苦労
せっかくの再会ということでちょっとおしゃべりしようかと、私と七ツ屋くんは駅ビル1階にあるカフェへ入った。ガラス張りの店舗の正面には歩道を挟んで5台くらいが客待ちできる小さなタクシープールがある。
木とレンガと組み合わせた内壁で、見通しよく開放的な店内を暖色の灯りがやさしく照らし、まるでヨーロッパ旅行をしているかのような気分を味わえる、チェーン店でありながら異国情緒漂う茅ヶ崎にぴったりフィットするお洒落なお店。きょうも席はほとんど埋まっている。
「お待たせいたしました。オムライスでございます」
注文した二人分のオムライスをウェイターさんが運んできてくれたとき、「ありがとうございます。いただきます」と、私と七ツ屋くんは電車で席を譲ろうとしたときのように同じタイミングで言葉を発した。
ウェイターさんはゆっくり、けれどスマートにオムライスをそれぞれの前に置き「ごゆっくりどうぞ」と上品なスマイルを残して厨房へ戻っていった。
「外食で‘いただきます’を言う人って、珍しいね」
私と紫音ちゃん以外ではこれまでその場に居合わせた見ず知らずの人々を含め初めて見た。
「そうだね。でもどこで食べるものだって、生産、流通、調理、色んな人の手間を経て、食材の命をいただいているには変わりないから」
「そうだよね! そういうことに感謝していいんだよね!?」
「うん。それは、そうだと思うけど?」
なぜそんな当たり前のこと訊くのかと言わんばかりに、七ツ屋くんは首を傾げている。
でもそれは私にとってそれは自らの価値観を肯定してくれた貴重な返答で、人を見る目がとても厳しい紫音ちゃんじゃなくても感謝するんだ、それは変なことじゃないんだと安心感を与えてくれた。
七ツ屋くんは親子三代料理人という職業柄もあるかもしれないけれど、本来はこれが自然に沸く気持ちなんだと私はずっと秘かに思ってきた。感謝する気持ちに職業なんて関係ないんだ。
オムライスを平らげ、続いて食後のコーヒータイム。
七ツ屋くんのお皿を見て、さすが料理人、きれいに食べるなぁと感心。私も日頃から米粒は当然残さず、ソースなどの調味料もなるべくきれいに取り去るけれど、七ツ屋くんには敵わなかった。
「オムライス、ふわとろで美味しかったね」
「うん、料理は人を幸せにする力があるよ」
言って、七ツ屋くんはコーヒーとセットで添えられる小さなポットに入ったクリームを注ぎスプーンで軽くかき混ぜ、皿の上のカップをつまみ一口飲んだ。私と同じくクリームだけで砂糖は入れないタイプみたい。
「ほんとだね。なんかもう、事務職の自分がすごく小さく見えるよ」
はぁ……。
私いつからこんな後ろ向きになっちゃったんだろう? 社会人になってからかな? さっき電車内で七ツ屋くんに言われた通り、中学時代よりだいぶ落ち込んだ自覚はある。
「事務職だって必要不可欠な仕事だよ? 例えば現場でモノづくりをしている人や、営業で日々外回りをしている人には、事務をしている時間がない。だから事務員さんがいなかったら仕事が回らなくなって組織が破綻しちゃう」
「そうなんだけどさ、なんかもう、みんなそれぞれ頑張ってるのに私だけ苦労を知らずに歳を重ねてしまった感が最近すごくて」
みんな夢に向かって困難なことでも頑張っているのに、私だけどこでもいいからとなんとなく入った会社で指示されるままの日々を過ごしている。それがコンプレックスだと言いたかった。
「苦労? 苦労なんて必要なときに降りかかってくるものだから、わざわざ進んでする必要なんかないんじゃない?」
そう、先ほどの‘いただきます’に続き、周りにいる人の悩みや疑問をさらっと凌駕してゆくのが七ツ屋くん。
「え? でも若いうちの苦労は買ってでもしろとか、よく言うじゃん」
「これは僕の考えに過ぎないけど、それは自分にやりたいことがあれば、かな。内灘さんは単に苦労したいからっていう理由でブラック企業に入ったり、エベレストに登ったりするの?」
