牡丹と追憶の神隠し
冬の空気が残る寒い日と、暖かな春の気配が感じられる日が不規則に訪れる頃。まだ桜前線ははるか遠い、暦ばかりの春。
宮守 鈴太郎は、近隣の墓地を訪れていた。ここには、鈴太郎の大切な親友が眠っている。
もうずいぶん昔から、年に数度ここに来るのが鈴太郎の習慣となっていた。彼は、若くして亡くなってしまったからだ。だが彼を不幸だったのは思わない。未練はあっただろうが、彼自身も自分を不幸だなどとは思っていなかった。
「あら、鈴太郎。来ていたのね」
「小夜。お前こそ、まだ昼なのに良いのか?」
「ええ、まあ。彼がいた頃は、彼の時間に合わせていたでしょう? だからつい……、その頃の癖よ」
小夜は猫又だ。今でこそセーラー服の少女の姿だが、れっきとしたあやかしだ。鈴太郎とも数十年来の仲である。
猫又とは普通の猫が長く生きるうちに、妖力を身に付けたあやかしだ。小夜も、彼以外の人間と過ごしたこともあるのだろうか。人の時間に合わせるのに慣れている。
それだけでなく、墓前で故人を偲ぶなど、人に近い考え方をしている。こうして春と秋の彼岸の時期に、彼女とここで会うことも少なくない。
「鈴太郎、遅くなって悪ィな。ン? 小夜も一緒かよ」
「貴方も来たのね、白菊」
からころと下駄の足音と共に現れたのは、着物姿の青年だった。鈴太郎と待ち合わせをしていたのだ。
狐面の付喪神である彼は、顔にいつも狐面を着けている。白狐に朱色の模様が入ったものだ。その面で表情こそ見えないが、親しければ感情は察せる。
白菊は、彼を慕い彼に慕われた、晩年の彼と最も距離の近しい存在だった。彼が亡くなった頃に一度眠りにつき、最近また目覚めた。
「鈴太郎に誘われた。今まで来れなかったから、アイツ怒ってるかな」
「どうかしら。案外、私達がそろっているから喜んでいるかも、と思うわ。あの子、賑やかなのが好きだったでしょう」
「寂しがりだったからな。いつも、まわりに誰かがいたからだろうな」
彼の元には、あやかしたちが訪ねることが多かった。示し合わせる訳でもないのに、彼の家で会う者もいた。家族には疎まれていたが、一人ではないから恵まれていると、よく口にしていた。
現に、彼を慕う者たちがこんなにも集まっている。彼が不幸だったと、誰に言えるだろうか。
「皆さんおそろいなのですね。ご無沙汰しております」
「美宮……か? 確かに、久しぶりだな」
「はい、美宮ですよ。鈴太郎さん」
やって来たのは無地だが華やかな色の、着物姿の古風な女性だ。人で言えば二十代前半だが、彼女もやはりあやかしだった。
美宮は迷い家というあやかしで、名乗っている名は彼がつけたものだ。そして、鈴太郎が彼と共に出会った初めてのあやかしでもあった。
「俺たちがお前と出会ったのも、こんな季節だったか」
「ええ、そうですね。この皆さんでお話ししていると、なんだか思い出しますね」
「なんだよ、アイツのことか? 鈴太郎、教えろよ」
「ああ」
白菊にせがまれて、鈴太郎は昔語りを始める。
それは、数十年も前のことだ。十代も半ばだっただろうか。まだ鈴太郎が彼――初瀬 菊緒に託され、あやかしとの交渉人になる前のこと。
*
もうすぐ田畑の雪も溶けるだろうか。春は気配ばかりで、まだ季節の移ろいを実感できない日が続く。
学校帰りの鈴太郎と菊緒は、町の図書館に寄り道をしていた。
菊緒は読書を好む。病弱で、あまり外に出られないからだろう。だが彼に卑屈なところはなく、人との関わりをむしろ歓迎している。なんとなく気が合い、共に過ごすことの多かった幼馴染みは、今となっては親友と呼べる間柄になっている。
「なあ、鈴太郎」
「ん、どうした?」
必要以上の小声に呼ばれ、菊緒に近寄る。いたずらっ子のような表情だ。凛とした雰囲気の彼にしては珍しい。
「明日の放課後だが、出掛けないか?」
「どこに用事があるんだ?」
