はじまりの話
にゃーん
吾輩は猫である。名前は無。
ムと申します。よろしくおねがいします。
私はとある日本でとある普通の高校で学生をやっていたわけですが、とある交通事故に巻き込まれて異世界に転生してしまったわけです。
神様いわく。この世界で活躍してくれることを期待してるとかなんとか。
しかし、猫で活躍することってどういう事があるのでしょう。わかりません。
そもそも、人間が猫になるというメカニズムもよくわかりません。確かに神様からは人間として異世界に行くとは言われませんでした。でも活躍させたいなら人間とか、他のなんか強い生物にしてくれるのが普通じゃないでしょうか。
そんなこんなで、今私は豪邸の使用人に拾われて優雅にイエネコをさせていただいております。やったぜ。
私に名付けられたムという名前は、所謂タマみたいな感じで猫につける一般的な名前なんだとか。異世界人のセンスが全くわかりません。
猫なのでにゃあにゃあ鳴いていれば餌をもらえて飢え死にすることがないのは幸いだと思う。ただ如何せんすることが全くないというのも暇なものだ。世界の命運はどうした。これから何か事件に巻き込まれてスーパーキャットに変貌を遂げるのだろうか。猫なのに英雄になってしまうのだろうか。すごいな異世界。
……いやいや全くイメージができない。こっちに来てからこの方、一度も魔法っぽいものを使えたことが無いですよ。
使用人もここの家人も、魔法っぽいものを使ってる場面を見たことがない。魔法を使っていろいろなことが出来るはずでしょう! 洗濯する時は水魔法が便利ですよ! 暗くなったら光魔法で部屋を明るくしたり。料理の時にうっかり火魔法の威力が強すぎて材料を焦がしてしまったり。そういったものは無いんですか!
もうね、ほんとに無。何もない。何もできない。代わり映えのしない毎日。なんなんですかね。ここは。
することがないので、今日もフラフラと邸内を散策する。私は紳士猫なので、人の邪魔にならないように廊下の端を歩くのだ。
まずは一階の奥にある主人の部屋にお邪魔する。ノックができないので、入るときにはにゃあと一言声をかける。どうやら主人は仕事中のようだ。机に向かって何やら書き物をしている。大変そうだ。
私は音を立てずに机に飛び乗り、主人の腕の下をくぐって書類の上に乗った。どれどれ私がその書類をチェックしてやろう。今こそこんななりだが、元の世界では新入社員として書類のデータチェックばかりしていたのだよ。誤字脱字がないかチェックしたり、たまに根拠の不明瞭な入力値などがあった場合は書類の作成者に問い合わせをしたり。私は胸を張って言える。私は書類チェックの鬼だと。
しかしそんな私を差し置いて、主人は書類の上から私を抱え上げ、床の上に降ろしてしまった。大変不本意です。ダブルチェックは大事ですよ。中途半端なドキュメントは修正する手間の分だけ工数が増えて、後々になって自分に返ってくるんですよ。そんなことでは社会人として失格ですよ。猫の私に指摘されててどうするんですか。
しばらく机の周りをウロウロしたり、膝に飛び乗ったりしてみたが相変わらず主人はかまってくれそうにない。仕方ないので部屋を後にした。せいぜい後で後悔しなさい。
次は隣りにある婦人の部屋に入る。ここでも私は律儀ににゃあと一声かけてから入室する。どうやら婦人は裁縫をしているようだ。ここは遠巻きに眺めるだけにしておくべきだろう。というのも、以前裁縫中に膝の上に乗ったところ、私のことを針山と勘違いして針を刺してきたことがある。あれはほんとに痛かった。何が痛いって飛び跳ねたら更に針が深く突き刺さったのが最悪だった。幸い大事には至らなかったので今はこうして生きているが、下手したら何もしないまま異世界生活が終わるところだったぞ。死因が裁縫針にさされたからなんてあまりにも酷い。
そういう理由で、婦人が裁縫をしているときは邪魔をしないようにしている。彼女の集中力はものすごいので、一度作業に取り掛かると布から目を離さない。だから針山と間違えるのだろうが。
ここでもしばらく眺めていたが、やはり面白くはないので部屋を出ることにした。
一階のホールに出た。階段を登って二階の散策に移る。階段から一番近い部屋の扉の前に来たが、この部屋はパスをする。ここは長男の部屋なのだが、長男のことを私はあまり好ましく思っていない。かまってくれるのは有り難いのだが、少々乱暴なことがあるのだ。あれだ、騒がしいから毎日絡んでると疲れるけど、たまに遊ぶ分にはそこそこ楽しい友人。みたいな感じだ。その程度の人間関係なのだ。私は猫だけど。
そもそも彼は現在この部屋にいない。成人して家を離れたようだ。それほど遠くには移り住んでいないようで、二週間に一度くらいの間隔で帰ってくる。その時は私も覚悟を決めて部屋に侵入することにしている。
次で最後の部屋だ。二階建ての屋敷の一番奥には妹の部屋がある。例によって私はにゃあと声をかけて入室する。妹君は本を読んでいたらしい。鳴き声に反応して顔を上げ、こちらを見ておっとりと微笑んだ。清楚な金髪が開け放たれた窓から入ってくる風になびいている。かわいい。
私はベッドの上に飛び乗り、彼女のそばに近づいた。そっと手を伸ばしてきて頭を撫でてくれる。優しい愛撫に私もついウトウトとしてしまう。穏やかな春の陽気の中、こんな日々がいつまでも続けばいいと思いながら私は浅い眠りについた。
しかし、そんな平和な日常はいつまでも続かなかった。
という展開になったら物語として面白かっただろう。
冒頭にも述べたとおり、この家に変わった出来事は何もない。無だ! ムは無を満喫している! 何も事件らしい事件は起きないし毎日同じことの繰り返し。飯を食ってにゃあにゃあ鳴いて主人には邪魔者扱いされ婦人には針で刺されないように距離をおいてたまに帰ってくる長男にボロ雑巾のように扱われて妹君に癒やされる毎日だ。私はこのまま平穏な日々を送るだけの生涯で終わるのだろうか……!
――後に分かったことだが、この家の主人はこの辺り一帯を治める領主で、小さい領地ながら特産品を作り出し、商人にも引け目を感じない交渉をして利益を出している優秀な人らしい。私が婦人に針で刺された時、婦人は治癒の魔法を使ってこっそりと傷を治してくれていたらしい。妹君は病弱気味で、ずっとふさぎ込んでいたようだが私が飼われ始めてからは少しずつ明るさを取り戻していたらしい。そんな妹君の病を治すため、長男は都市に赴いて学業や武芸に励んでいたらしい。何もないと思っていた日常だったが、私の知らないところでいろいろと起こっていたらしい。全部! 私を差し置いて! 猫だから!!
こんな私の転機が訪れるのはまだしばらく先の話である。私はムです。よろしくおねがいします。
なろうの異世界系作品って、どんなトンデモ設定入れてもあまり惹かれないというか、反面引かれるというか、そういうところありますよね。そういうところやぞ!