陰謀論と神話
職場の社長の勧めで柴田哲孝著「暗殺」を読みました。ご存じでしょうか? 奈良県の大和西大寺駅の北口で街頭演説中に暗殺された安倍晋三元首相の顛末を題材にした作品になります。当時から、あのテロ行為に対してネット上では様々な考察がなされていました。真犯人は他にいると……。山上容疑者が自作の散弾銃で安倍晋三を襲う様子は映像で残されています。山上の犯行で間違いないはずなのに、なぜそのような考察がネット上で賑わったのでしょうか。それには訳があります。消えた弾丸と不可解な銃創について謎が残されていた様なのです。ここでは詳細を語りませんが、日本の政財界に影響力があるフィクサーの指示によって安倍晋三が暗殺される様子がフィクションとして面白く語られていました。このような不可解な事件を目の当たりにしたとき、何かしらの影響力がある人物また組織によって引き起こされた出来事であるとする考え方があります。これを「陰謀論」と言います。
巷には様々な陰謀論があります。「ユダヤ陰謀論」が特に有名で「ロスチャイルド支配説」なんかはその系譜です。他にも「ナチス陰謀論」や「真珠湾攻撃陰謀説」それから「アメリカ同時多発テロ事件陰謀説」や「ジョン・F・ケネディ暗殺事件」なども、様々な考察がなされた陰謀論になります。最近、トランプが演説中に銃撃されました。あの事件を自作自演だとする考察があります。これを「トランプ銃撃事件に関する陰謀論」というそうです。僕は知らなかったのですが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」をご存じでしょうか? 戦後にGHQが敗戦国日本に対して行った政策のことで「戦争責任広報計画」と訳されます。太平洋戦争についてアメリカの視点で論じた解釈を、日本人に対して啓蒙しようとしました。そのことによって日本人を悪者に仕立て上げ罪悪感を植え付けようとした……とされます。この「戦争責任広報計画」が現在もなお秘密裏に行使されており、アメリカが日本を支配下に置こうと画策しているという陰謀論があるそうです。ただ実際には「戦争責任広報計画」は、戦後2か月間だけ行われたラジオ放送しか活動履歴がないそうで、事の真相は僕には分かりません。
このような様々な陰謀論には、共通の特徴があります。それは話をしている当の本人は関係者ではなく、誰かから伝え聞いたか話か推理された物語ということです。状況証拠を並べてみて、それらの事柄に因果関係を見出し、説得力のあるストーリーを作り出した。そうした推理に説得力があると、陰謀論として独り歩きをすると思うのです。特に現代社会はネット社会になります。一昔前のうわさ話と違って、広まるスピードが桁違いに早いので、その影響力が大きい。もしかすると陰謀論的推理が正しいのかもしれませんが、証拠がないままに安易に誰かに伝聞しているとしたら、それは噂話に等しいと考えます。ただ、そうした陰謀論が持て囃される社会的行動そのものに、僕は興味があります。陰謀論が誕生するパターンというのは、実はホモサピエンスの歴史に大きく影響してきたと考えるからです。
人類はこれまでにいくつかの革命的な社会変革に遭遇してきました。現代の大きな社会変革をあげるとしたらインターネットの誕生がありますし、近代では産業革命になります。人類の始まりに目を向けると、道具を使い始めたのが最初の社会変革で石器時代が始まりました。道具を使うことを覚えたホモサピエンスが次に経験した社会変革が、「認知革命」になります。この認知革命と陰謀論は、とてもよく似ていると思うのです。
認知革命とは、この世界を理解しようとする行為になります。認知革命の第一歩は、この「世界」から「人間」を切り分けました。次に周りに存在しているマンモスやライオンそれに犬や猫といった動物たちと、人間が違うということを認識します。身の回りの生活に必要な対象物の違いについても同じように認識しました。石、水、木、火、月、太陽といった具合です。そうした認識は人間に限らず動物や昆虫も大小の差はあれども同じように認識しています。ただ、人間の特徴はそれぞれの対象に名前を付けるという行為でした。名前を付けることによって、概念を仲間と共有することが出来るのです。名前を付けるという行為はかなり高度な技術ではありますが、まだ社会変革を起こす程ではありません。認知革命を認知革命足らしめる最大の行為とは、目に見えない神を認識することでした。
――この世界は、どの様な仕組みになっているのだろう?
