転機
「お先に失礼しま~す」
「はいはいお疲れちゃん。内灘ちゃん、最近仕事早くなったね」
オフィスを出ようとデスクに回転イスを収納して誰を見るわけでもなく部署全員に向けて挨拶をすると、部長から声をかけられた。部長の頭は夜でも眩しい。
「そうなんですよね。なんででしょう」
部長の頭上に設置されている壁掛け時計は7時を回ったところ。ノルマを終える時刻が前月比で30分早まっていた。総勢十名の部署で、私のほかに部長を含めて四名がPCと向かい合ったり書類をチェックしている。
少し前までは自分のノルマが早く終わったら他の人の仕事を手伝う風習があったけれど、だらだらワークに起因する残業を極力減らすためにそれは禁止された。
「なんでかはわからないけど、内灘ちゃんがスキルを上げて、そのやり方を水平展開すれば来年くらいにはプレミアムフライデー導入も夢じゃない! もしかして彼氏でもできた?」
「い、いえ、残念ながら」
ていうか一月前にフラれました……。
プレミアムフライデーが導入されれば月末金曜日は15時退社。ショッピングしたり横浜や鎌倉を散歩するのもいいかも。
あーいいなー、そのときは散財しちゃおうかなー。
「そうか~。まぁ気を付けて帰りなよ」
返事に困ったのでとりあえず「はい、お気遣いありがとうございます! 失礼します!」と言ってオフィスを出た。
確かに、別れてから半月経ったあたりから徐々に頭の冴える日が多くなってきて、特にやり方は変えていないけれど退社時間が早くなっていた。その分残業手当の支給額が減ってしまうから、これからは少し財布の紐をキツくしなければならない。
ということは、プレミアムフライデーが導入されてもショッピングはおあずけか。がっかりしてモチベーションが下がった。
3月17日、金曜日の武蔵小杉。空は瑠璃色で、星は瞬いていてもまだ暗くはなりきっていなかった。
再開発を進めている街は真新しいマンションやショッピングモールが密集し、日々少しずつ進化している。
駅の改札機にはスマートフォンや腕時計をタッチする人が増えつつある中、私は相変わらずお馴染みのICカードをタッチした。
再開発の一環で新造したホームは改札口から遠く、そこまで数分歩く。エスカレーターを上がってホームに出ると、在来線と並行する新幹線電車が新大阪方面へ掠めて行った。
「ふぅ~」
彼は頻繁に訪れる私に対して分が悪そうにしていたけれど、大阪に行くのも楽しかった。
思えばそれが、原因の一つだったかな。彼より高収入だから良かれと思って足しげく通ったけれど、それがプライドを傷付けたなんてこともないとは思わない。そんなこと、気にしなくていいのに。
都会の霞んだ大気に想いを溶かし、ひと息つこうと自販機で小さなペットボトルのホットミルクティーを購入。自販機が私の年代や性別を認識してそれを勧めてきた。液晶パネル式自販機の操作には登場から6年以上が経過した現在でも慣れず、小銭代わりのICカードと飲みたい商品のアイコンをタッチするタイミングが掴めない。
飲みながら茅ヶ崎へは行かない横須賀線の電車を数本見送る。横須賀線でも途中で東海道線に乗り換えれば早く帰れるけれど、今夜は慌ただしく移動するよりちょっとのんびりしたい気分。
この10分くらいで私は千人くらいの顔を見たと思う。そのうち自分の人生を心から幸せと思っている人はどれくらいいるのかな?
通勤ラッシュの真っ只中。ホームの東京寄りには支柱にもたれかかってミルクティーを飲むくらいのスペースはあるけれど、場所によってはそれさえも許されないほど混雑している。飲み終えた頃に到着した湘南新宿ラインに乗り、空いている吊り手を掴む。きょうは痴漢の心配をするほど混雑はしていないけれど、隣に立つ人とは身体がぶつかるか否かきわどいところ。これでも比較的空いている最後部車両に乗っている。
淡く切なげな発車メロディーが流れドアが閉まり、電車は走り出した。
二千人もの人を乗せ、夜闇を切り裂くように颯爽と駆け抜ける快速電車。その軽快で心地よい走行音と近くに立つ男性の音漏れイヤホンによるノイズが混ざる、混沌とした移動空間。ここで過ごす40分は仕事も何もしなくていい自由時間で、私は読書するでもスマホを操作するでもなく、いつもぼんやりしている。そもそも疲れきって何かをする余裕がない。
これからどうしようかな。
ドアの窓ガラスに映る自分の姿は覇気がなく目は虚ろ。もう身も心もクタクタ。
紫音ちゃんに相談してから5日経ち、彼との復縁は諦めたけれど、相変わらず人生の楽しみを見付けられない。
事務職でも業務効率化とか取り組めることはある。でも会社の利益のためだけに生きるのは、なんだか心が満たされない。自分の仕事が誰かに役立っている感じはしないし、お給料は年功序列制でいくら頑張っても上がらない(かといって歩合制になっても高く評価される自信はない)。きっとこのモヤモヤが疲れの原因。
どうしよう、本当にこれからどうしよう?
