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アラサー、リア充から転落しました  作者: おじぃ イラスト:mononofu
9/10

決心

 引き続き波打ち際を二人並んで他愛ないおしゃべりをしながら、一歩ずつ砂の感触を確かめるようにゆっくり進む。徐々に陽が傾いてきて、穏やかな海面を天使の梯子がきらめかせている。幼い頃から何度も見てきた神秘的な光景に、私は十数年ぶりに心奪われた。


 心なしか波音が静かになってきて、鼻腔を抜ける空気はほんわか春の薫りから、冬が残していったメントールのようにひんやり涼やかな味に変わっていた。


 あの泣き濡れた夕方を、いまこの一時いっときが上書きしてゆくのを肌で、胸の奥で、確かに感じていた。


 ちょっと嫌いになってしまったこの場所を、何も知らなかった中学生までの頃みたいに、ううん、それよりもっと好きになってきている。


「中学生の頃、クラスの十何人かで夜光虫やこうちゅうを見に来たよね」


「そういえばそんなこともあったね。陸上部の人たちがサイクリングロードで走り込みをしてて、赤潮あかしおが発生してるから今夜は夜光虫が見られるかもってみんなに云って回って」


「そうそう! 水中の酸素不足を引き起こしたり、お魚さんにとってはあんまり良くない現象だとはわかってるんだけど、きれいだったなぁ」


「だね。あのときのことは僕もよく覚えてる。見ているだけで意識が遠退く感じがしたよ」


「うんうん。みんなでわいわいがやがやしてるのに心ここに在らずで、何を喋ってたかは覚えてない」


 赤潮は水中の栄養過多によりプランクトンが大量発生して、その色で水面が赤く染まる現象。夜になるとその中にいるプランクトンの一種、夜光虫が青く発光して幻想的な光景が広がる。


 わけもなく、敢えて何か理由付けすると青春を謳歌している実感が欲しくて派手に騒いだあの頃に、オシャレしたくてそれを履き違え気取っていたあの頃に、夜光虫は素直な自分を思い出させてくれた。あのひとときだけは思春期独特の奇怪な高揚感から切り離されていたと、それはいまでもハッキリ覚えている。


「そうなんだ。僕にはいつも通り楽しくはしゃいでるように見えたけど、内灘さんも同じ感覚を味わっていたんだね」


「うん、そうみたい。表情は違っても同じことを思ってたり、その逆もあったり、人間って難しいね」


「内灘さんが哲学的なことを言ってる……」


「ふふふ、どういう意味かなっ?」


「いえ、深い意味は」


 ないよ、単純に君をバカな子だと思っていたよと七ツ屋くんは言いたいのかもしれないけれど、そこは私の寛大な心と事実に則り許容しておく。



 ◇◇◇



 恋愛なんて、興味なかった。


 師匠にはかねてよりそろそろ嫁さん貰えとは言われていたものの、僕は蕎麦に夢中でガツガツ女性を捕まえに行こうとは思わない、たまにテレビで話題になる草食系男子という部類だと思っていた。


 生まれてこのかた、恋心を抱いた女性はいま僕の隣で潮風を浴び、髪を掻き分け気持ち良さそうに水平線を眺める彼女、内灘綾乃さん唯一人。


 僕は彼女に、二度目の恋をしたのだ。


 つまるところ僕は恋愛に興味がないわけではなく、内灘さん以外に興味を抱かなかったということになる。


 彼女は中学当時からモテていたから、僕にとっては高嶺の花だったけれど、同時に最も身近な同年代の女性でもあった。


 誰とでも分け隔てなく接せる気さくさが彼女の人気の秘訣。単純ではあるけれど、実はそんな人、そう滅多にいるものではない。彼女は自分の魅力に気付くべきだし、なんなら僕が気付かせたい。


 もしも彼女と共に店を営み、温かな家庭を築けたのならば、それはどんなに幸せだろう。


 蕎麦以外で希望を抱き妄想にふけるなんて経験を、僕は26歳にして初めてしている。



 ◇◇◇



「僕はね、あの頃みたいに来る人みんなが幸せな気分になれるお店を開きたいんだ」


「うん! 美味しいお蕎麦を食べてもらって、幸せな気分にもなってもらうのが夢って言ってたよね!」


「そうだね、あの頃みたいな雰囲気のお店を開きたい。子どもの頃の僕にとって、知らない人は口も開かずみんな疲れ切ったイメージだった。でもお店に来るお客さんは、来店当初は疲れ顔でも、帰るときは笑顔になってた。そんな力のあるおじいちゃんとおばあちゃんは凄い人なんだなって、漠然と感じていたよ」


 うん、うんと、私は相槌を打ちながら、七ツ屋くんの話を聞いている。なぜだか優しい気持ちになって自然に笑みが浮かび、これまでずっと無理をしていた自分に気付いたりもした。


「徳を積んで、美味しい蕎麦を打てるように修行して……。もちろんそれは一番大切で、僕は蕎麦で師匠を越えたい。でもこの時代にお店を開くにはそれだけじゃなくて、他にも必要なことが山ほどあると思うんだ」


「例えば?」


「例えば、大前提として僕は自分の仕事で多くの人を幸せにしたいと思っているけど、蕎麦はアレルギー品目だから、丼ものとかデザートとか、経営に無理のない範囲で幅広いメニューを用意して、蕎麦アレルギーの人にも来てもらいたいっていうのと、あと、エクステリアとインテリアだね」