「隣町だ。あやかしの、な」
「は? あやかし?」
耳を疑うが、菊緒は根拠のない話はしない。それにしても唐突だ。
理由を聞いてみると、菊緒は手元の本を引き寄せた。よく見ると古ぼけていた。このあたりの地域の伝承を記した本らしい。
菊緒は手慣れた様子で、とあるページを開いた。
「なんだ? 神隠し?」
「そうだ。大衆向けに、ある程度脚色されているだろうがな。あとは……ここだ」
「異類婚姻憚か。菊緒、何が言いたいんだ?」
すぐには答えず、菊緒は鞄の中から別の本を取り出した。薄く、文字も手書きだ。出版されたものではないのだろう。
しかし、やけに準備が良い。菊緒は最初から、今日この話をするつもりだったのか。
「うちの離れにあった。まるで、隠すようにな」
「お前……。あそこを探検半分に出入りするの、止めておけって言っただろう。埃で発作でも起こしたらどうするんだ」
「大したことにはならなかった」
「時すでに遅し、か。お前なあ……!」
「話の腰を折るな。これは何代前かは知らんが、うちの先祖が書いたものらしい。あやかしとの『交渉人』としてな」
「『交渉人』?」
耳慣れない言葉だ。いや、その単語は知っているが、新しい用法で使われたような気分だった。
窓の外で、どさりと雪の落ちる音がした。昨夜急に降ったものだろう。鈴太郎にはそれが、自分の中で何かの常識が壊れた音のように感じられた。
「昔から、この町のすぐ近くにはあやかしがいたらしい。人間の町で騒ぎを起こすあやかしに対し、人間側の代表として意見を述べる役割が、『交渉人』とあるな」
菊緒のたおやかな指が、墨で書かれた手書きの文字をなぞる。いつもは理知的な瞳は、好奇心に煌めいていた。
案外、行動派の彼だ。鈴太郎が止めたところで、一人で動いてしまうだろう。ならば、ついていた方がまだいい。
「それで? お前はどうしたいんだ?」
「ついてきて、くれるのか」
「自分から誘っただろ」
「そうだな。……俺は、あやかしに会ってみたい」
ふと、彼が『あちら側』に連れ去られてしまうような気がした。
凛としているが儚げな雰囲気を纏う、病弱な幼馴染み。鈴太郎と同じで、昔からあやかしを視ることができた。それ故か家族に疎まれ、心を許せる友人も鈴太郎くらいだという。
そんな菊緒がこちら側に居場所がないと思ってしまうのは、ありえることなのかもしれない。
「お前……」
「おかしなことなんて考えていないぞ。ただ、興味があるだけだ」
「なら、いいが。今日はここまでにするか。帰るか、菊緒」
「そうだな」
並んで歩く帰り道。冬の名残が朝夕には色濃くあって、日も短い。薄暗い夜の始まりに影がよぎった気がして、鈴太郎は逢魔ヶ時という言葉を思い出したのだった。
翌日、放課後。
校門近くで、菊緒が鈴太郎を待っていた。軽く咳き込みつつ人待ち顔をしていた彼は、鈴太郎をみつけてふわりと微笑んだ。
「鈴太郎」
「おう。それにしても、体調が良くないのか? 何だったら別の日にするか?」
「平気だ、問題ない。行こう、鈴太郎」
先導するように、菊緒の方が前を歩く。図書館の本や離れの資料などで、あやかしの町があるという場所の目星がついているらしい。
あやかしは普段、常世と呼ばれる彼らの領域にある町で暮らしている。だが時折、人間の町に降りてくることがある。その通り道が、すぐ近くの山にあるのだと菊緒は語った。
彼には好奇心旺盛なところがある。どこかゆったりしたペースも、意思の強さも、鈴太郎には好ましく思える。
だからだろうか。こうして結局は菊緒に付き合うのは。
例の山は、あまり高くはないが広い。人が使う道も通っている程度には身近だ。
そんな山に入ってそれなりに時間が過ぎた。陽は沈む直前で、眩いばかりのオレンジに強く煌めいている。
「なあ、菊緒。これから暗くなるぞ」
「ああ。逢魔ヶ時が良いんだ。それに、明日は休日だから問題ない」
