できます。この「小泉八雲記念館」がとても良かった。


 小泉八雲は、本名を「パトリック・ラフカディオ・ハーン」と言いました。イギリスの保護領であったギリシャ西部にあるレフカダ島で、1850年に誕生します。父はアイルランド人、母はギリシャ人、国籍はイギリスというグローバルな出自でした。その後、ハーンが2歳の時に家族はアイルランドに移り住みましたが、4歳の時に母親が精神を病んでしまいます。結局、母親はギリシャに帰国してしまい、ハーンはその後二度と母親に会うことはありませんでした。それ以後は、厳格なカトリック信者である叔母のサラ・ブレナンに育てられることになります。ただ、このことでハーンはキリスト教が嫌いになってしまいました。


 成人してからはジャーナリストとして身を立てます。フランス、アメリカ合衆国、西インド諸島と渡り歩きながら、文化の多様性に魅了されるようになりました。そうした中、英語に訳された「古事記」に出会ったことで日本に関心を持つようになります。1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として、ハーンは日本の土を踏みました。来日後、出版社との間でトラブルが発生し、ハーンは契約を破棄します。日本に身寄りがないハーンは、アメリカ合衆国で知り合った文部省の服部一三に会いに行きました。仕事の斡旋をお願いします。その仕事というのが、島根県松江市での英語教師でした。日本の神話の舞台であるここ出雲で、小泉セツと出会い結婚します。1896年(明治29年)には日本国籍を取得して、「小泉八雲」と改名しました。「八雲」とは、和歌で出雲を詠う時の枕詞になります。その由来は古事記にありました。


 八岐大蛇を退治した後、須佐之男命は櫛名田比売と生活するための素晴らしい土地を探します。見晴らしの良い土地を見つけた須佐之男命は、思わず感嘆の声をあげました。


「ここは、なんてすがすがしいところなんだ!」


 その土地を須賀と名づけ、須佐之男命は立派な宮殿を建てます。すると、二人の結婚を祝福するかのように、幾筋もの雲が立ち登りました。その様子を見て、須佐之男命は詩を詠みます。


 ――八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


 この詩は、古事記に最初に登場する和歌でした。この和歌から「八雲」を名乗るようになるなんて、センスが良すぎです。ところで、八雲を音読みすると「ハウン」だったりします。「ハーン」と音が良く似ていますね。面白い。


 ところで、そんな小泉八雲の業績をご存じでしょうか。世界を遍歴した小泉八雲は、それぞれの地域に伝わる伝承に興味を持つようになりました。随筆家として、語り聞いた内容をまとめて多くの著作を残します。この頃はまだ民俗学は誕生していませんが、その後の柳田国男にも影響を与えたようです。民俗学は、伝承を取り扱います。遺跡や遺物のように形としては残っていなくても、過去から連綿と伝えられてきた伝承を研究するスタイルは、小泉八雲と通じるところがあったのでしょう。


 小泉八雲は、日本を世界に紹介するための著作も数多く残しました。アインシュタインが来日した時、鞄の中には小泉八雲の本があったそうです。八雲は、海外に日本を紹介した日本研究家でもありました。そんな小泉八雲の、有名な作品の一つに『怪談』があります。多くの話があるのですが、代表的なものをご紹介します。

 ・耳なし芳一

 ・貉――のっぺらぼう

 ・ろくろ首

 ・雪女


 子供のころに親しんだ怪談話は、実は小泉八雲の作品だったことを初めて知りました。小泉八雲の作品は、ネットの青空文庫で簡単に読むことが出来ます。一つ一つの話は短いので直ぐに読み切ることが出来ました。懐かしい気持ちにさせられます。


 小泉八雲記念館は写真を撮らせてくれなかったので、手元には写真資料がありません。ほぼウイキペディアからの抽出文章みたいになりましたが、小泉八雲を知れたのは非常に良かったです。方向的には、僕も小泉八雲の様な作品作りを目指していることに気が付きました。僕は聖徳太子の物語を生み出したいわけですが、そのためには当時の人々の世界観や風習を知る必要があります。出来るならば、1400年前の飛鳥時代をリアルに感じたい。それは無理なので、多くの学者が残してきた研究や、実際にその場所に赴くことで、疑似的に当時の世界観を感じようとしています。


 小泉八雲記念館の隣には、小泉八雲旧居があり見学することが出来ました。記念館は人が多かったのに、意外にも小泉八雲が生活していた武家屋敷を見学する人は全然いなかった。独り占めです。こじんまりとはしていますが、とても計算された家でした。とても綺麗なお庭を、畳に座りながら鑑賞することが出来ます。僕は読んでいませんが、著書「知られぬ日本の面影」の中で小泉八雲が絶賛しているそうです。


 小泉八雲旧居を後にしたのは、16時を回ったころでした。日没は18時46分になります。日没までに、買い物をすませて、風呂で汗を流して、宿泊地に到着する必要がありました。そう考えると、あまり時間がありません。ありませんが、もう一か所だけ見たいところがありました。「江島大橋」になります。テレビのCMで使われたそうで、「べた踏み坂」で有名でした。レッツゴー。

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