最近そればかり考えて、頭がパニックになりかけては思考停止している。
『ご乗車ありがとうございましたー、横浜~、よこはまです』
結論が出ないまま十数分が過ぎ、いつの間にか次の駅に到着していた。東京に次ぐ国内人口2番目の大都市とあってどっと人が降りたけれど、入れ替わりで乗ってくる人も多い。それでも乗車率は少し下がって、私は空いていた四人ボックスとドアの間にある二人掛けの座席にゆっくり腰を下ろす。隣には黒い革のコートに身を包んだ同年代くらいで落ち着いた雰囲気の男性が既に座っている。少し細身で優しそうな顔立ちのイケメンだ。
彼もまた、私なんかとは全然違って何かキャリアを持っていそう。
こうして周囲を羨んでも仕方ないか。恋愛に浮かれすぎてこれまで何もしてこなかった私が悪い。
あぁダメだ。私、ほんとダメだ。
考え込んでも仕方ない。とりあえず茅ヶ崎までの30分弱、仕事でオーバーヒートした脳を休ませるために眠ろう。
そう思ってこくりこくりと眠っていたら、からだが傾いて隣のイケメンさんの肩に頭がもたれかかっていると気付いた。それでもイケメンさんは私にひじ打ちせず、ただじっと座っていた。うぅ、ごめんなさい。
電車は思ったほど進んでいなくて、まもなく次の駅、戸塚に到着するところだった。私が眠っていたのは10分弱のようだ。ここまでは快速運転のため一駅約10分と長く、横浜から戸塚までは長いね~と同行者にぼやく人をよく見かける。
戸塚では座席の前に立っていたサラリーマンたちがざっと降りて、車内をよく見渡せるほどまで乗車率が下がった。
するとボックス席で見通しの悪い車内のどこからか腰の曲がったおばあさんがよいこらせとやってきて私の斜め前に立ち、荷棚と座席をつなぐステンレスの棒に掴まった。
この瞬間が、人生の転機となった___。
「「どうぞ」」
わっ、イケメンさんとハモッた! 二人同時に立ち上がるさまは、まるで事前に打ち合わせでもしたかのように揃っていた。
それによって生じた一種の羞恥心を誤魔化すように、お互いふふふと照れ笑い。
「おやおや、息がぴったりだこと。ご親切にありがとねぇ。次で降りるから大丈夫よ。お二人は夫婦さんですか?」
「あっ、いえ、たまたま乗り合わせただけで……」
うわー! なんだか気恥ずかしい! そっかぁ、おばあさんにはこんなイケメンさんと私がカップルに見えるんだ。
「あれ? もしかして内灘さん?」
あれ? どこかで会ったっけ!? 取引先の人かな!?
「えっ!? あっ、はい、そうですけど……?」
あれあれあれ!?
脳内フェイスブックを怒濤の勢いでめくってみても、このイケメンさんが見当たらない。
一度会った人の顔は覚えていますか? と入社試験の面接で訊かれて自信満々に肯定し、いままでも忘れたことはなかったのに、どうしてきょうに限って? しかもこんなイケメンさんなら忘れるはずがない。
思い当たるとしたら、学生時代には太っていた人数名。でも誰だか見当がつかない。
誰だろう、このイケメンさん、誰だろう!?
取引先? ケータイショップの店員さん?
「えーと、七ツ屋です。中学で同じクラスだった」
七ツ屋くん……!
顔を見ても名前を思い出せない私に、七ツ屋くんはやっぱり覚えてないよねと言いたげに苦笑し、名乗ってくれた。
「えっ!? あの七ツ屋くん!?」
「あ、はい、そうです。はははっ」
「あ、ごめんなさい」
いけない、びっくりして車内で大声出しちゃった。乗客たちの怪訝そうな視線と舌打ちの威圧がイヤホンで音漏れさせているボックス席横に立つ男性からシフトして、私に突き刺さった。本人は気付いていないようだけれど、車内の空気はその男性がイヤホンを装着した武蔵小杉駅出発直後からピリピリしているため、余計に怒りを買ってしまった。電車ではこのようなストレスファクターがよくあるけれど、公共の場という自覚を持とうと改めて思った。
お読みいただき誠にありがとうございます!
綾乃が転機を迎えた2017年3月17日は2006年以来の金曜日。その2006年3月17日金曜日は長く湘南にお住まいの方なら覚えていらっしゃるであろう東海道線湘南電車の最終運転日だったりします。
藤沢駅ホームの電車型売店はそれを記念して設置されました。
茅ヶ崎では洋菓子店のサフランさんなどで記念シールを配布するなど地元に愛された電車だったな~と、3月17日は作品進行上好都合な日だっただけですが、思い出に浸りながら描きました。