「あ、そっか! 自分でお店を開くんだから、デザインも自分でするんだね」


「うん。デザイナーさんにお願いする手もあるけど、自分でやってみたいんだ」


「そっかぁ、すごいなぁ。それで、どんなデザインにするの?」


「基本的には和風だけど、あの頃みたいに床はコンクリート、テーブル席とお座敷席っていうそのままのスタイルだと新鮮味がないから、昔のお店をご贔屓にしてくれた人たちも、ご新規さんも親しみやすいように、落ち着いた雰囲気は維持しつつもちょっとおしゃれに、例えばカフェみたいに柱を剥き出しにして開放的にしつつ、個室も設けるとか、照明は和紙で覆ったペンダントライトにしてみたり」


「わーあ、私そういうお店好きかも。昔の雰囲気を踏襲しつつも新しさを取り入れてる感じだね」


「そうだね。こうやって蕎麦っていう一つのジャンルから色んなことを知るきっかけが生まれて、どんどん視野が広がって、それが僕にはとても愉しいんだ」


「ほんとだね。なんだか聞いてる私までワクワクしてきちゃった」


「ほんと? ならもし良かったら、意見とかアイデアを聞かせてほしい。一人だけでやれることには限界があるから」


「いいの!?」


「ぜひ。お礼はするから」


「えっ、いいよいいよそんなの! あっ、でも、なんだかすごく面白そうだから、っていう気持ちはあってもタダでやらせたら周りからブラックだとか批判されちゃうんだっけ?」


「あはは、そうだね。僕もちょっと前まで外食チェーンの正社員だったけど、一定時間を超えると残業代が出ないなんてこともよくあったよ。だから働いてもらった分は対価を払わなきゃっていう気持ちには自ずとなるのかも」


「そっかぁ~、じゃあそれはそれで期待してます!」



 ◇◇◇



 たのしい。なんだかいま、本当に‘愉しい’。七ツ屋くんの夢だけど、未来描写がこんなにワクワクするなんて、いままでなかった。


 海岸から(加山)雄三ゆうぞう通りを抜けて買い物ついでに駅ビルの屋上まで夕焼けを見に来た。


 マンションや住宅の向こうには海が広がり、南東に江ノ島、西側に植樹されたヤシの木の向こうには夕陽に照らされて八本筋の光を成す線路と富士山の影がくっきり浮かび上がる。茅ヶ崎で駅からいちばんアクセスしやすい新定番の絶景スポットで、私もタイミングが合えばよく一人で見に行く。


 近くでは小学生くらいの女の子三人がきゃあきゃあはしゃぎ回っている。あの子たちから見たら私たち、カップルに見えるのかな?


「ここ、きれいだよね」


「うん! それになんだか南の島に来てるみたいでエキゾチックな気分になる!」


「だね。正直、昔はちょっと冴えない街だったのに、いまでは駅をはじめすごくおしゃれな街になった」


「それ私も思った! 異国情緒漂う街だけど昔と変わらず松の木があちこちに生えてたり、和風のお家とかお店も健在で、ずっと茅ヶ崎で育ってきた私には、それがホッとしたりもするの」


 ……。


 言うと、七ツ屋くんは気さくな笑顔から急に真顔になって黙り込んだ。


「あれ? 私、なんか変なこと言った?」


「ううん、内灘さんが的を射たことを言ってびっくりした」


「え、なにそれどういう意味!?」


 七ツ屋くんをいくら問い質しても、う~んと首を傾げたり、なんでだろうとはぐらかすばかりで、真意はわからなかった。こうしたいじりは私にとって決して珍事ではなく、他の友だちからも私が真面目なことを言うとよくこういう反応をされる。


 帰宅後、食事と入浴を済ませた私は小学生時代から愛用の学習机に向かい、狭い自室でA4コピー用紙に色鉛筆を走らせていた。


 入浴中にお店のインテリアがパッと浮かび上がって、実現するか否かは別として、描き出さずにはいられなかった。


 空きスペースにいくつか小物を並べてみたらどうかな? たとえば窓辺に手拭いを敷いておはじきとかビー玉を置いたり、陶器や木製の猫や鳥の人形があってもいいかも。


 ちょっとだけおしゃれだけど、老若男女誰でも気軽に入れるカジュアルな雰囲気のお店でお蕎麦をすすりながら、ゆったりのんびりした時間を過ごす。そこに来ればみんな幸せな気分になれて、デザートだけでも食べに来たくなっちゃうような、そんなお店。


「よし、きょうはここまで」


 夢中になって作業をしていたら3時間も経過していて、午前1時を回っていた。お絵描きは意外と時間がかかるんだなと、そういえば学校の美術の時間で1回2時間の授業を5回、計10時間を費やして一枚の絵を完成させたのを思い出した。


 絵を描き出してそれを具現化し、開店に至るまではどれくらいの時間がかかるのだろう?


 きっと受験や就活よりもずっと長い道のりになるだろう。でもそこへ向かう各駅停車の旅はとてもワクワクして、海から野を越え谷を越え、やがて辿り着く終着点と、そこから始まる新しい物語に、私は胸をときめかさずにいられない。


 人生という旅路のポイントはもう、新しい線路へと切り換わっていた。


 お読みいただき誠にありがとうございます!


 修正したい箇所が多数発生し、一週間ぶりの投稿となりました。


 お楽しみにしていただいている皆さまにおかれましてはお待たせしてしまい大変恐縮です。


 次回はとうとう最終回となります!

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