8 断罪か救済か
「ぐ……っ」
火郷がたたらを踏んだ。
火郷は首を巡らし、背後にいる女を見下ろした。
容加の手に握られている短刀。それが火郷の左脇腹の少し後ろに刺さっていた。
火郷が振り払おうとする前に、更に容加が力を込めて、うっすらと笑った。
「結局、藩国の病のためなんてお為ごかしもいいところ」
「おまえ……」
その笑みに既視感を覚えて、火郷はわずかに目を細めた。
「藩国の病なら、ずっとずっと、あの方の方が真剣だった。あなたは暗愚と呼んで馬鹿にし続けていたけれど」
がらりと変わった口調、しっとりとした声音に、下から見上げて来る双眸に、火郷は気が付いた。
「…………おまえ、そうか。あの男の」
「嫌だねえ。自分のお兄さんだろ? あの男なんて言うもんじゃないよ」
再び、口調が変わる。
容加を振り払おうとして手を上げかけた火郷は突然、糸が切れたように崩れ落ちた。
ぼたぼたと額から汗が落ちる。がたがたと震え出す身体に、火郷は自身に何が起きているのか判らないと言った顔で片手をついた。
「女の力と侮った? これにはね、この薬草の毒を塗ってあるんだ」
その言葉の意味するところに、千束が小さな悲鳴を上げた。咄嗟に走り出そうとしたのを恒矢に引き戻される。
阻止された千束はもがいたが、恒矢の手はびくともしない。
「あたしも医者のはしくれだよ。ここの薬草が危険なものであることくらい、すぐにわかったさ」
容加の言葉に、千束は双眸を瞠る。
ここの薬草が毒草なのかと驚いていた容加。信じられないといっていたのが演技だったのかと、皆が戸惑いを見せる。
「ふふふ。あんたたちが望んだ、不老不死の薬草で死ねるんだもの。本望だろう?」
「火郷様!」
血相を変えた郭稚が、火郷に手を伸ばす。
「おまえ、何を……!」
郭稚が容加に掴みかかろうとし、容加が短刀の柄を握りなおし右足を後ろに引いたのを見て、千束が声を上げた。
「抜いたら駄目!」
千束の制止むなしく、容加はにっこりと笑い、一気に短刀を引き抜いた。
郭稚の手を逃れようと半身を捻った容加の手から短剣が飛ぶ。捻った身体を正面に戻す反動を利用して容加が郭稚へ何かを浴びせかけた。
それはほとんど郭稚に届くことはなかったが、ほんのわずかな量が郭稚の顔にかかる。
容加の手から離れた短剣が恒矢の足元に落ちたのと、郭稚が右目を覆って悲鳴をあげたのは、ほぼ同時だった。
「なにをした……?」
端佐が、愕然と今の今まで自分を支えてくれていた容加の突然の行動に理解が追いつかないという顔で、数歩よろめくように進む。
「ここの薬草から抽出したもの、かね」
空になった小瓶を振りながら、容加が答える。
絶句した端佐に、容加が笑う。
「杜撰だよねえ。危険な薬を扱っているという自覚が足らないよ」
お抱え連中のところから掠め取ったのに誰も気が付かないと容加が咎めるように言う。
人不足では言い訳が立たないと指摘されて尚、端佐は絶句したままだ。
「目に入ったんだね」
呻く郭稚を冷たい眼差しで見る容加。
「おまえは、いったい……」
端佐の問いに、火郷が脂汗を滲ませた顔で容加を睨み上げる。
「なるほど……仇討ちか」
「すごいね、まだしゃべれるのかい」
「仇……?」
怪訝な色を深める端佐に、火郷が唇を歪めた。
「兄の婚約者だった女だ」
「まさか!」
端佐が声を上げて、容加を凝視する。お抱え薬師の長である端佐は、その令嬢を見たことがあるが、面影などどこにも見い出せない。
次期藩主だったはずの火郷の実兄の婚約者は、同じく火の藩国の有力家門の令嬢だった。
婚約者の一門も跡目争いの煽りを受け、没落した。令嬢は、そのまま市井に下ったことは記憶に新しいが、令嬢としては乱雑すぎる口調、年の頃も、姿形もあまりに端佐の記憶と違う。名前も違う。彼女はここに来てからきちんと医者としての働きをしていた。市井に下ってから医術を身に着けたとするなら驚くべきことだが、容加として人物の経歴と合致しない。
