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難攻不落の姫君  作者: 野津
序章
1/2

00 堕ちていく身、抱きとめた腕

人種差別的な表現があります。

苦手な方はお引き返しください。

 いかにも柄の悪い男たちが、粗野な笑い声をあげながら水のように安い酒を呷る。

 そんな男たちにしなだれかかる女たちもまた、それに混じって甲高い嬌声をあげる。

 粗悪な煙草と白粉と、少しだけ鼻に突く気だるい阿片の甘いにおいが充満する熱気のこもった、ある意味賑々しいとも言える狭い空間からほんの少しだけ離れたところにずらりと並ぶ小部屋の一室で、むつは取っ手の壊れかけた木の扉を戦々兢々と見つめていた。

 黄色い猿にはもったいないと酷い侮辱の言葉を投げつけられて着させられた服は、頼りない紙切れのように生地が薄く透け、どう見ても色気があるとは思えないむつの貧相な身体の線を、それでも「女」と意識させるほどに、わざとらしいまでに強調させている。

 これは、商売女が男を誘うために着る衣装だ――と、そういった類の知識にほとほとうといむつですら判るほど、あからさまな恰好だった。

 もちろん、ここがどういう場所なのか、理解できないほどもう世間知らずでも子どもでもない。祖国から遠く離れたこの異国の地に流れ着くまでの間に、それはもう数え切れないほど散々な目に遭ってきたのだから当然と言えば当然だ。

 人間の醜いところ、社会の汚いところを身をもって見聞して――正しくは無理やり見聞させられて――すっかり擦れてしまった自分に自己嫌悪しながら、つい戻れない平穏な過去を思い一瞬現実を忘れて遠い眼をする。

 ――が、穏やかな回想はすぐさま破られる。

 突然ガチャガチャと耳障りな音が耳に届き、ぎょっと身構えたむつの前で、ギィッと不愉快な開閉音を立てて腐りかけた木の扉がゆっくりと開いた。

 ああ。

(とうとう堕ちる日がきてしまった…)

 今まで何度も死にたいと願った。死のうと思った。

 でも、自分で自分を傷つけることへの恐怖は消えず、首筋に押し当てた刃も、舌を噛み切ろうと立てた歯も、どれひとつとしてその目的を果たすことはなかった。

 商品代わりに引き渡され、連れて行かれる先々で、ある時は見世物のように、またある時は家畜のように、挙句の果てには道具のように扱われ、尊厳を貶められて。

 なれども死ぬに死ねずズルズルと生を繋ぎ、ついに行き着くところまで来てしまった。



 カツン、と床を叩き、開いた扉の隙間から硬質な黒い革靴の先端が現れる。

 それは、これからこの身に起こるおぞましい行為の象徴。

 決して長くはないだろうこれからの人生の中で、無数にむつの上を通り過ぎていくもの。

 頭部に布を巻いた浅黒い肌の、どう見ても堅気には見えない欲深そうな商人から二束三文の値でこの娼館に売り飛ばされて半月。初潮を終えていることを知られ、貧相な身体つきとこちらでは幼く見られがちな童顔ももはや身を守る楯とはならず、今宵むつは娼婦として初めての客を取らされる。

 ここにくる前までも、さまざまな人間から暴力はしょっちゅう振るわれたが、「女」という性別ゆえの暴行は一度もされたことがなかった。むつにとり、それは最後の砦だった。

 …ただ、この後、その最後の砦すらも跡形もなく打ち砕かれることになるわけだが。

 これから先、完全に闇の世界に堕ちた自分は、見も知らぬ幾人もの異国の男に肌を晒し、好き勝手に身体を暴かれて、身も心も蹂躙されて朽ちていくのだ。

 押し寄せてくる真っ黒な絶望に支配されながらも逃げ場などどこにも持たないむつは、部屋のすみにうずくまり、ぐっと唇を噛みしめて身体を震わせるしかなかった。



 ――立派な革靴の主が、手狭な薄汚い部屋にその全身を引きこんだ。

 まっすぐに絡んだ鷹のように鋭い眼光に、ヒッと喉の奥が引き攣った音をもらす。

 怖かった、譬えようもなく。

 自分よりもはるかに大きな影が、こんなにも恐ろしいものだったとは。

 震える肩を抱き、カタカタと歯を鳴らして、鋭利な碧眼を見上げることしかできない。

 蒼白な顔で、それでも視線をそらせないでいると、男はふっと冷徹そうな口元を緩めた。

「――この娘にしよう」

「へェ、まいどあり」

 まるで、肉屋の店先で希望の部位を申しつけるような、あっけない幕切れだった。

 男の短い一言で商談はまとまり、むつの未来は決まった。

 へこへこと媚びるように揉み手する客引きの男が、ホクホク顔で頷く。

「それじゃあ旦那、部屋に案内しますぜ。なんたって旦那は近衛連隊の大尉サマだ、この店始まって以来の上客に失礼があっちゃぁいけねえと、めいいっぱい支度したんでさァ」

「その必要はない」

「は?」

(……え?)

