相談
彼と別れてから約一ヶ月が過ぎた3月12日、日曜日、快晴。東日本や長野の復興をいつもより強く祈る頃。
真新しいグレーの棟と、古いクリーム色の棟。それらが建ち並ぶ団地を貫く通りを吹き抜ける潮風や、歩道に立つ満開の紅梅並木が春の訪れを感じさせる。そこに小鳥のさえずりが合わさって、冬はどこか寂しげだった街が徐々に彩られ希望が芽生える、そんな季節を迎えていた。
だけど私の心はあれからずっと、氷河期のまま。
突然別れを切り出すくらい私が彼に不満を募らせてしまった事実は受けとめながら、ならその都度言ってよ、ただ一方的に別れを告げるではなく、ちゃんと話し合って決めたかった。どうして有無を言わさず窮地に追い込むようなやり方をしたの?
などの堂々めぐりで、ほとんど毎日30分、長くて3時間しか眠っていない。
私は今、近所に住む同い年の幼馴染み、浅野紫音ちゃんと新しくできたショッピングセンターで買い物をした後、その一画にあるカフェテラスでお茶をしている。私はカフェラテ、紫音ちゃんはブラックコーヒー。いずれもホット。
詩音ちゃんとは物心ついたころからよく遊んでいたけれど、社会人になってからは主に彼女が多忙でなかなかスケジュールが合わず、二月間隔くらいで会っている。
カフェはエスカレーターを上がった2階部分にあり、道路を挟んだ向こう側は先日惜しまれつつ閉店した旧ショッピングセンターと広場があり、開放的な景色が広がっている。
あぁ、カフェラテまろやかでホッとする……。
「別れて良かったんじゃない?」
着席してそれぞれカップから一口含んだ直後、紫音ちゃんが口火を切った。
「え?」
思いもよらぬ言葉に、私は戸惑いを隠せない。
「だから、別れて良かったんじゃない?」
別れて、良かった……?
「いやいやだって、10年間も付き合ってきたんだよ!? もうそろそろプロポーズされるんじゃないかな~って思ってたところにだよ!? 喩えるなら四年生の大学駅伝走者がゴールを目の前にタイムアップして完走できなかったくらいの悔しさだよ!?」
フラれて良かったね! みたいなことを言われても、ちっとも良くないよ!? すっごくつらいから、きょうこうして紫音ちゃんにお話を聞いてもらおうと思って来てもらったんだよ!?
「だから、かえって良かったんじゃない? 駅伝のタイムアップはどうしようもないくらい悔しいだろうけど、綾乃は次がある。新しい彼と新しいコースを走ればいい」
「いやいやいやいや! だって私もう26だし、これから新しい出会いなんてないかもだし、彼こそ運命の人だって思ってたから、これから他の人を好きになれるかどうか……」
周りの子はどんどん結婚して、もう子どもがいたりするし……。
「私も26で特に出会いもないけどそれはさておき、彼って乙丸先輩でしょ? ぶっちゃけ私は結婚までは無理だと思ってたよ」
髪の色素が薄く、適度に明るい性格(と自己分析している)の私に対して黒髪でクールな雰囲気の紫音ちゃん。髪がセミロングという以外は共通点があまりなく、物心ついたころからの付き合いじゃなかったら、仲良くなる機会はなかったかもしれない。
幼稚園から大学までずっといっしょだった彼女と高校時代は同じ陸上部に所属していて、彼のこともよく知っている。
「え!? なんで!? 趣味もノリもピッタリなのに!?」
私と彼は漫画好きで、いつも好きな作品についてよく語り合っていた。あぁ、でも彼は少年漫画が好きで、私は少女漫画が好きだから、ちょっと噛み合わない部分はあったかも。
「いや、趣味もノリも今は違うでしょ。それはともかく、乙丸先輩、大学出てから定職に就かなかったじゃん。その時点で結婚まではする気ないのかなって。憶測だけど」
確かに。就職活動はしていたけれど結局はフリーターで落ち着き、居酒屋やコンビニのバイトを掛け持ちしている彼。一方私は武蔵小杉のオフィスで正規雇用の事務員として残業三昧の日々。彼が社会人になってからは私が聞き手、二人とも社会人になったら仕事の愚痴をこぼし合い、つい先月の上旬、別れる一週間前までは互いの傷を舐め合っていた。
「そ、そんなことないよ! あのころはまだ……」
いつか別れようとは、思ってなかったと思う。
「じゃあ仮に綾乃と結婚する気だったとして、現実問題、安定した職に就いてない人との生活は厳しいよ。経済的に。綾乃、子ども欲しいってよく言ってるよね」
「うん、欲しい。子ども好きだもん。でっ、でも、職が不安定でも結婚生活してる人はいっぱいいるよ!? お笑い芸人とか、戦力外通告されたスポーツ選手とか」
言いながらも、確かに私も彼との将来に不安を感じていたと、紫音ちゃんの指摘を内心で認めていた。これといったキャリアのない人が最も就職に有利な新卒ブランドを捨て、今を楽しく生きたいからアルバイト生活って、この先大丈夫かな? と。
「うちの親は離婚したけどね」
「あ、う、うん、ごめんなさい」
そう、紫音ちゃんのお父さんは売れないギタリストで、清掃業者のパート従業員をしているお母さんの収入では古いアパート暮らしでもお父さんまではとても養えず、10年前に離婚した。
「お金がないと心に余裕がなくなって家庭環境が殺伐としたり、そのうえケータイとかゲームとか、他の子が持ってるものを買ってもらえなかったり、しまいには離婚して両親とも生きてるのに家族は二度と揃わない。揃ったとしても雰囲気は良くならない。不満ばかり漏らす不機嫌な親のもとで育った私の心は荒む一方。これ、子どもにとっては本当につらいから、愛があればとか綺麗事じゃなくて、愛があるならその先の将来までちゃんと考えて行動すべきだと私は思う」
