はじまりの話
単話投稿の方で上げたものを連載投稿のほうに上げ直しです。改行とかちょっと弄っただけなので中身変わってません。
――暗闇の中を漂っていた。
身体の感覚はなく、まるで水の中を漂っているようだ。今、自分が上を向いているのか、下を向いているのかも分からない。
……死というのは、こんなにも穏やかなものなのだろうか。
彼は考える。五感がまるで働かない状況で、身動きの取れないことに恐怖するでもなく只々思考する。今までのこと、そしてこれからのことを。
時間はそれほどかかることもなく、彼の意識もだんだん闇の中に溶けていく。彼はそれを受け入れるように、流れに身を任せて虚空に消えていった。
――
パチパチと、火の爆ぜる音が聞こえる。
彼はゆっくりとまぶたを持ち上げ、辺りを見渡す。
薄暗い部屋の中。暖炉の明かりでようやく部屋の中が見渡せる。火の勢いが少し弱い。そろそろ薪を足してもいいのかもしれない。
少し広めの部屋の真ん中にあるベッドの中に彼は横たわっていた。真っ白なシーツに包まれて、温かい布団の中に柔らかく沈み込んでいた。
「――お目覚めですか」
不意に頭上から声をかけられる、彼はまだ覚醒しきっていない頭を動かして声のした方向を見ると、一人の女性が立っていた。
中世ヨーロッパの民族衣装にもよく似た服を着た細身の女性だ。ブロンドの髪を後頭部で結い上げている。
「私は……」
彼はゆっくりと話し始めた。彼はこのベッドで寝ている状況になった記憶がない。
「あなたは生前、トラックに跳ねられ命を落としました。若くして尽きていく命に神々は無念に思われ、慈悲を与えられこの地で生まれ変わったのです」
「……」
彼は何も言わず、女性が話す内容を聞き続ける。
「あなたは慈悲とともに与えられた神の御力を汲み取る力を使い、この世界の人々を救うためにここにいます。強く勇敢なお方。あなたがこの世界を平和に導いてくれることを、我々は切に願っております……」
言い終えると、女性は柔らかく微笑んだ。彼は女性の顔をじっと見つめて、口を開く。
――
「何を言ってるんだ、私はまだボケてなんておらんぞ」
「チッ」
女性は表情を崩し、皮肉を込めて舌打ちした。ベッドの傍らの台に手をのばす。置いてあった水差しを手に取り、コップに水を注ぎ始める。
「はぁ、まったく……夜遅くに帰ってきたと思ったら酔っ払って扉の前で寝ちゃうんだもの。まだ寒いんだから、こんなところで寝たら風邪引くでしょって引っ叩いてもピクリともしないし」
女性は呆れ顔でコップを差し出してきた。彼はベッドの上で起き上がり、中の水をぐっと飲む。
「いやぁ悪かったな。久々に訪ねてきてくれた友人だったんだ。昔話に花が咲いてしまってついつい飲みすぎてしまった」
「もう若くないんだから、飲み過ぎも程々にして頂戴ね」
女性はそう言うと、背もたれのない木の椅子を引いてきて腰掛けた。
「子どもたちが話してたわよ。昼間、その人との昔の話をしてあげるって約束したんですってね。みんな楽しみにしてたんだから」
「そうか、それは悪いことをしたな。明日たくさん聞かせてやることにしよう」
「お父さんの話は突拍子もなさすぎてどこから本当でどこまで嘘なのかちっともわからないけど」
全部本当に決まっているだろう。と彼はカラカラと笑いながら答えた。この平和な時代、今でこそ穏やかに毎日を過ごしている彼が、かつて魔王を討伐した英雄の一人だとは到底思えない。
「私も小さい頃に色んな人から聞かされたから大体の話は知ってるけど、どれもこれも荒唐無稽な感じよね。国を滅ぼしかけたドラゴンとねずみ駆除をした話とか、神殿を守るガーゴイルとカバディで勝負する話とか」
他にもあれとかこれとか……と女性は指を折りながら並べ立てていく。
「すべて本当の話さ。まぁ話す奴によっては多少の主観や脚色は混ざっているかもしれないがね」
はぁ、と女性は頬に手を当てて溜息をつく。
「あまりいい加減なことを言って、子どもたちに変な影響を与えないようにして頂戴ね」
「なんだ、子どもたちが将来の夢を持つことはいいことじゃないか」
「私は将来ピクシーと相撲を取るために力士なるとか言い出したりしないかが心配なの」
女性は彼を睨みつけた。我が子が道を踏み外してほしくないのは母親として当然だろう。
「それじゃあまた明日。あんまりおかしなことは教えないように。何を話すのか考えておいてくれると嬉しいわ」
そう言い残すと女性は立ち上がり、部屋を出ていった。しんと静まり返った部屋の中、彼は一人になると、もう一杯水を飲み干してから再びベッドに横になった。
何の話をしてあげようか、彼は目を閉じて考え始める。思えばこの世界に来てからいろいろなことがあった。
若くして交通事故で死んだと思ったらこの世界に転生させられ、知らない言葉や文化、生活習慣に食事、様々な苦難を味わいながら異世界で生き延びてきた。同じ世界から転生してきた人たちと手を取り合い、時には騙され争ったりもした。魔王と呼ばれた男と対峙し、死闘も繰り広げた。哀れな漂流者を保護するための組織などを設立することを進言して、そこの代表に任じられた。
他にも細々としたことを挙げればキリがない。日本にいた頃、若かったあの頃にはどうしてこんな人生になると考えただろう。それはまさに神のみぞ知ることだったのかもしれない。
「まだ人生を振り返るのは早いか。やらなくてはならないことが山積みだからな」
そう一人つぶやくと、彼は目を閉じて意識を落としていった。暗闇の中を漂うように。
はじまったと思ったらおわってた。