 正面からばさりと何かをかけられたと思ったら、次の瞬間ふわりと身体が浮いた。

 全身をくるむ手触りのいい上質なそれは、男がつい今しがたまで纏っていた上衣だ。

 鍛えられた腕に抱き上げられたむつは、訳が判らずせわしなく眼をしばたかせた。

 僅かに乱れた、本来綺麗に撫でつけられていたのであろうほつれた金の髪が頬に当たる。

 男が口を開くと、それと一緒に低い声音と吐息が肌を撫でていく。

「このまま連れ帰る。わざわざ部屋を設えてもらっていたようだが、悪かったな」

「い、いえ、それァ別にいいんですけどね。連れ帰るってェと……ひょっとして、身請けするってことですかい?」

「あぁ」

 一体どんな話をしているのだろうか?

 未だ簡単な単語しか覚えておらず、片言でしかしゃべれないほどこの国の言葉に不慣れなむつは、すぐそばで為される会話の内容を断片的にしか聞き取れない。

 二人の様子から、何となく交渉が長引いているらしいのは判るのだが、それだけだ。

 このままずっとやり取りが終わらなければいいと祈りながら、今もって自分を軽々と抱える男をそっと見遣る。

 はっきりとした歳の頃は判らないが、恐らく二十代の半ばは超しているだろう。泰西の人間らしく、彫りの深い洗練された秀麗な造形は、これまで眼にしてきたどの人間よりも優れて見える。身に纏うものひとつ取っても上等な代物で、かろうじて王都の郊外に構えられた店とはいえ、場末の娼館に足を踏み入れるような身分の人間ではないように思えた。

 …いや、よそう。

 この男がどんな人間だろうと、金でむつの身体を買うことに変わりはないのだから。

 そうこうしている間に、会話は終わりへと近づいていた。

「…はァ、わかりやした。店主に伝えてくるんで、ここでちっと待っててくださいや。

 ――しっかし、物好きなかただなァ。本当によろしいんですかい、旦那? いくらカラードとはいえ、こいつァ初物だからそれなりに値が張りますぜ」

「構わん」

「そうですかい。…オレならこんな、いっつも無表情で何考えてんのかサッパリ判んねぇ気味の悪い東洋の貧相なガキ、金積まれて頼まれたってお断りですけどね」

 途端に、深い青色の双眸がギラリと剣呑さを増した。

 客引きの男は慌てて口をつぐみ、下卑た愛想笑いを残してそそくさと部屋を出て行った。

 それから十秒と経たないうちに、むつを雀の涙で競り落とした娼館の主人が小走りでやって来て、己より二回り以上は若いであろう男に幾度も頭を下げ、礼の言葉を繰り返した。



 男は馬車ではなく、自身の馬で娼館に来ていた。

 他に連れが何人かいたようだが、女をはべらせ赤ら顔で酒盛りに興じるむっとした熱気の輪の中に入る気はないらしく、賑わう酒場を見向きもせずに素通りしていった。

 酒も飲まず、行為もせず、むつを腕に抱いたまま楽々と鞍に跨った男は、馬上から硬貨の詰まった袋を投げ渡す。ジャラ、という音が、買われたことを嫌でも実感させる。

 暗澹たる思いで身の上を嘆けば、硬く大きな指先で髪を梳くように頭を撫でられた。

「ッ…!」

 威圧感の消えた声が耳元で何事か囁いてきたが、何を言っているのか皆目判らない。

 労わるように回された腕に力を込められても、身体はますます強張る一方だ。

 男が手綱を握る白馬は酒場や娼館の立ち並ぶ裏通りを離れ、大通りを力強く駆け抜ける。

 どこに連れて行かれるのか。これからどうなってしまうのか。

 ガス灯のともる静かな夜の霧の都、言葉の通じない異国の男に連れられたむつの胸には、ただただ先が見えない不安と自分の身に降りかかった災厄への恐怖だけが巣食っていた。







 これが、通称『王室の番人』ことアークランド伯爵家の次男、サイラス・アークランドとの出会いだった。

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