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歴史転換ヤマト  作者: だるっぱ
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名代・子代と名前の由来

 先日、「関西・考古学の日記念講演会」に参加しました。これまでにも幾つかの考古学的なセミナーに参加してきたのですが、今回は今までにない大掛かりな講演会でした。11時に受付がはじまり、終了したのは16時半です。畿内で実際に遺跡の発掘調査をして研究論文を発表している学者先生たちが、挨拶を含めて7人ほど登壇されました。どのお話も発掘された遺跡を根拠にしたリアルな内容でして、そこから考察される世界観は、断片的だった僕の知識をまるでジグソーパズルのように整理してくれます。とても気持ちが良かった。今回の講演会のテーマをご紹介します。


 「ヤマト王権の内部領域とその周縁」

  ――5・6世紀の拠点集落と生産遺跡――


 日本の古代史を語るとき、空白の4世紀という言葉をよく耳にします。古代日本を知るうえで日本が重要視する文献は、古事記と日本書紀になります。しかしこれらの文献は8世紀の初頭に編纂されており古代史を知る上では直接的な資料にはなりません。そこで海外の文献を参考にするのですが、日本について初めて記述された資料は魏志倭人伝になります。ここには3世紀に魏に朝貢した邪馬台国の卑弥呼のことが記されています。


 その後、中国は300年余り戦乱の時代をむかえました。この300年間は日本においてはちょうど古墳時代に相当するのですが、大陸は戦争の真っただ中なので日本の歴史を残す余裕がありません。僅かに残っているのは、宋書に記された倭の五王になります。讃・珍・済・興・武という名前で日本の大王を表現しているのですが、この時代は5世紀に相当します。つまり日本に関する4世紀の資料が、日本にも海外にもないのです。


 古墳の発掘調査によれば、3世紀中ごろに奈良盆地の南東部に箸墓古墳をはじめとする前方後円墳群が突如として誕生しはじめ、これが大和王権の始まりとされています。4世紀には奈良盆地の北部にも大型前方古円墳が建造されていくのですが、この4世紀に関しては先ほども述べたように直接的な資料がありません。記紀に記されたこの頃の天皇は実在しなかったのではないかと疑われたりもしています。今回の講演会は、この次の時代である5・6世紀が舞台でした。


 非常に情報量の多い講演会でして、正直言うと僕の頭ではまとめ切れておりません。講演する先生方は、何かを発表するときの枕詞に、

「ご存じの事と思いますが……」

と述べられますが、新参の僕にとってはご存じではない事ばかりです。それでも、振り落とされないように一生懸命に聞き入りました。当日に配布された資料も、上質な紙を使った30ページもあるカラー刷りの冊子を用意してくれます。これだけでも、僕にとっては一級の資料でした。読み返しているのですが、素晴らしいの一言です。


 まず、テーマにあげられた聞き慣れない「内部領域」という言葉についてです。日本書紀には「ウチツクニ」という言葉が出てきます。漢字で書くと「内つ国」「中洲」「邦畿之内」「畿内」と色々と当てられています。つまり、大和王朝の支配領域と考えることが出来ます。この「ウチツクニ」を現代的な言葉に置き換えたのが「内部領域」になります。


 では、その領域ですが文献には「畿内」という漢字が当てれれていますが、現代でいうところの近畿ではありません。大和国を中心とした山背国、河内国、摂津国がほぼ該当するようです。これらの地域に共通する特徴は、古代に王宮が置かれたかもしれないという痕跡です。


 王宮とは王族が住む場所ですが、その王宮で奉仕する部民のことを名代なしろ・子代と言います。男性は主に王宮を護衛しました。靱負ゆげい舎人とねりと呼ばれます。女性は王族の為に給仕をしました。采女うねめ膳夫かしわでと呼ばれます。そうした名代・子代は、各地に住む豪族や首長の子供たちが選ばれたようです。


 この名代・子代は、王宮が置かれている地域の名前で呼ばれることが多かった。例えば、雄略天皇は初瀬朝倉宮という王宮で執務を行いました。場所は三輪山の裏手で大和川の上流になります。そこの名代・子代は「初瀬部」もしくは「長谷部」と呼ばれていました。ここで、代表的なものを列挙します。