「そ、それは……」
在籍中の会社も年功序列制度に甘んじた社内ニートが多いせいかなかなか低賃金だし、現在より悪条件になったら生きていけない。それに私はエベレストどころか富士山にさえ登っていない。丹沢とか他のそんなに高くない山には何度か登ったけれど、けっこうキツかった。
「どうしてもそのブラック企業でやりたいことがあったり、エベレストに登りたいならともかく、やりがいのない苦労なんてただ自分を苦しめるだけで、下手したら心が病んで犯罪に手を染めたり、過労で居眠り運転して事故を起こしたり、死ぬつもりはなかったのに気付いたら線路に飛び降りてたとか、ろくな話聞かないよ」
「うっ、言われてみれば……」
テレビやネットでそういう話をよく目にする。確かに苦労が目的の苦労は良くないね。次につながるものじゃないと。
「僕の苦労だって、父親が夭折(ようせつ=若くして亡くなる)したり蕎麦打ちの技術とかその他諸々、悲しい思いをしたいから父親が死ねばいいとか、修行らしく蕎麦打ちで苦労したいなとか全然思ってないよ。むしろ苦しむ時間があるならどんどん前へ進んで師匠より美味しい蕎麦を打ったり、別の視点から新しいメニューを開発してどんどん発展させたいのが本音。だけど宿命に逆らえなかったり腕が足りないから苦しい思いをした。それだけのことだよ」
と言って七ツ屋くんは刹那の間を置き「でも蕎麦打ちの苦労は苦労と思ってないけどね」と付け足した。大変だけど楽しいんだね。
「だから苦労っていうのは目指すものと真剣に向き合ってるときに自ずとやって来るものだと思うんだ。買ってでもしろって言うのは、自分が夢中になれるものを見付けて、その道に足を踏み入れて、その先で障害物が待ち受けていても乗り越えるか回避する術を身に付けて、多様な経験を積んでゴールしなさいっていう意味だと、僕は捉えてるよ」
「そう、なんだ。あ、でも、ほら、ありふれた職業だからキャリアにはならないじゃん?」
言いながら、自分に嫌気が差していた。本当にやだな私。こうやって粗探しして自他ともに不幸と認めさせたいのかな。
「確かに事務は組織運営に必須だから希少性はない職業だけど、僕なんか確定申告の書類さえまともに書けないし、書類とのにらめっこを朝から晩まで続けたら数日でイヤになると思う。それに何より蕎麦を打つ時間がなくなっちゃう。だから店を開いたらそういうことができる人を雇いたいって思ってるよ。内灘さんは僕や他の誰かにできないことができるんだから、それは立派なキャリアでしょう?」
「うん、そっか、うん」
七ツ屋くんは私の抱えている問題を次から次へとあっさり解消していってくれて、話しているうちに気持ちがバーゲン会場のワゴンのようにどんどん軽くなってゆく。まだ希望が見えたわけではないけれど、一先ずは配送を終えたばかりのトラックのようにスッキリした感じ。
彼と別れた事実もやりがいを感じていない事務員という身分も変わってはいないけれど、悩みもそれを解決する方法も意外とシンプルで、考え方ひとつでけっこう楽になれるんだ。
そういえば彼はこういうこと、教えてくれなかったな……。
きょうも残業だとか、社員さんのつまらない話を延々と聞かされたとか、仕事に関してはほとんどが愚痴の言い合いだった。
お互い未熟なままあまり生産性のない10年間を過ごしてしまったと、とうとう第三者から裏付けられてしまったようだ。
お読みいただき誠にありがとうございます!
創多が修行している蕎麦屋は大人の街、恵比寿。実は恵比寿で友人がうなぎ屋の店長をしており、蕎麦屋にもぴったりな街だなと思いました。
友人と創多の性格は大きく異なりますが、目指すものがあって凛としている点は共通していますね。
私も目指すものに向かって精進せねばと日々焚き付けられています。




