表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史転換ヤマト  作者: だるっぱ
67/118

難波宮と四天王寺

 7月13日(土)に大阪歴史博物館で行われた講演会に参加してきました。テーマは「古代難波のランドマーク――難波宮と四天王寺」になります。今年は難波宮の発掘調査がはじまってから70周年の佳節であり、そのことから大阪歴史博物館では「大化改新の地、難波宮」という企画展示が行われていました。


 大化の改新は、飛鳥板蓋宮における乙巳の変によって蘇我入鹿が暗殺されたことに端を発する、本格的な日本の始まりになります。豪族連合の合議政治から、天皇を中心とした律令政治に変革するために、組織のあり方や制度のあり方が整備されていきました。天皇は、皇極天皇から孝徳天皇に移ります。そうした天皇が存命中にその地位を後継者へ譲り渡す「譲位」も初めてのことでした。また元号が制定されることになり、大化元年が始まります。そうした日本の一大変革の舞台が、ここ難波宮だったのです。


 講演会では、実際に難波宮の発掘に携わった中尾芳治氏――元帝塚山学院大学教授、谷崎仁美氏――大阪府立近つ飛鳥博物館学芸員、市大樹氏――大阪大学大学院文学研究科教授が登壇されました。シンポジウムを含めた4時間にも及ぶ大型講演会で、実際に発掘調査に携わった先生方のお話はとてもリアルで知見が広がりました。


 難波宮は長い間その所在地を特定することが出来ず、幻の宮という扱いだったそうです。ところが日本書紀には難波宮に関係する記述が詳細に明記されておりました。難波長柄豊碕宮ながらとよさきのみや子代離宮こしろのかりみや蝦墓かわず行宮、小郡宮おごおりのみや、難波碕宮、味経宮あじふのみや大郡宮おおごおりのみや――これらは、全て難波宮に関係する宮の名前になります。


 初めて難波宮の痕跡が見つかったのは、1913年(大正2年)でした。法円坂町から古瓦が出土したのです。しかし、発掘調査という機運は高まりません。戦争が終わり日本が経済的に大きな成長を見せていた1953年(昭和28年)に、今度は飾り瓦の鴟尾しびの破片が出土しました。このことにより1954年に、難波宮の本格的な発掘調査隊が始まります。その後、大極殿跡が発掘されるなど難波宮の概要がだんだんと見えてくるのですが、1999年(平成11年)に更なる発見がありました。「戊申年」と書かれた木簡が発掘されたのです。この戊申年とは、西暦648年であり元号でいうと大化4年になりました。これは難波宮が大化の改新の舞台であったことを示す重要な手掛かりだったのです。


 考古学に関わる研究者の世界を、僕は知りません。博物館に行くと発掘された埴輪や土器が展示されています。兵隊や巫女それに家や馬といった形象埴輪は、当時の人々の生きざまをイメージすることが出来て分かりやすい。対して土師器や須恵器といった器ものは、博物館によっては同じようなものが沢山展示されていたりします。一つ二つで十分なのに、どうして沢山展示しているんだろう……と思ったことがあります。これはとても浅はかでした。同じように見える器であっても、時代の変遷や制作された場所によって僅かな特徴があるそうです。一つ二つではただの違いでしかありません。ところが10万20万という膨大な数になってくると、木の年輪のように時代や場所を特定するための貴重なデータになるのです。古墳時代から飛鳥・奈良時代に移り変わると、そうしたデータは瓦に求めるようになりました。今回の講演会のもう一つのテーマは四天王寺になります。そうした出土された瓦を中心にして話が展開されていきました。


 四天王寺は、法隆寺と並んで聖徳太子が創建した寺として有名です。しかし、その両寺院の歩みは全く違いました。法隆寺は、世界最古の木造建築としてユネスコの世界遺産として登録されています。僕も何度か足を運びましたが、その静謐な空気感はなんだか1400年前にタイムスリップしたような気持ちにさせられます。対して、四天王寺は派手。大阪の歓楽街に近いということもあるのでしょうが、ガヤガヤとしていて古い時代感は感じられません。でもそれは、四天王寺の歴史と大きく関係がありました。


 四天王寺の始まりは、蘇我氏と物部氏が衝突した丁未の乱にまで遡ります。戦勝を願った聖徳太子が、白膠木ぬるでの木を使って像を彫りました。その像とは仏法僧を守護するとされる四天王――持国天、増長天、広目天、多聞天のことで、それらの像を高く掲げて兵士たちに宣言しました。


