はじまりの話
はじまります
「くそっ!しつこい奴めっ!」
俺は森の中をがむしゃらに逃げていた。道なき道をひたすらに走る。ここが何処なのかも分からず、どちらの方角へ向かっているかも分からない。
チラリと後ろを振り返ると、複数の影が迫ってくるのが見えた。あまり速くはないが、確実に距離を詰めてくる。相手の方が森の中を移動することに慣れているようだ。
ずっと走り続けているので、喉が焼けるように熱い。吞み込む唾液すらない。藪の中をかき分けながら逃げているので、手足のあちこちに傷が出来ている。ぬかるみに足を取られて何度か転倒もしたので、服はドロドロだ。
「もうちょっと……! イージーモードにしてくれたっていいだろうっ! あの神! くそっ!」
俺はこんな事態になった原因を作った神に悪態をついた。しかしそれは慰めにもならない。
――
今から半日ほど前、俺は真っ白な空間に立っていた。
「あれ、なんで、ここは……?」
身体中を見回してみる。先程まであったはずの傷が奇麗になくなっている。節々の痛みもない。
「これは……死んじゃったって事なんだろうか。ここが天国……?」
「天国とは少し違うな。だがまぁ、君からしてみれば似たようなものだ」
突然目の前に初老の男性が現れた。グレーを基調としたベストを羽織っている。
「あなた……は?」
「私は、君たちにとっての神といった存在。と言っておけばよいだろう」
神、と聞いて俺はある物語を思い出していた。交通事故で死んだ少年。哀れに思った神が超常の能力を託して異世界を救う勇者へと転生させてくれた話。まさか俺にそんな状況がやって来ようとは――
「残念ながら、私は君を救うためにここへ呼んだわけではない。だが、これからやってもらいたい事があるのは確かだ。まずは説明を聞いてもらえると助かる」
まさかこの人は俺の思考を読んだのだろうか。この状況が普通ではないことはわかった。神と名乗った眼の前の男に対して小さくうなずき返す。
「よろしい。君にはこれから今まで住んでいた世界とは別の世界に移動してもらう。アメリカやヨーロッパといった大陸間の移動という話ではない、全く別の言葉や文化を持った世界だ。その世界をより良いものにするために、君たちのような若い者に託したい。申し訳ないことであるが、これには拒否権はないことなのだ。理解してもらいたい」
神は淡々と語った。想像していた、異世界に連れて行かれる話のようだ。
一呼吸おいて神は話を続ける。
「無理やり連れて行こうとしていることは私も重々承知している。そのため、せめてもの償いとして前世にはなかった能力を授けよう。この能力の詳細はその世界に行ったらわかるだろう――」
――
そう言って、神は俺をこの森のなかに転生させたのだ。
建物も道もなにも見当たらない。あたりを見渡しても人が森に手を加えた痕跡はどこにも見つけられなかった。木々の間から差し込む木漏れ日のおかげでまだ日が高い時間だということだけがわかる。
「特別、何か力を得たような感覚はしない気がするんだけど」
俺は身体中を見回す。前の世界で着ていたのと同じ高校の学生服だ。ただし、死ぬ直前のものではないらしい。それは学生服に傷が何一つ付いていないことから予測することができる。俺が死亡する原因となった交通事故、高齢の男性が運転していた自動車が暴走したものだった。アクセルとブレーキを踏み間違えたのだろう。横断歩道を渡っていた俺の前に、赤信号で停止するのではなく加速して突っ込んできた。そこで即死していればまだ苦しまずに死ぬことができたのかもしれない。しかし残念なことに、宙を舞った俺はアスファルトの上を転がり、救急車に載せられて運ばれるところまで意識が残っていた。担架に乗せられ、けたたましいサイレン響く車内で処置のために学生服を切られたことを覚えている。
今着ている服には、転がったときについた土埃や切り裂かれたような形跡はどこにもなかった。
他に何か手がかりは、と思い服の中を調べてみると、上着の腰ポケットにスマートフォンが入っていた。時間を確認すると、ちょうど事故のあった時間帯が表示されていた。そしてスマートフォンの電波状況は圏外となっている。異世界と伝えられて飛ばされたのだ、通信できないのは当然のことだと思う。