「それでも、遅くならないうちに帰るからな」
「わかっている」
あやかしが視える者ならば、通り道もみつけられるのではないか。菊緒はそう推測した。確かに奥へ向かう程、異界の気配が色濃くなっていくのを鈴太郎も感じている。
しかし、まだ何もみつけられていなかった。ここから先、さらに足場が悪くなる。日暮れも近く、一度帰った方がいいのではないだろうか。
「なあ」
「……っ。どうした、鈴太郎」
掠れた声に違和感を覚えて振り返ると、菊緒は胸を押さえて木に寄りかかっていた。肩が大きく上下し、呼吸は不規則だ。本格的に体調が悪くなってきたようだ。
鈴太郎が駆け寄ろうとした瞬間、ずるりと菊緒の背が滑った。バランスを崩し、彼の身体が傾ぐ。落ちていく先は斜面だ。
「菊緒っ!」
咄嗟に手を伸ばし、菊緒を抱え込む。落ちるのは避けられない。それならば少しでも、彼を守らねば。鈴太郎の方が頑丈だ。多少は耐えられるだろう。
菊緒を庇ったまま、坂を転げ落ちていく。石や枝が身体に当たる。
斜面が比較的緩やかだったのは、不幸中の幸いだった。長い距離を落ちたものの、深い傷はない。
「菊緒、大丈夫か?」
「う……」
先に鈴太郎が身体を起こす。制服は泥で汚れ、細かい傷だらけだが、それより菊緒だ。確認するも、彼に外傷は見当たらなかった。
だが菊緒は、いつまで経っても起き上がらない。
「菊緒?」
「鈴、太郎。く……っ」
「発作か!?」
「おそ、らく……。は……っぐ。う、うぅ!」
うずくまったまま、菊緒はきつく胸元を掴む。少しでも酸素を取り込もうと繰り返される呼吸は、怪しげにひゅうひゅうと音をたてた。
「あぁ……、かはっ。ぇほ、えほ……」
「薬は……っ!?」
こういうのは初めてではない。いつもは菊緒の制服の胸ポケットにしまわれているはずの薬を探す。
指を突っ込むだけで底に届く、小さなポケット。探っても薬はみつからなかった。他も同じだ。
先程、斜面を転がり落ちた時に失くしたのだ。学生服のポケットというのは、意外と物が落ちやすい。思い当たった可能性にぞっとする。
「鈴太郎。すま、ない……」
かすかな声で、菊緒が謝る。そしてそのまま気を失ってしまった。
変わらず呼吸は危うげだ。時折途切れかけては、苦しげに咳き込む。
「お前が謝らなきゃならないことなんて、何もないだろう。いつも、いつだって……」
言葉は今の菊緒には届かず、返事も返ってはこない。
とにかくと、鈴太郎は辺りを見回した。帰り道はわからない。山でやみくもに歩けば、簡単に迷う。
この状況で、二人とも無事に帰れるだろうか。とにかく菊緒だけでも、なんとかしてやらなければ。せめて休ませることができれば。
だがこんな状態の彼を置いては、探索に行くこともためらわれる。
「あの、どうされたのですか?」
「誰だ!?」
不意に、後ろから声がした。足音などそれほど聞こえなかった。まるで、近くに突然現れたかのような。
振り返ると、そこにいたのは鈴太郎と菊緒より年上の女性に見えた。しかし纏っている気配は、あやかしのそれだ。
だが敵意は感じられず、着物姿で穏やかな様子だった。大和撫子という言葉がよく似合う。
「お困りの様子でしたので、つい……。もしかしたら、お力になれるかもしれません」
「お前、何のあやかしだ?」
「人々には、迷い家と呼ばれております。ご存じでしょうか」
警戒を滲ませる鈴太郎に対し、彼女は物腰柔らかに答えた。あやかしとはいえ、全てが人間に害をなすわけではない。
迷い家という名には、聞き覚えがあった。菊緒はあやかしの伝承に興味を持っていて、鈴太郎もよくそれを調べるのに付き合った。その中で見知った名の一つだろう。
「確か、人気のない場所に不意に現れる家屋、だったか」
「ええ、その通りです。今は動けるよう人の姿ですが、本来は家です」
「ならば、頼む。こいつを休ませてやりたい」
「はい、わかりました」