「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」


 その甲斐あってか戦に勝利することができ、物部守屋の所領であった摂津難波の荒陵あらはかに四天王寺が建立されることになるのです。西暦587年のことでした。ところが、本格的な造営が始まったのは推古天皇が即位された西暦593年になります。日本最初の寺院は蘇我馬子が建立した飛鳥寺になるので、四天王寺はそれに次ぐ古い寺院ということになります。


 そうした格式高い四天王寺なのですが、その後の歴史は受難の連続でした。落雷や火災それに地震によって、何度も何度も建築物が消失するのです。近年では、昭和9年の室戸台風によって6代目五重塔が金堂に倒れ掛かって倒壊しました。その後、7代目の五重塔が再建されるのですが、昭和20年の大阪大空襲によって全てが消失してしまいます。当時の証拠写真を見せてもらいましたが、完全な焼け野原でした。法隆寺と比較するとなんとも不遇な四天王寺なのですが、実は消失したことによって発掘調査が進みます。四天王寺の敷地からは、数多くの瓦が出土しました。瓦の時代区分も、7世紀前半、7世紀後半、8世紀前半と、倒壊に応じて再建された足跡が見られるのです。


 瓦の製作は、同じものが大量に作られます。中でも屋根の縁端を飾るため軒丸瓦は、考古学的にはとても重要な資料でした。なぜなら、時代の変遷を確認する物差しになるからです。軒丸瓦は先端に文様があしらわれた飾り瓦になるのですが、その文様は笵型に粘土を押し付けて施します。笵型は使いまわしをするので、使えば使うほど笵型が擦り切れていき、文様が薄れていくのです。その文様の具合を比較することで、軒丸瓦が製作された順番を推察することが出来るのです。


 実は、法隆寺と四天王寺は同じ笵型を使った軒丸瓦が使われていました。ところが、四天王寺で使われている軒丸瓦のほうが、後から製作されたことが分かったのです。日本書紀によれば、四天王寺の建設開始は西暦593年、法隆寺の建立は西暦607年になります。先に建設が始まった四天王寺なのに、発掘された瓦から分析すると法隆寺よりも後に建設されたことになってしまいます。これは、どのように解釈したらよいのでしょうか。


 ここからは講演会の内容から逸脱してしまうのですが、四天王寺の創建には異説があるのです。現在の四天王寺は天王寺区にありますが、異説によれば上町大地の北部、現在の玉造の辺りに「元四天王寺」があったとされるのです。その後、現在の天王寺区に引っ越しするのですが、その内容についてはここではご紹介しません。


 ところで、四天王寺には他の寺にはない特徴がありました。それが、四箇院の存在になります。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院になります。敬田院は寺院に該当します。同じように施薬院は薬局、療病院は病院、悲田院は病者や身寄りのない老人などを収容する社会福祉施設だったようです。どうでしょうか、あまりにも現代のお寺とかけ離れていると思いませんか?


 日本にやってきた始まりの仏教は、仏教的な思想を伝えるだけではありませんでした。漢字という文字の存在や、飛鳥寺や法隆寺といった木造建築の技術、その他にも日本にはなかった大陸由来の様々な技術と一緒にやってきました。そうした最先端の技術を学ぶ場所がお寺だったのです。つまり学校です。ところが、そうした学校的なお寺に更なる付加価値をつけていったのが四天王寺でした。


 ――なぜ、四箇院を作ったのか?


 僕は、丁未の乱が影響していると考えるのです。蘇我氏と物部氏の戦争は多くの被害者を出しました。そうした責任者の一人に聖徳太子も含まれます。聖徳太子は四天王の像を高く掲げて、宗教的な団結を促しました。自身の命令で人々を戦争に駆り立てたのです。もし、聖徳太子が本当に聖人であるならば、この事実に責任を感じたに違いありません。仏教的な思想から最も外れた行動になるからです。


 四天王寺の建設が法隆寺よりも遅れたのは、四箇院の存在が大きく影響したのではないでしょうか。荘厳な仏閣を作るよりも、行く当てのない人々を護ることを優先した。元四天王寺が玉造から天王寺区に引っ越しをしたのも、同じ理由だったと考えています。これらの理由付けは、僕が小説を書こうと考えているからです。本当かどうかは分かりませんが……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