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咳と電車

作者: 道ノ瀬カイ

「せ」

 たらり、とこめかみをつたった汗は、マスクの紐によって堰き止められた。暖房が効いていないも同然なこの電車内は、冬のひんやりとしたかおりと人のにおいが混じっている。そんな中で汗をかくほど、僕は焦っていた。


 手元のスマートフォンが映すネットニュースには、「電車内」「咳」「暴行」の文字が並ぶ。ホコリか何かが喉にへばりついたような感覚を抱く今の僕の不安を煽るには、十分な3単語だ。

 今すぐにでも咳がしたいわけではない。だがこの喉の違和感は、いつ暴発するのかがわからない。10秒後、20秒後には爆発する可能性だってある。では適当な駅で降りて爆発させてからまた電車に乗れば良いと思うかもしれない。それができないのだ。なぜならこの電車は急行。次の駅まで10分弱。先の見えない恐怖を、いったい誰がわかってくれよう。

 僕からしてみれば明らかに喉にへばりついた何かのせいだが、もしこのまま電車内で咳をしたとして、他者からウィルス性と思われても仕方がない。このご時世だ。誰もが咳に過敏になっている。かといって暴行沙汰に巻き込まれるのは絶対に御免だ。


 一度、ンンッと咳払いをしてみた。喉の違和感は何も変わらない。あえて変化を挙げるとすれば、隣に座る人からの視線を感じ、少し僕から離れたように思えた。こんな状況で盛大に咳なんてしたらどうなるか。隣の人が、前の人が、斜めの人が、どんな人柄かわからない。平然とした顔で座るあの人だって、咳一つで変わってしまうかもしれない。ひたすらに不安が大きくなっていく。


 喉の感じからして、自然な呼吸はおそらく咳を誘発するだろう。小さく小さく、様子を見ながら息を吸い、同じように息を吐く。その繰り返しは、まるで綱渡りでもしているかのような緊張感だ。いつ喉の違和感が爆発するのか。せめてそのタイミングだけでもわかればいいが、そんなことは神のみぞ知る。仕方なしにスマートフォンで〈咳 出さない方法〉やら〈咳 止め方〉やらを検索するが、解決法は見当たらない。文明のリキを持ってしても、僕の不安は取り除けない。

 あぁ、せめて何か飲み物を持ってくればよかったと後悔した。乗車前に喉の渇きを感じなかったから目的地で何か買えばいいと判断した数十分前の自分に会えるならば、胸ぐらを掴んでしまう勢いだ。せめて飴玉ででも喉を潤せたら幾分かマシになるのに。

 マスクの中は蒸れても喉の違和感が収まることはない。咳が出ないうちに電車よ、止まってくれ‼と願わずにはいられなかった。


 ふと、右腕を小突かれたような気がした。視線だけを向けると、見知らぬスマートフォンの中に『大丈夫ですか?』と文字が並んでいた。僕の焦りはおかしな挙動となっていたのかもしれない。自覚はないが、隣の人が心配するほどだったのだろう。恥ずかしさと申し訳なさが大きな壁となり迫ってくるようだった。僕は慌てて『すみません。喉の調子が悪いだけで、大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。』と自分のスマートフォンのメモ機能に打ち込み、隣の人に見せた。すると隣の人は、膝に乗せたエナメルのバックをごそごそと探り出し、ぽん、と小袋に包まれた飴を、ひとつ、差し出してきた。


 女神は実在する。本気で僕は、そう思った。


 『ありがとうございます』と打ち込んだ画面を女神に見せながら、感謝の気持ちを『!』を増やしていくことで表現した。時々打ち間違えて『れ』と『、』が混ざるが、そんなことはお構いなしにとにかく『!』を増やしていった。女神は2・3回頷き、『声掛けは恥ずかしくて躊躇うのですが、メモでなら話しかけられました』と見せてくれた。そのまま電車は止まり、女神は降りていった。


 僕は電車を降りずに、有り難く飴をマスクの下から口に放り込んだ。新しい生活様式の中での地獄と天国を同時に味わったような気がした。

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