「日名宇の人たちの方が、ずっと藩国の民を想っているじゃないか。病の理由を見つけて、それを根絶するために力を貸してくれるって言っていたのに、あんたたちは一顧だにしやしない。本当は藩国の病なんて、どうでもいいんだろう? そこの薬師のお嬢さんは、ここに来て、たった数日で藩国の病の原因を見つけた。お抱え連中ができなかったことを、たった数日でさ! さすがだよ。日名宇の里の名前は伊達じゃないよねえ。専門家が、この薬草は危険だというのに聞きやしない。結局、あんたたちは自分たちのためだけに不老不死になりたかっただけさ。順当に行けばあんたたちも後、生きて二十年ちょっとだもの。死にたくはないさねえ?」
容加は、うっすらとした笑みを貼りつけたまま言う。
「こんなのを信じていたなんて、なんて火の民は滑稽なんだろうね」
端佐が小さく、婚約者だったはずの令嬢の名を呟く。
容加は応えなかった。
「離して恒矢!」
薬師として放っておけない千束の気持ちは承知の上で、恒矢は半ば拘束するようにして引き留める。
「駄目だ!」
毒に触れさせるわけにはいかない。すでに血も身体も毒に侵されているのは、火郷の状態をみても明らかだった。責められるとしても、恒矢は千束を行かせるわけにはいかなかった。
「早く止血を!」
悠長に話している場合ではないと、千束が声を上げる。
「駄目だよ。日名宇の薬師の御嬢さん。この男を助けては駄目」
新しく小刀を握った容加が歌うように言う。
「あの人はなんで死ななきゃならなかったんだろうねえ。あんたたちが迷わず日名宇の薬師の手を取ったなら……」
千束は千種を見る。娘の視線に、千種は首を振った。助からないと判断して。
「そんな……」
千束は比良を見る。傷自体は致命傷ではないはず。だが、比良もまた千種と同じ判断を下した。
「そんな」とは言えずに、千束は唇を噛みしめた。
乾いた笑いが響いた。火郷だった。
「なんて顔をしている。お人好しなことだ……」
「火郷様!」
響いた大音声は、藩主たちを探しに来た護衛官たちのものだった。
薬草園からの退路である坂道が塞がれてしまい、真静が小さく嘆息し、伊那が焦りを浮かべる。それでも示し合わせたように、火郷たちから少しずつ距離を取り始める。
先程の衝撃と断末魔にも似た何かは藩国中のみならず近隣諸国にまで響き渡っていた。それをまだ知る者は藩国内にはいなかったが、姿の見えない藩主に城内は大騒ぎとなり皆が恐慌状態になっていた。
右往左往した後に薬草園に駆け付けた護衛官たちが見たものは、明らかに様子がおかしい藩主と倒れこんでいる郭稚。周囲の人間が、二人を今にも害そうとしているように見える光景に護衛官たちが一気に頭に血を上らせた。
右目を押さえたまま郭稚がふらつきながら膝をつき、身体を起こす。火郷は、まだ膝をついたまま意識を保っていた。
起き上がった郭稚に、思わぬものを見たというように容加が軽く眸を瞠る。
「……っ。火郷様を助けよ! 藩主様を害した、この女を射ろ!」
郭稚が叫んだ。
「郭稚殿!?」
神官長と端佐が同時に制止の声を上げた。
「止めよ!」
神官長が振り仰いで叫ぶ。
「火郷様に当たったら、いかがする!?」
弓を引き絞っていた数人が、その言葉に動揺して力を緩める。だが、一拍遅く、一人の護衛官より矢が放たれた。
その矢は、容加の右肩に命中した。
「容加さん!」
千束が叫ぶ。
「千束!」
するりと抜け出した千束を捉えようとした恒矢の手が空を切る。つま先に落ちていた短剣に気付いて、咄嗟に武器にと拾い上げて恒矢が慌てて追う。
倒れこんだ容加に駆け寄る比良と千束。少しでも射程距離から離したくとも、すぐ後ろには薬草園が広がっており、逃げ場がない。治療の道具がない。