すぐ目の前に家屋が現れた。こじんまりとしているが、手入れの行き届いた家だ。
未だ意識を失っている菊緒を抱き上げて中に入らせてもらう。数歩前を歩く彼女は、気にかけるようによく振り返る。良い奴だ。芝居ではここまではしない。
「居間なら囲炉裏がありますから、そちらへどうぞ」
「助かる」
暗くなったばかりとはいえ、辺りはすっかり冷えていた。まだ春は来ていないのだ。
この寒さは今弱っている菊緒には致命的であり、鈴太郎でさえ湿った制服に凍える。
「火は入っていますから。お布団と、お着替えもご用意しますね」
「ああ。しかし迷い家というあやかしは、姿を見せないんじゃなかったか?」
「ええ、本来は。でもお待ちしているだけでは、貴方方とお会いできなかったでしょう?」
「まさか、わざわざ俺たちを助けるために?」
「迷い家というあやかしの性分でしょうか。放っておこうとは、思いませんでした」
それに、と彼女は付け足す。
「人の記憶からなくなれば、あやかしは消えてしまう。だから、覚えていて下されば、それだけで良いです」
「そうか」
優しげな微笑みを浮かべる彼女は、とても鈴太郎たちに害をなすようには見えないのだった。
迷い家の彼女が持ってきてくれた着替えは、着物だった。最近はもっぱら洋装だが、着物にも慣れている。
その間に彼女は、菊緒についた汚れを落とす。怪我はなさそうだとの言葉に、鈴太郎は胸を撫で下ろした。
「貴方のお怪我は、手当てして差し上げなくては」
「え? ああ、すまないな。頼む」
必死だったので忘れていたが、意識すると傷が痛みだした。
一つひとつは、大したことはない。だが、背中などは届かない。彼女に任せることにする。
手当てが終わる頃、菊緒が目を覚ました。彼の着替えは鈴太郎が済ませてある。
しかし、菊緒はそんな自分の状況よりも先に、辺りを見回した。発作のせいか寝起きのせいか、その動作は緩慢だ。
「鈴太郎、どこだ……?」
自分より鈴太郎を案じるお人好しさに、思わず頬が緩む。菊緒らしい。
「ここだ。お前は? 身体はもう落ち着いたか?」
「大丈夫だ。いや、そんなことはどうでも良い。鈴太郎こそ、俺を庇っただろう。怪我は?」
「俺も大したことない。……それから、彼女は俺たちを助けてくれたあやかしだ」
起き上がろうとする菊緒を支え、彼女を紹介する。背から伝わる呼吸は落ち着いている。無理はしていないようだ。
「迷い家、か? ありがとう、助かった」
「いいえ。大事に至らず、何よりです」
「名前は? お前のことを、覚えていたいのだが」
「名前、ですか。すみません。持っていないのです」
名前のことは、鈴太郎も失念していた。彼女は名乗らなかった。
「では、『みや』と呼ぼう。美しい宮、という字でどうだ?」
「まあ。そんなに素敵な名前を頂けるなんて、うれしいです」
彼女――美宮は言葉通りうれしそうに頬を染めた。その様子は、人間とさほど変わらないように鈴太郎には見える。
「ええと、その……。食事の支度をしてきますね。すぐに済みますから」
照れたのだろうか。美宮はぱたぱたと台所の方へ向かった。頬が緩んでいた。
迷い家というあやかしとして認識されるよりも、個として対等に向き合ってもらえたことがうれしいのだろう。
名をつけた菊緒は、そこまでわかっていたのだろう。彼は、寂しさに寄り添える優しさを持っている。彼の境遇がそうさせるのだろうが、彼の美点だ。
「なあ、鈴太郎。あやかしにも良いモノはいるだろう?」
「そうだな。少なくとも、彼女はな」
唐突に、縁側らしき方向から音がした。とすんという軽い音だ。
「迷い家? こちらの姿でいるのは珍しいわね。上がらせてもらうわよ」
障子の戸が開いた。二人のいる部屋に入ってきたのは、一匹の黒猫だった。
夜のような黒い毛並み、金色の瞳が闇に妖しく輝く。しなやかなしっぽが二つに分かれているその猫は、猫又なのだろう。