このような根源的な問いかけに対して、古代の人々はこの世界は「神」が創造したと認識しました。世界が誕生した経緯を神話としてまとめ上げて、伝承として語り継いでいくのです。そうした行為は、太古の昔から世界中で漏れなく行われてきました。神話を仲間内で共有することで、人々は強固なコミュニティーを形成することが出来ます。認知革命なくして、部族やその後の国家的な組織の誕生はありえません。大きな社会変革だったのです。
「暗殺」の話に戻りますが、安倍晋三の殺害を指示したフィクサーは、居たかもしれないし居なかったかもしれません。それは僕には分からない。ただ、そうした考察が独り歩きして一冊の書籍としてまとめられたという経緯が、神話の誕生とよく似ていると思うのです。僕もそうですが、「暗殺」を読んだ多くの読者が、真犯人の存在を信じたでしょう。それほどに説得力のある小説でした。そのような自分を客観的に見つめながら、「陰謀論」はとても宗教に近いと思いました。科学が発展して、宗教的なものが過去のローテクノロジーとして忌避されるかと思いきや、宗教的な構造は今も形を変えて至る所で残っています。ホモサピエンスとしての習性は今も昔も変わらないということなのでしょう。
実際に見たことはないけれど、ロジックでまとめ上げられた神や陰謀の存在を信じるという行為は、その根底に「二項対立」が存在しています。神話であれば、「神」と「人間」の関係性。陰謀論であれば、「黒幕」と「その存在を信じる信者」の関係性になります。この二項対立は、宗教組織のように身内の中だけで完結している場合は無害です。信者は神をリスペクトしているだけだからです。ところが、他宗教の神にベクトルが向けられると、途端に好戦的になったりします。神というのは、部族や宗教組織のアイデンティティでありシンボルになります。プロ野球の巨人阪神戦で盛り上がる空気感とよく似ています。
そうした意味から考えると、陰謀論の二項対立とは、正に「対立」になります。何かしらの不可解な事件に対して黒幕を創造し、「本当はこいつが悪い」と結論付けるのです。裁判や検証といった手順で立証されていないにも関わらず、信じてしまった人にとっては揺るぎない真実になるのです。これが怖い。
中世から近代にかけて、西洋では魔女が信じられてきました。奇跡の人ジャンヌダルクは、最後は魔女として火炙りの刑に処されます。彼女だけでなく多くの女性が、魔女の烙印を押されて処刑されました。悪魔が乗り移るという現象を誰も立証出来ていないのに、「アイツは魔女だ」と告発されただけで魔女にされてしまうのです。
戦争は、最大の陰謀論の対立と考えることが出来ます。ロシアとウクライナの対立も、イスラエルとパレスチナの対立も、お互いに陰謀論をでっち上げて自国の正義を振りかざしました。このことについてここで詳細に述べるつもりはありませんが、その根底には、「悪いのは俺ではなく、お前だ!」という責任転換の意識があります。
宗教的な行為の源流を探ると僕なりの解釈になりますが、「神への感謝」と「内省」に行きつくと思います。神に近づく行為には、二つありました。自身を省みて自らが神の高みに近づこうとする行為と、自分の周りを攻撃することで相対的に自分の地位を高めるやり方になります。常識的に考えると前者であるべきなのですが、歴史を振り返ると責任転換ばかりが繰り返されてきたように思います。大乗仏教的には、神という概念に人間の幸不幸を委ねません。自分自身が悟りを得ることによって、自分だけでなく社会そのものを良くしようと行動します。
日本書紀では、蘇我一族を大王家を蔑ろにした黒幕として扱っています。これはもしかすると壮大な陰謀論と考えることも出来ます。実際はどうだったんでしょうか? そんなことをぼんやりと考えています。今後、僕は聖徳太子の物語を書くことになるのですが、ある意味これも陰謀論になります。だって、僕は当時のことを何も知らない。様々な状況証拠を集めて僕なりに推理していますが、でも真実ではない。
――なぜ、聖徳太子の物語を綴ろうとするの?
僕には、些細ながら野望があります。聖徳太子を通じて、人間の存在について語りたい。人類の未来は、不透明で混沌としています。このまま大量消費・大量生産、利権争いからくる対立の激化を繰り返すのであれば……人類の未来は破滅しかない。そんな風に見ています。人類は、それらの問題を科学的に解決しようと努力してきました。しかし、科学的な努力だけでは片手落ちだと考えています。人間は感情的な生き物です。哲学的な精神的な向上が人類規模で行わなければ、結果的に更なる大きな問題を招くだけだと僕は考えています。僕は、聖徳太子を通じて人類の未来を考えたい。人類的に価値のある神話になれば良いなと考えています。