ここでできるのは止血くらいだ。千束が結んでいた髪紐を解いて、手早く容加の止血をする。容加の意識はあり、致命傷となる傷ではなく、千束は胸をなでおろした。
「射ろ! 早く! 射ろ!」
狂ったように叫ぶ郭稚の腰を端佐が杖で強かに殴りつけた。
声を詰まらせて倒れこむ郭稚を尻目に、よろめきながら端佐は火郷に近づいていく。
「容赦ないな」
殴られてうずくまる郭稚に、火郷が呟く。あれは痛かろう。
「触れるな。死ぬぞ」
「かもしれませんな」
端佐はふっと笑った。
「ですが、わたしは藩家のお抱えですので」
その言葉に、火郷がわずかに口角を上げた。
「侵入者どもを捉えよ!」
どこにそんな力が残っていたのか、火郷が声を張った。
郭稚の命では迷いを見せた護衛官たちも、火郷の声には瞬時に反応した。
「火郷様……」
端佐が伸ばしかけた手を止める。わずかに非難が宿る声音に、火郷が皮肉気な笑みを深めた。
「知られたまま、藩国から出すわけにはいかん」
額から落ちるほどの脂汗に顔面蒼白、浅い呼吸が続く火郷の双眸は強い光を放っていた。
火郷の命に呼応した護衛官たちだったが、いきなり体勢を崩した。
護衛官たちの背後から、矢が次々と飛んでくる。
それが護衛官たちの行く手を阻む。
護衛官たちを背後から襲撃した者たちがいた。
的確に護衛官たちを狙い、日名宇の人の逃げ道を誘導するかのように放たれる軌道。こんな時でなければ、賞賛の口笛を吹きならしたくなるほどの腕前だった。
護衛官たちの背後に騎馬上の日名宇の里長が見えたと思ったが、火の藩国製の武器を手に入れた彼らの実力は護衛官たちに劣らず、あっという間に混戦状態となり、誰かが煙幕でも使ったかのような土埃が撒き上がる。
一瞬何が起きたか解らなかった神官長は状況を把握すると、巻き添えになっては堪らないと距離を取る。こんな時だと言うのに呆れを含んだ乾いた笑いが漏れた。
しびれを切らした里長たちが乗り込んできたと瞬時に悟った真静が伊那の手を掴み、千種と一緒に走り出していた。
「行きましょう」
比良と恒矢が容加を支える。一瞬、拒んだ容加だったが、千束に強く手を握られて素直に立ち上がる。
「大丈夫。一人で走れるよ」
千束が容加の背を支え、走り出す。
二人を追おうとした恒矢は名を呼ばれて、振り向く。
「先に」と比良が恒矢に耳打ちした。
「わたしは、ここを始末してから行きます」
懐から火種を取り出した比良に、小さく恒矢は頷いた。
すぐさま千束たちを追おうと踵を返した恒矢の視線の先で、何を言っているかわからない叫び声を上げながら、郭稚が短刀を振りかざして容加に斬りかかろうとしていた。
動けなかった容加を千束が突き飛ばす。
目標を失った郭稚の手が千束へと振り下ろされた。
「千束!」
恒矢が叫ぶ。
恒矢の叫びに比良が振り返る。
千種が足を止める。伊那から悲鳴があがった。
千束の前に身体を滑り込ませた恒矢は、拾い上げたまま持っていた短刀で郭稚の短刀を弾き飛ばす。その後ろで、崩れ落た千束を駆けつけた比良がぎりぎりのところで抱きとめた。
俄かに空が曇り始める。
「千束、千束、大丈夫か!?」
すぐにでも千束に駆け寄りたいのに、更に郭稚が襲い掛かってくる。
「は!?」
郭稚の短刀は弾き飛ばしたはずなのに、その手にまだ短刀があることに恒矢は声を上げる。確かに地面には弾き飛ばした短刀が落ちている。
弾き飛ばした短刀は、容加が射られた際に取り落としたもので、今振り回しているものは郭稚の自前のものだった。だが、そんなことまでは恒矢には判らない。
「何本持ってんだ」
舌打ちして受け止め振り払う恒矢に対して、右目がほとんど見えていないらしい郭稚は滅茶苦茶に短刀を振り回す。
郭稚の攻撃を受け流しながら、恒矢が振り払う。
どんどんと周囲が暗くなる。風が吹き始めた。