「春なんて暦の上だけね。まだ寒い日が続くもの。こういう夜は、家の貴女の中が一番ね」
「恐縮です。ところで猫又さん。名前を頂いたので、今日からは美宮と呼んで下さいな」
「あら、変わった人間もいたものね。つまりこの二人は、私たちのことも視えているわけね」
そこで初めて、黒猫が二人を見る。視られているのには気付いていただろう。美宮に話しかけつつ、片耳はこちらを向いていたからだ。
警戒ではなく、注意を払っていただけだ。人間など脅威にもならないのだろう。
「初瀬 菊緒という。良ければ、触らせてくれないか」
「私はあやかしよ? 警戒しなくていいの?」
「あやかしでも、ここまで猫と近付くのは初めてなんだ」
手を差し出す菊緒に、黒猫はゆっくりと歩み寄る。身体は小さくも、誇り高い表情は猫らしい。
ふんふんと小さく鼻を鳴らし、頬をすりつける。
「猫とは、暖かいものなんだな」
「貴方の手は心地いいわね」
「そうなのか。お前は、可愛いな」
「ありがとう、よく言われるわ」
黒猫は機嫌良く喉を鳴らす。まんざらでもないらしい。布団越しに菊緒の膝に乗り、背を撫でさせる。
「鈴太郎。猫は可愛いし、触れると暖かい。これは楽しいな」
「良かったな」
身体のことや家庭環境で、何かと制限されている菊緒にとっては、こんな経験でも貴重なのだ。
仮にも付き合いの長い幼馴染みである鈴太郎には、それがよくわかる。子供のように無防備に、菊緒は笑う。そんな表情を見られただけでも、今日ここに来て良かったと思えた。
「でも気に入ったわ、貴方のこと。良ければ、私にも名前をくれる?」
「お前も名がないのか? それはあやかしには多いのか?」
鈴太郎は、思わず口を挟む。菊緒に感化されているのかもしれない。いつしか鈴太郎も、あやかしに興味が湧いていた。
「いいえ、私はいくつも名があるわ。普通の猫として、飼い主に貰ったものが。でもその名は使わない。あの人たちとの思い出そのものだもの」
「一途なんだな。それほどまでに想ってもらえるのならば、きっと彼らは幸せだ」
「情け深い子。貴方に想われた相手は、きっと貴方を大切に想わずにはいられないわね」
黒猫は喉を鳴らし、菊緒にすり寄る。身体は小さくとも、長く生きたモノらしい雰囲気を纏っていた。まるで、年下の兄弟を慈しむかのように、菊緒に寄り添う。
「ありがとう。……小夜」
「あら、良い名ね。こちらこそありがとう」
「皆さん、夕飯の支度が出来ましたよ」
美宮の柔らかな声が、夕餉の良い香りを意識させる。鈴太郎も手伝い、いつのまにか現れた大きなちゃぶ台に食器を配置する。
菊緒や、人の姿になった小夜が茶碗などを用意する。もはやそのくらいでは驚かない。しかも、美宮と小夜は人間ですらないのに、どこか家族のような空気で何故か落ち着く。
「確認させてもらうが、これは浮世の食べ物か?」
「もちろんです。お二方の町には、買い物に行くことがありまして、その時に買ったものですから」
「菊緒、それが何か重要なのか?」
「貴方はこういうのに疎いようね。黄泉戸契よ」
黄泉戸契は、日本神話である古事記に由来を持つ。死んでしまったイザナミノミコトは、迎えに来た夫のイザナギノミコトに対し、黄泉の国の物を口にしたので帰れないと告げるのだ。
異界の物を口にすれば、元の世界には帰れなくなるという法則があるらしい。
「損にはならないでしょうから、覚えておきなさい」
「ああ、わかった」
その後は、他愛ないようで新鮮な会話を交わしつつ、食事を終えた。
鈴太郎は美宮と食器の片付けをし、菊緒は楽しげに小夜を構っている。ごく当たり前の風景のようだが、人間とあやかしだ。それでも、これほど常識外れでなければ、菊緒は『普通』を過ごせなかったかもしれない。
風呂にまで入らせてもらえば夜も遅くなり、美宮に案内された部屋に向かう。二人分の布団が準備されていた。至れり尽くせりで、旅館のようだ。
