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アメ降るホシの黎い空  作者: ペーはぁど
7/13

一人目 忘れ物はアメに溶けて

 引き戸を開けるとそこは少しだけ広い踊り場になっていた。小さな窓しかない階段に一気に光が入る。


 屋上につながるドアはそういえばこんな場所だったな、と下り階段を見てようやく思い出した。



「あら、今日も来たのね」



 後ろから声がかかった。

 聞き覚えのある声に振り向くと、いつものように真っ黒な傘を指した少女がそこに立っていた。



「こんばんは。今日もここは雨なんだな」


「ええ、こんばんは。そうね。ここで雨が降らないことなんて滅多にないわ」



 穴の空いた傘は今日もあちこちからポタポタと雨を滴らせている。

 彼女が雨宿りをしようとしないのも、顔がはっきりと見えないのも今日に始まったことではない。


 せめて寒くないようにと上着を渡そうとしたこともあるが、彼女は受け取ってくれなかった。

 以来、彼女が濡れることに関しては気にしないことにした。



「大雨になる日もあったりするのか?」


「そうね。降らない日よりは多いかしら」



 今日もしとしとと降る雨はコンクリートの床一面を海に変えている。

 大雨になれば一段高いこの場所も水に飲まれたりするのだろうか。



「ところで、それは何かしら」


「ん? ああ、この前持ってきていいって言ってただろ?」



 左手を持ち上げるとそこには薄い緑色をした瓶が握られている。

 揺れる液面からちゃぽんと音が聞こえるような気がした。



「お酒かしら?」


「そうだよ。日本酒。そんなに高くないけど、美味かったんからこれにしたんだ」



 ドア横の物置に持っていた瓶を置いた。銘は在里。ドのつくほどマイナーな日本酒だった。

 ただなんとなく、しんみり飲むにはいいんじゃないかと思った銘柄だった。



「ふぅん……私は飲めないし、よくわからないけれど」


「好みの問題だからね。俺にとっていい酒ってだけだから」



 大学時代にはふざけて度数のべらぼうに高い酒に手を出してみたりもしたが、結局は日本酒に落ち着いた。割剤を用意しなくて済むというのも大きな理由だが、味が気に入ったというのが一番大きい。



「今日から飲むつもり?」


「いや、あいにくとグラスを忘れたんだよ」



 酒を持ち込んでいいと言われて舞い上がっていたのかもしれない。しっかりと握られていたのは左手だけで、右手は空っぽ。流石に日本酒を瓶でグビグビと飲むつもりはなかった。



「あら、それは残念ね」


「まったくだよ」



 雨を肴に飲むのは次回以降にお預けのようだ。


 酒瓶を棚においてドアを閉めると一段しかない階段に座り込む。

 一応気を使って靴も靴下も脱いで横においた。ズボンの裾を上げれば足を投げ出しても濡れることはない。

 指の隙間を抜けていく水がなんだかくすぐったかった。



「あら、一応気にするのね」


「そりゃな。明日だって使うんだから」



 今日はまだ平日なのだから靴は明日も使わなければならない。まさかずぶ濡れの靴で会社に行くわけにはいかないのだから。



「明日も、ね……」


「なにかに気になることでもあるのか?」


「いいえ……明日の天気が気になっただけよ」


「ここはほとんど雨なんだろ?」


「そういう意味じゃないわ。ところで、あなたは天気予報は見たのかしら?」


「うん? ああ、明日は雨だってさ」



 今日まではほとんど降らなかったが、明日からは降水確率八十パーセント。折りたたみじゃない傘が必要になりそうだった。


 家の玄関にはいつの間にか増えてしまった傘があるから心配こそしていないが、それでも雨が降る中を出社しないといけないのは億劫としか言いようがない。

 今気を使った靴は多分、明日を終えればびしょ濡れだろう。



「……ここと同じね」


「そうだな。ここと違うのは、仕事をしないといけないことだな」



 まだ今日は週の半ば。明日も明後日も仕事だ。

 考えただけで身体を疲労が襲ってくる気がした。口から漏れるのは特大のため息。見る人が見れば顔をしかめるに違いない。



「辛気臭いじゃない」


「しょうがないだろ。仕事なんて楽しいものじゃないんだからさ」



 生きていくためにはせざるを得ないが、それでも好きに慣れそうにはなかった。


 だからだろう。どうしても頭の中に浮かんでしまう。ここにずっといられたら、と。



「それはダメよ」


「……何も言ってないけど?」



 そうだ。何も口に出しちゃいない。頭をよぎっただけだ。



「このままいられたら、なんて考えたんでしょう?」


「……なんでそう思った?」


「……同じ顔をした人がいたからよ」


「そうか……」



 どうやら同じ気持ちになった誰かがいたらしい。どうせならその人と会ってみたいものだ。



「その人にはどうにかして会えないか?」


「……無理ね。どうしてそんなことを?」


「……いい酒が飲めそうだと思ったんだ」


「やっぱり考えたんじゃない」


「あー……わかるよな」



 確かに今の言葉は暗に認めたも同然だろう。無意識だったとはいえ、そんなの言い訳にもならない。


 誤魔化すように空を見上げると、低いところを雲が流れているのが見えた。

 どこに向かっているのだろうか。流れていく先に月明かりはなく、真っ暗な空が広がっている。

 きっと雲の行く先でも雨が降っていることだろう。



「あなたはちゃんと帰りなさい。明日も仕事、なんでしょう?」


「ああ、そうだよ……残念ながら、な」



 グラスがあれば愚痴ごと酒で飲み込んだというのに、今日は本当にツイてない。

 吐き出されたため息は足元の水面を揺らすことすらできずに消えていった。



「明日の楽しみができたんだから、それで良しとしたら?」


「……そうだな」



 次はグラスを忘れないと心に誓う。

 代わりになにか別のものを忘れそうだと思いながら。

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