わ~、事実に基づいた話だけに正論すぎてぐうの音も出ない。
我が家みたいに一軒家を構えて父方の祖父母と二世帯ほのぼの暮らしているなんて、私にとっては当たり前だけれど、本当はすごく尊くて幸せなことなんだ。
私にもまだまだ、見えていないことがたくさんあるんだな。
私は収入が安定しているけれど、この先何年か彼がフリーターを続けたり、または専業主夫になったとしても、養っていけるほどではない。冷静に考えてみれば、私のふわふわした将来像には無理があったのかもと思い始めてきた。
「それにあの人、綾乃と並んで歩道とか駅ビルの中を歩いてるとき、後ろから追い抜きたい人が行き詰まっても避けなかったじゃん。いつも綾乃が避けてた」
高校時代から交際していた故、部活や登下校で私と彼が並んで歩いているところを紫音ちゃんには何度も見られている。遠征するときは部員全員で電車に乗ったりファミレスで食事をする機会もよくあった。
そういえば外食をしてお店を出るとき、彼が店員さんに「ごちそうさまでした」を言わないのは私も気になっていた。けれど私と紫音ちゃん以外は他の誰も言わなかったし、それが普通だと思っていた。私は店員さんも調理してくれた人も、食材を調達したり育てた人も、食材となりいただいた命にも感謝の気持ちを持っていたいから、必ず言う。
「うん、そうだね。でもそれは私の歩くペースに合わせてくれてたからじゃ」
「だとしても世間から見れば彼女のことしか見てないDQN野郎だし、綾乃のペースに合わせるにしても避けて道を空けるくらいできる。綾乃はそうしてたんだから、乙丸先輩にだってできる。っていうかそれが当たり前。悪いんだけどさ、私は‘あいつ’のこと嫌いだし、10年間も付き合ってた綾乃はよく影響されず変わらないでいてくれたって、正直ホッとしてるよ」
そう、紫音ちゃんは彼のことが嫌い。すっごく嫌い。だから今こうして喋りながら徐々に声色が荒くなっていった。
「だって、私は私だもん」
「なら、あいつもあいつなんだよ。カップルとはいえ両者それぞれの人生があって、あいつは価値観とか色々自分とフィットする人を他に見付けたんじゃない?」
「価値観かぁ……。それはなんとなくズレがあると思ってた」
「そっか。残念だけど諦めて、新しい人を見付けたほうが賢明だと私は思う」
一呼吸置いて、紫音ちゃんは懐かしむように穏やかな笑みを浮かべた。
「それにさ、私はこれまで三人と付き合ってきて、フッたときもフラれたときもいい気分じゃなかったけど、別れとか失恋っていうのはその相手よりもっといい人に巡り会う前兆なんだって気付いた」
「もっといい人に巡り会う前兆?」と、気になることを言った紫音ちゃんに、私は反射的に訊き返した。
「そう。私にも、綾乃にも、これからもっといい出会いが待ってる。失恋したときのショックや喪失感はしばらく続くかもしれないけど、きっとあいつと付き合ってたときには知り得なかったことを知れたり、新しい世界が見えてきて、人生がもっと楽しくなるよ」
「そう、かな?」
失恋は初めてだから、よくわからない。そういうものなのかな? 人生って。音楽でも‘人生は別れと出会いの繰り返し’というフレーズはときどき耳にする。近頃茅ヶ崎出身のミュージシャンが出した楽曲にもそんな感じのフレーズがあった。それらは実体験に基づいて紡がれたのかな?
「まぁ、10年間も付き合ってぽっかり穴が開いたんだから不安だろうけど、綾乃みたいに人柄のいい子なら大丈夫」
「えっ!? 人柄なんか良くないよ!」
人柄がいいっていうのはなんかこう、ぶわっと全身からオーラがにじみ出ていて、いつもニコニコしていて決して怒らなかったり、もうこの世に降臨した神様みたいな!
「あんたLINE終えるとき予告なく切らないじゃん。ときには日を跨いでも話題の続きをするし」
「それは普通だよ! でもそうだとしたら、それに付き合ってくれてる紫音ちゃんもいい子だよ!?」
「私は腹黒いけど、それはともかくとして、確かにお互いそういう面ではお人好しだなって思いながらやり取りしてる」
「紫音ちゃんは腹黒くなんかないよ! 腹黒いっていうのはね、表向きはとても感じが良くて、でも内面ではとんでもないことを考えてたりするから、毒素駄々漏れの紫音ちゃんは全然腹黒くない! もう全身真っ黒だよ!」
あっ……。
「ふふふ、綾乃は本当に素直でいい子だね」
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ、事実だから」と、紫音ちゃんは満面の営業スマイルで私を許してくれた。
素直で正直が私の長所だとは思うけれど、場合によっては考えもの。私はまだまだ幼いのだなと、日頃からコンプレックスを抱いている。
こんな子どもっぽい私を好きになってくれる人なんて、今後現れるのかな?
お読みいただき誠にありがとうございます!
今回はいま茅ヶ崎で注目のエリアを舞台にさせていただきました。
地元の皆さまには作中の場所が何処だか伝わりましたでしょうか?
イオンスタイルで上映されるローカル映画になったらいいな~などと高望みしつつ、今回はこれにて失礼いたします。