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前編

 目の前に、背の高い木がそびえ立っている。見上げると、ぎいい、と鳴いた。

 少し強い風にその身をしならせ、揺れている。てっぺんまで登ることは不可能だ、と瑞樹は思った。

 たぶん、きっと、てっぺんまで登れたならば、空にも手が届くのだろう。ここから木のてっぺんに登るよりは、てっぺんから空を掴むことの方がよほど簡単そうに見えるのだ。

 この木が空を支えているのかもしれない。淀んだ空のせいで、木は重さに喘いでいる。

「黄昏ているのか」

 近くで声が聞こえた。瑞樹は気分を害されたとばかりに顔をしかめ、辺りを見回す。

「ここだよ、ここ」

 瑞樹が再び目の前の木に視線を戻すと、それはいた。黄昏なんて言葉、どうやって知ったのだろう。

「あんたっていつ見ても暇そうね」

 ふうとため息をつきながら瑞樹が言うと、

「失敬な。俺はいつでも忙しい」

 言って忙しさをアピールするように、ぱさりと羽根を広げた。

「それより瑞樹、今日は極上のミミズを見かけなかったか」

 ミミズの形容詞に極上が付くなんて、と瑞樹はげんなりする。いつものことだ。

「貧相なミミズなら見たわ」

 通学路でついミミズを探してしまうのは決してこいつのためではない、と思いたい。極上だ、とか貧相だ、とか平凡ね、なんて感想をミミズに対して抱いてしまうことに毎度毎度落ち込むくらいの常識的感覚は、まだ残っている。

 スズはふんと鼻を鳴らすように、いや鼻なんてどこにあるか分からない。ヘソを曲げたように、いやヘソなんてあるのだろうか。兎にも角にも、不機嫌そうな様子を小さな体でアピールした。

 スズは、雀だ。

「ないよりはましか」

 ちょっくら探してくるわ、とスズは飛び立った。

「三丁目のパン屋さんのそばだったと思うよ」

 お節介にもそう告げると、スズは瑞樹の周りをくるりと飛んで、そっちへ向かって行った。


 スズに出会ったのは、大学に入学した頃だ。もう二ヶ月くらい前になる。

 どこからともなく聞こえる声に、その主を探したが見つからなくて。怒ったスズが顔面に向かって飛んできたので本気で鞄をぶつけそうになった。

 しかし、雀だ。鞄をぶつけたりしたら死んでしまう。

 そう一瞬で判断して避けるに留まったことを、瑞樹は今でも思い出しては、危機一髪だったとひやひやする。

 雀であれば話ができる、というわけではない。どうやらスズだけのようだ。

 人間の顔ですらまともに記憶に留めない瑞樹に、雀の判別ができるわけもなく。声が聞こえても顔面に向かって来られるまではその声の主が分からない、という状況が続いた。

 そもそも、なぜかは分からないがスズと話ができるからといって、スズと関わらないといけない、というわけではないのだ。

「おい、瑞樹」

 今ではもう、スズの声ははっきりと覚えてしまった。それに、

「なんだよ、俺の顔に何か付いてるのか」

 他の雀と同じには見えないのだから、まったく、どうしてくれようか。

「見つかったの」

 苦笑いして尋ねる瑞樹に、スズはニヤリと笑って見せた。

「確かに貧相だったがな。ご馳走様」

 この、雀野郎。

 でも、スズが食べに行ってから帰ってくるまで、この場を動かなかった瑞樹も瑞樹だ。

「瑞樹、前に言ってた野郎とはデートに行ったのか」

 下品な顔で尋ねるスズ。ぽろりと話してしまったことを、瑞樹は後悔した。

「行ったわよ、とりあえずね」

 女友達相手にも恋愛話はあまりしない瑞樹が、なぜこんなことを雀に話しているのだろう。

「どうだった」

 つぶらな瞳をきらきらさせるスズに、無性に腹が立つ。

「どうも何もないわよ」

 同年代はひどく幼稚に思えて仕方がない。ただ一緒にいるという状況が耐えられないのだから、付き合うなんて想像もできない。瑞樹はいつからこんなに恋愛下手になったのだろう。

 待てよ。そういえば、恋愛上手だった記憶はまったくない。

 一緒にいて安心できるような相手がいればいいのだが、それがなかなかいない。緊張するか、時間を持て余すか、とにかく居心地が悪い。そうなるともう、出かけるなら一人で出かけたい。

「スズが人間の男ならよかったのに」

 無意識にぽつりとこぼした。そういえば、スズとは毎日会って話していても飽きないし、居心地もいい。問題は、雀だということだけな気がする。

 その時スズは、雀の癖に豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。


 スズが話しかけてくるのは、たいてい登下校の途中。大学にもなると行きの時間も帰りの時間も日によってまちまちだが、実家の近くを寝ぐらにしているようで、会わないことはまずない。

