閑話:魔術について
これはほんの少し未来のお話。あるいは過去幾度となく繰り返されてきたお話。
「う~ん…」
男は悩んでいた。自らに自信を持てないが故に。
「…よし!」
男は決意した。今日こそ一歩を踏み出す為に。
その男の名はアラン。ごく一部の関係者しか知らない事だが、彼は青方で唯一人の魔術師として清貧教団…いや、リサと言う一人の女性に協力していた。
理由は他でもない。彼が彼女に思いを寄せているからだった。
元々ニコル教団長からも協力を打診されていたが、彼は一度それを断っていた。するとそれからしばらくして、一人の少女が彼の元へやって来た。それがリサだった。
彼女は打算など微塵も感じさせないキラキラした瞳で、矢継ぎ早に魔術の事を質問してきた。そんな瞳の輝きに魅せられたのだろう。彼は生まれて初めて恋に落ちていた。
アラン十九才、リサ十六才の頃の事である。
そんな出会いから既に八年もの歳月が経ち、お互いとっくに結婚していてもおかしくない年齢である。
少なくとも魔術の専門家としてなら信頼を得ていると思うし、研究に没頭すると寝食を忘れがちな彼女と付き合えるのは、現在のこの世界には自分くらいしかいないと思っている。
それでも尚アランが自信を持てない、リサに告白できない理由は唯一つ。
それは彼が魔術学院の卒業資格を持っておらず、厳密に言えば魔術師ではない事であった。彼は彼女からの信頼、その一番核となっている部分を未だ偽っているのである。
魔術学院。西方大平原の西に位置する知の大国ローリクスが誇る知識の殿堂。魔術に関する唯一の教育機関であり、また唯一の研究機関でもあった。その為、ほとんどの者は卒業後も学院に留まるので、ここ以外で魔術を学ぶ機会は、ほぼなかった。
英雄物語を読んで魔術師に憧れたアラン少年は、様々な幸運からその入学資格を得た。そして期待に胸を膨らませて入学した彼は、早々に夢を打ち砕かれる事となる。
魔術学院において魔術は高尚な学問と考えられていて、魔術師たちは皆、いかに自分の頭が良いかを競い合う事に腐心していた。
何の意味があるのか分からない難解な仮説を論じ合い、実用性の話をする者は物乞いでも見るような目で見られた。
それでも魔術の法則を解き明かす事は、世界の真実を解き明かす事に繋がるなどと言えば、金持ちたちが有難がって金を出す為、魔術師たちのエリート意識は留まるところを知らないのだった。
それでも頑張って最終過程まで進み、一通りの知識を身に着けはしたが、それが限界だった。彼には教師陣が要求するような無駄に難解で、高尚な仮説を組み立てる事が出来なかった。
それを恥じる気持ちはないし、知識は他の魔術師たちと比べても見劣りしないと思っている。しかし学ぶべきものは全て学んだからと、自ら学院を辞め故郷である東方の町へ戻って来たのは、結果として若気の至りだった。
そのすぐ後にあの世界異変が起こり、彼はこの世界で魔術に関する教育を受けた唯一の人間になってしまったからだ。
卒業資格を得ていない自分がもてはやされ、周囲から魔術の権威扱いをされるたびに、どうしようもない羞恥心に苛まれた。
たまらず田舎へ田舎へと移り住んで行く内に、とうとうモリノークまでやって来て、そこでリサと出会ったのだ。
リサと初めて会った時に彼は、学院を途中で辞めたとは言えず、自ら魔術師を名乗ってしまったのである。
だがそれも、もう終わりだ。
今度こそ、勇気を出して言おう。
彼女に本当の事を、そしてこの気持ちを告げるのだ。
「アラン、いるかい?」
そう決意したところで、間の悪い事に来客があった。
彼がこの家への自由な出入りを許している相手など、一人しかいない。
「リサ!?」
現れたのは、あの頃と変わらない瞳を持つ女性。服装はちょっとヨレてしまっていたが、彼はもうリサなら何でもいいところまで拗らせていた。
「今日は、水の魔術について聞きたいんだ」
たとえ何一つ進展のない八年だとしても、それでも彼女とは長い付き合いだ。その様子を見れば分かる。今日の彼女は、また新しい何かを思い付いたようで、別の事などとても耳に入りそうもなかった。
…仕方ない、か。
「それで、どんな事が知りたいんだい?」
彼は精一杯に格好つけて、彼女を出迎えた。
こうして彼は心地よい現在に流され、明日も同じ自問を繰り返すのである。