枕元の小さな灯りだけが、ほんのわずかに辺りを照らす。夜の冷たい空気は入ってこない。ついてきた小夜が猫の姿で、菊緒の布団に潜りこんだ。
静寂が部屋を満たす。隣からの、かすかな衣擦れの音さえ耳に届く。
「鈴太郎」
小さく静かな声。しかし、その入り交じったさまざまな感情までもが伝わる。
「ん、どうした?」
「俺は、どうしてお前が、ついてきてくれたのかがわからない。あの時庇ってくれたのも、何故今も俺といてくれるのかも」
凪いだ水面を揺らす波紋。そんな印象だった。不安定に揺らいで、静かに響く。
少し離れた布団で、菊緒がこちらを見ていた。迷子の子供のようだ。彼は家族との疎遠な関係に慣れきっているせいか、好意的な感情を受け取るのが不得手だった。だが、それを鈴太郎に向けるのは初めてだ。
闇には誰しも不安になる。非日常と接している現状や、発作という要因も重なればなおさらだろう。
しかし大人びた幼馴染みにも、年相応に幼げな一面はあるらしい。ごく控えめに、菊緒の手が伸ばされて着物の背の生地を掴んでいた。
「俺は……怖い。俺には返せるものが何もない。だから、お前が離れる日が来るのが、怖い」
「そうか」
「すまない……。本当は何が怖いのか、それ以上わからないんだ」
「そうか? 俺は、少しはわかるぞ」
幼馴染みで、親友なのだ。
菊緒は、寂しいのが嫌いだ。それを鈴太郎は知っている。だが家族との距離は遠く、親しい友人も出来ない。病弱な彼の境遇では無理もない。
「だから、お前を置いていかないぞ。親友、だからな」
「何故、お前は俺と親友になってくれたのだろうな。俺は、俺の方が、いつかきっと……」
「菊緒」
置いていくとしたら、きっと菊緒の方だ。昔から、彼は大人にすらなれないかもしれないと言われていた。失くすのならば、最初から近付かないと思って離れた者もいるだろう。
「お前といると、何かと興味深いことが起こる。俺はそれが嫌いじゃない。まあこれは後付けの理由に過ぎないが、関係に理由なんて必要ないだろう?」
「……ありがとう。お前と親友になれて良かったよ、鈴太郎」
「しみじみ言うな。まだ、これからがあるだろう」
「そうだな……」
穏やかな菊緒の寝息を聞きながら、鈴太郎もいつのまにか眠っていたのだった。
翌朝。朝食もご馳走になり、美宮の元を後にした。滑落してわからなくなった帰り道は、途中まで小夜が送ってくれた。
あやかしに助けられた、この経験はずっと覚えているだろう。衝撃的の一言で片付く時間ではなかった。
「何と言うか、新体験の連続だったな。新しい世界でも見てきた気分だ」
「鈴太郎のおかげだ。俺一人では、あのまま死んでいたかもしれないな」
冗談めかして菊緒は言うが、二人であってもその可能性はあった。あやかしに――美宮に会わなければ。
「でもな、鈴太郎。俺は思うんだ」
「なんだ?」
「世界っていうのはきっと、広いのではなく、深いんだよ」
その時の菊緒の表情も、彼の周囲の空気までも。その全てを、忘れることはないだろう。
ふわりと、一陣の風が抜けた。春の気配を感じさせるそばから、消えてゆく。
*
「フーン、そんなことがあったのか。オマエららしいな」
語るうちに時は過ぎ、もう帰るだけだ。菊緒に別れを告げ、春の彼岸の墓参りもこれで終わりだ。
あれからたった数年で、彼は逝ってしまった。こうして来るたび、彼を置いて先に進むことに罪悪感を覚えていたのはいつまでだろう。
今では、彼への近況報告が楽しみだ。菊緒ならば、興味深そうに聞いてくれるだろうと思える。
「またな、菊緒」
名残惜しそうに最後まで残っていた白菊も、そろそろ立ち上がる。
これほど皆に慕われた菊緒が不幸だったとは、誰にも言わせたくない。
「行こうぜ、鈴太郎」
「ああ」
わずかに暖かさを含んだ風が吹く。あの日の空気、そのままに。