 だから、貧相なミミズを食べた次の日からしばらく顔を見せないスズに、瑞樹は言い知れぬ不安を感じていた。

 他の動物に怪我させられたり、ましてや食べられたりしていたらどうしよう。

 人間ならよかった、なんて変なことを言ってしまったからだろうか。

 まだ一週間だ。きっと気まぐれにどこか飛び回っているのだ。

 そして、瑞樹のことを忘れてしまったのかもしれない。

 ぐるぐると考えが浮かんでは散っていく。ああ、駄目だ、と首を振って顔を上げた。

 鈍く橙に光る夕日が、目に突き刺さる。じわり、と瞳が潤むのは、きっとそのせいだ。

 今日は五限まで授業があったために、家の最寄駅に着いた頃には、もう夕方だった。フランス語の辞書が入った重い鞄を、撫で肩からずり落ちないように、しっかりと掛け直す。

 ぽろり。

 その反動で瞳から、刺さっていた夕日が溶け出した。

「泣いているのか」

 反射的に瑞樹は、近くの木を見上げた。しかし、心に思い描いた姿はどこにもなかった。

 幻聴とは、相当に落ち込んでいるのだな、と自嘲気味に笑う。

「泣きながら笑うとか気持ち悪い」

 ぴきり、と苛ついた様子で瑞樹は、今度こそ声がした方に向き直る。木がある方とは逆の塀の上に、それはいた。

 茶髪の青年が、しゃがんでいる。

 上の方は赤みがかっているが、毛先は随分と白っぽい茶髪。ふんわりと柔らかそうなそれは、夕日に照らされて、きらきら、ちかちか。

 くりんとまあるいつぶらな瞳。

「スズ」

 掠れた声で、希望を込めて、瑞樹は呟く。

 青年は少し驚いたように瞳を揺らがせると、眩しそうにそれを薄めた。ほうと息を吐き出し、俯いて立ち上がった。

 夕日を浴びて輝くその姿は、滲んだように揺らめいて、あるいはこれも幻想なのかもしれない。

「俺の名前は鈴音だ」

 女っぽくて嫌なんだけどな、と言いながら、塀からすとんと飛び降りる。

「スズ、じゃないの」

 震える声で瑞樹が尋ねると、鈴音という青年は、ふっと微笑んだ。

 しかしすぐに、真面目な表情を貼り付ける。

「まだ、だめか」

 鈴音は自分の掌を見つめながらそう呟く。

「何が」

 だめなの、と尋ねかけて、瑞樹の視界がぐらりと回った気がした。

 鈴音が、歪む。

 もう少しで繋がりは切れる、と声が聞こえた気がした。

 しかしその音は意味に辿り着かず、考えることもできないまま、意識は深く、深く、落ちて行った。

 底まで意識が浮上するに伴い、瞼の裏に光を見る。瑞樹が薄く目を開けると、心配そうに覗き込む母の顔があった。

「ああ、よかった」

 まだぼんやりとしている瑞樹の頭を撫でて、ほっと息を吐く母。

「どうしたの」

 なぜそんなに心配そうなのかが分からず、瑞樹は思わず尋ねる。

 母は、どうしたのって、と呆れたようにため息をついた。

「インターホンが鳴ったのに確認したら誰もいなくて、外に出てみたら玄関の脇であんたが倒れてたのよ」

 何があったの、と聞いてくる母の声は、どこか遠い。瑞樹は、意識が薄れる前を思い出して、窓の外に視線を向ける。夢、だったのだろうか。

 どこに行ってしまったの、スズ。


「よう」

 翌日の夕方、最寄駅を出た途端にスズが瑞樹の肩に乗ってきた。

 あれ、何こいつ。

「元気してたか」

 まるで何もなかったかのように、あっけらかんと尋ねる。

「スズは、鈴音なの」

 どこに行っていたの、と聞きたかったのだが、言葉が途中で迷子になった。

「なんだそれ」

 胡散臭そうなものを見るような顔で、スズは顔をしかめた。本当に、こんな風に表情が分かるくらいに、スズは瑞樹にとって近しい存在になってしまっていた。

 私の憂鬱を返せ、と瑞樹はごちる。

「スズって名前はお前が付けた名前だろうが」

 言いながらも、鈴音、鈴音、とぶつぶつ繰り返す 。記憶を辿っているようだ。

「じゃあやっぱり昨日のは夢か」

 落ち込む瑞樹。どういうことだとスズが覗き込むので、鈴音という男の人に出会う夢の話をする。

 何かを思い出したようにスズは、はっと息を飲んだ。

「瑞樹」

 話がある、と遠く見ながら呟いて、返事を待たずに飛び立つと、ついて来い、と旋回した。

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