突き飛ばされた容加が這うようにして、よろよろと千束に手を伸ばす。
「あんた……」
恒矢が持っている短刀と同じく、容加が矢に射られた際に取り落とした郭稚が振り回していたそれには毒が塗ってあった。
「大丈夫……」
容加の泣きそうな顔に、荒い息を吐いて千束は答える。
「なんてこと……」
容加が嗚咽混じりの呻きを漏らす。
強くなる風に郭稚の身体が傾いだ。
恒矢は下から郭稚の腕を斬りつけ、そのまま振り下ろす。郭稚が倒れこんだ。
「千束!」
駆け寄ってくる母と伊那をぼんやりと見つめ、ああまずいと千束は呟いた。
千束は腹部を押さえていた手を外し、そっと自身の掌を見る。
周囲が暗くて、よく見えなかった。だが、この金臭い匂いは知っていた。
両手には、べったりと赤い色がついているのだろう。
「大丈夫、大丈夫ですよ。必ず助けます」
比良の声を耳元で聞きながら、千束は意識を手放した。
「千束!!」
恒矢の叫びが呼び水になったかのように雷鳴が轟き、落ちた。
雨も降っていないのに、雷鳴が轟く。
立っていられないほどの強風が渦巻き、人々の口から悲鳴が放たれる。
「駄目だよ!」
千束の傷に手を伸ばした恒矢に容加が叫ぶ。
「傷に触っちゃいけない」
「何言ってんのよ!」
駆け付けてきた伊那が叫ぶ。
「駄目なんだ。毒が……毒が塗ってあったんだよ。あの短刀には」
「なんですって!?」
血相を変えた伊那の横で、千種が静かに問う。
「ここの薬草?」
「ああ。だから、あたしがやる」
千束の傷に触れようとした容加の手を、千種がはたき落した。
「そんな手で触れようっていうの?」
容加の両手は土で汚れていた。
「あ……」
ひとつ、ふたつ、みっつ……立て続けに雷鳴と稲光が空気を切り裂く。
そのひとつが落ちた。目の前の薬草園へ。
ぱちぱちと燃えだす音が、あっという間に広がっていく。
枯れ木でもないのに燃え上がる。
「し、神罰だ……」
「火の神がお怒りだ……」
ばたばたと武器を取り落とす護衛官たちが続出し、藩主たちを置き去りにして泡を食ったように逃げ出し始める。
「何に対する神罰かしら?」
恐慌に遁走する護衛官たちを見て、呆れたように真静が呟く。
「さあね」と答えた千種が、軽く舌打ちする。
「なんなの、この天気は! 手元が見えない!」
周囲が帳に包まれたように急速に光を失っていく。
「ここじゃあ治療は無理よ」
「すぐそこに医務室があるよ!」
伊那の言葉に、容加が声をあげた。
手元さえ覚束なくなる視界を、薬草園を走る火が照らし雷鳴が引き裂いていく。
雷は火の城にも落ちて、地響きを繰り返す。
恐怖からか、そこかしこから悲鳴が上がり続ける。
一振りで雲を呼び、二振りで風を呼び、三振りで雷鳴を招く。
「神器……?」
神官長がぽつりと呟いた。恒矢が放り出した、雷鳴を受けて輝く短刀を凝視して。
「なんて愚かな」
突然、耳元で響いた声に、神官長はびくりと身体を強ばらせた。
誰何しようにも声が出せず、姿を捉えようにも振り返ることが出来ない。
「何故、ここまで」
それはどこか悲哀に満ちていた。
視界が闇に閉ざされる。
薬草園を舐める火の勢いは衰えていないにも関わらず、まるで切り替わったかのように藩国に闇が落ちた。
◇◇◇
闇が晴れる。唐突に。
燻る薬草園と落雷のせいでところどころ抉れている地面から視線を逸らせば、闇が拭い去られた後には雲一つない青空が広がっていた。清々しいほどに眩しい。
「うわああああああ」
悲鳴が響き渡った。
叫び声を上げた郭稚は、己の頭を抱え込むようにして喚いている。掴む指の間からのぞく毛髪は神色を失っていた。一般的で、ありふれた茶色の髪。
その驚愕と畏怖の悲鳴は、火の藩国のあちこちで上った。
神色を突然、失った人々が絶叫を繰り返す。
火の藩国が火の神の加護を失ったといわれる瞬間だった。