 応仁天皇  軽島豊明宮  軽部 

 仁徳天皇  難波高津宮  雀部さざきべ

 額田大中彦  額田宮  額田部  ※応仁の子

 菟道稚郎子  菟道宮  宇治部  ※応仁の子

 安康天皇  石上穴穂宮  穴穂部

 雄略天皇  初瀬朝倉宮  初瀬部

 草香幡梭姫皇女 日下宮  日下部 ※雄略の妻

 安閑天皇  勾金橋宮  勾部まがりべ

 宣化天皇  檜隈廬入野宮 檜前部ひのくまべ

 欽明天皇  磯城嶋金刺宮 金刺部かなさしべ

 敏達天皇  他田宮  他田部おさだべ

 崇峻天皇  倉梯柴垣宮  倉梯部くらはしべ


 この名代・子代の話を聞きながら、聖徳太子に関係する人々にも同じような名前があることを思い出しました。聖徳太子の最初のお后は、菟道貝蛸皇女うじのかいたこのひめと言います。お母さんは推古天皇になります。名前に菟道うじを冠しているということは、京都の宇治に関係していたのかもしれません。


 また、推古天皇はいみなを額田部と言います。生前は豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみこととも呼ばれていました。額田宮は奈良盆地のほぼ中央にあったので、若かりし頃の推古天皇は、額田宮で食膳の用意をする膳夫かしわでという名代・子代だったのかもしれません。


 他にも、馬子によって殺されてしまう崇峻天皇は、若い頃は初瀬部皇子と呼ばれていましたし、聖徳太子のお母さんは穴穂部間人皇女です。共に、誕生した土地、もしくは名代・子代であった頃の関係性が名前に影響したのかもしれません。


 当時の風習として、本名は他人に教えません。他人に名前を知られると操られてしまうと考えられていたからです。名前を呼んでも良いのは、両親か自分を支配する人に限られていました。だから、直接に名前を呼ぶ行為は失礼とされていました。では、どの様に呼ぶのか。場所や官職を使用するのです。蘇我馬子は、邸宅に嶋を浮かべた池があったことから嶋大臣と呼ばれていました。とても面倒な風習ですが、僕からすると名前そのものが大切な資料になります。


 聖徳太子という名前は後世の人々が付けた尊称になります。日本書紀には、厩戸豊聡耳皇子命うまやとのとよとみみのみこのみことと表記されています。厩戸とは馬宿の事で、お母さんである穴穂部間人皇女が急に産気づいて馬宿で聖徳太子を出産したという逸話が残っています。そこから、聖徳太子とキリストを比較するような話もあるのですが、僕からすれば後から創作されたおとぎ話だと思うのです。


 以前に、妻問婚を紹介したことがあります。昔の夫婦の関係は、男性が妻の家に通いました。しかし、一緒に生活はしません。誕生した子供は、妻の実家で育てられるのです。基本的には父親は養育に関わらない。それが当時の家族のスタイルでした。聖徳太子のお爺ちゃんは欽明天皇になりますが、曽祖父は蘇我稲目になります。蘇我稲目の息子は蘇我馬子になります。ということは、聖徳太子は子供の頃に、何らかの関係で蘇我馬子の元で育てられた可能性があるのではないでしょうか。


 聖徳太子は天皇にはなりませんでしたが、天皇になるべくして作られたサラブレッドです。蘇我稲目は、二人の娘を欽明天皇の妃にしました。堅塩姫と小姉君です。その二人の娘から生まれた用明天皇と穴穂部皇女が結婚して聖徳太子が生まれます。その蘇我の血が濃い聖徳太子を、馬子が育てていても何ら不思議ではありません。だから聖徳太子の名前に馬の漢字が当てられたのではないでしょうか。かなり脱線しましたが、名代・子代の話から、そんな事を考えていました。


 馬に関してもう少し補足すると、当時の馬養部に秦氏が強く関わっていると考えられます。大阪の北東部にある交野市や寝屋川市は秦氏と縁が深い。その土地の秦氏は、馬を養い商業として確立していました。その秦氏は聖徳太子とも縁が深く、歴史的にはかなり聖徳太子をバックアップしています。


 聖徳太子は、後に山背皇子という息子が生まれるのですが、山背というのは現在の京都市になります。この京都市は秦氏の地盤であり、後の平安京を私財を投げうって完成させる力がありました。そうした経済的に大きな力を持つ秦氏と聖徳太子の関係が深かった事実は、色々なドラマを想起させるのです。馬からかなり広がりましたが、聖徳太子のルーツに関わる問題なのでかなり気になります

 

 参加した講演会の内容は、まだまだこんなものではありません。整理しながら、僕なりの考察も交えながら文字に起こしていきたいと思います。

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