「とりあえず、これがあればしばらくは進むべき方角を間違えることはなさそうだ」
圏外表示を気にせずに俺はスマートフォンのロックを解除して、地図アプリを開いた。当然アプリ上には何も表示されない。ただし、向いている方角だけは表示されていた。
まずはこの森を出よう。どちらに進むのが正解なのかわからないので、とりあえず東へ、ただひたすら歩いて見ることにした。とりあえず真っすぐ進んでいれば、森の終端なり川なりに出るだろう。
――
少し歩いて方角を確認する、を繰り返しながら前進し続けた。できる限り茂みが深くないところ、あまり高低差のないところを選びながら歩いていると、想像以上に間違った方角を進んでいることがだんだんわかってきた。それからは頻繁に止まって確認するようにした。
そして2時間ほど歩いたところでそいつらに遭遇した。
この森はどこまで続いているんだろうと考えていたときのことだった。足元に生き物がいたらしくうっかり踏みつけてしまった。踏んだ直後、キイイイ! と生き物は鳴き叫び、森の奥へと逃げていった。その鳴き声の鋭さに俺は驚き、しばらく身を小さくしていた。わずかの静寂が流れたあと、先程の鳴き声に似た声が周囲からだんだんと近づいてきた。鳴き声を聞いた途端、俺は嫌な汗が流れ始めた。明らかに先程踏みつけたのが引き金になったに違いない。そのまま振り返ることなく、進んでいた方角にそのまま真っすぐ走り始めた。
――そうして走り続けてさらに数時間。話は冒頭に戻る。
俺の体力は既に限界に達していた。足がもうほとんど動かない。草で手足を切り、いたるところが出血している。方角を確認するためのスマートフォンも、走り始めてしばらく後に壊れてしまった。どちらに進めば良いのかもわからず、ただがむしゃらに走り続けていた。
だがそれも、既に限界が来ていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……もう……うっ、くそっ」
地面を這っていた蔦に足を取られて俺はその場に転倒した。立ち上がる気力も起きない。腕を突っ張って上半身を起こすことはできるが、足が言うことを聞かない。後ろから鳴き声が近づいてくる。しかし動くことができない。
「はぁっ、死んで、はぁっ、また、死んで、なんだよ、これ、なんで、だよ」
あんまりだろ、と後ろを振り返る。だんだん鳴き声が大きくなってくる。俺はただ、それを見ることしかできなかった。
――もう、だめだ
そう思った直後だった。
「まだ動けるか。ズボンと靴を早く脱げ!」
背後から声が聞こえてきた。とっさに後ろを振り向――
「聞いてたか? 時間がない。早くズボンと靴を脱げ!」
なぜそうするのか、一体誰なのかを考える余裕はなかった。言われたことを実行する。
身体を折って屈もうとする。しかし恐怖と体力の限界が重なり、思うように脱ぐことができない。どうにか左足だけ靴を脱いだところで、先程の声の主が傍らにやってきて、靴とズボンを脱ぐのを手伝ってくれた。
ちらりと横顔を見る。ガタイの良い、厳格な顔つきをした壮年の男だった。男は手早く脱がせると、それらを持って森の奥へ走っていった。
生き物の声は男の走った方向へと向かっていく。だんだんと小さくなり、しばらくすると鳴き声は完全に聞こえなくなった。
――
静寂が流れる森のなか、俺の前に先程の男が戻ってきた。
「無事か。立てるか」
男は言葉短くそう言った。俺は立ち上がろうとするが、相変わらず足が言うことを聞かない。
「この先に開けた場所がある。――行くぞ」
男は俺の腕を掴むと、身体を持ち上げるのを手伝ってくれた。そのまま腕を男の肩へ手を回すと、俺たちはゆっくりと歩き出した。
――
……こうして、俺は一度死に、また死にかけたところでかろうじて生き残ることができた。
あのときのことは忘れられない。そして、これからある様々なことも。俺は彼に一生かかっても返しきれない恩を受けてきた。だから、俺にできることは何だってやってやろうと思っている。それが彼に報いることであり、世界を良い方向へ導いていくことにつながっていくと思っているから。
無事に生き残ってくれました。よかった。