一人目 雨を眺める夜
軒下から見上げる空は今日も雨を振らせていた。月も星も見当たらない淋しい夜だが、遠慮がちに振り続ける雨の音は耳に響く痛い音をかき消してくれる。
軒下に座り込んで、眠気が来るまでぼんやり眺めるのがそろそろ日課になりつつあった。
「あら、流れ星を見るにはまだ少し早いわよ?」
「これだけ雨が降ってたら見えないだろ?」
真っ黒な傘をさした彼女が笑う。言葉を交わすようになって日は浅いが、お互いに随分気安くなったものだと思う。からかうような言葉なのに、不思議と怒るような気分にはならなかった。
「それならなんで空なんて見上げてるの?」
「……なんとなく、かな」
少しだけ考えて答えた。勿論、それも本心だ。あくまでそれだけではないというだけで。
「……それは、楽しいのかしら?」
「つまらなくはないかなぁ」
別になんだって良かった。下を見れば息苦しい。目の前にものがあると圧のようななにかに急き立てられるような気がするだけだ。
だから上を見ている。
こんなこと、口にできるはずもなかった。
「……ここはいつもこうなのか?」
「こうってなにが聞きたいの?」
「こんなに静かなのか、って」
雨が降るだけの音はとても静かに感じる。
軒下から落ちる大きめの雫がリズムを刻んで跳ね、雨樋を通って暴れる水の流れがベースのように響いている。だというのに全くうるさくは感じない。そうあって当たり前だと認識させられてしまう。
自然というものを思い知らされるような気がした。
「そうね……人が来ることはそこまで多くないから、大抵はこんな感じかしら」
「……そうか」
会話が途切れる。だが別にそれで良かった。
どれだけ距離があるのがわからない空に目を向けたまま、細く深く息を吐く。肺に流れ込んでくる空気に心臓を鷲掴みにされるような気がした。
「ねえ、せっかくなら私も聞いてもいいかしら」
「……聞くだけなら」
すぐ近くに足音がやってくる。足元を跳ねる雫の音が、先程より大きくなった。
視界の端に映ったビニールには水を弾く力はない。涙のあとのような筋を作っている。
「……ここは、気に入った?」
「そうだなぁ……」
来たくて来ているつもりはなかった。強いて言えば息抜きになっているくらいだが、別にここでなくともいいはずだ。
「まぁ、嫌いじゃないよ」
「そう……気に入ってもらえたなら嬉しいわ」
嫌いではないと思う。だからきっとそれなりには気に入っているのだろう。そう気づくとどこか面映い。
「君はどうなんだ? いつもいるけど、ここが好きなのか?」
「……嫌いじゃないわ」
「そうか、気が合うな」
「……そうね」
会話が途切れる。だがそれが全く苦痛ではない。
ヒーリングミュージックのようにただただ雨が降るだけの空は、なにも考えなくていいと言ってくれているようだ。
気が抜けるといつの間にかまぶたが降りてきている。それに任せてしまいたくもなるが、どうしてもこんな雨の夜をもう少しだけ味わっていたい。
今日はそう思ってしまった。
「なぁ、今度、酒を持ってきてもいいか?」
「ふふふ……それ、本気で言ってる?」
なんとなく口をついて出た言葉は、きっと彼女は思いもよらないものだったのだろう。
思わず漏れた、といった様子の笑い声はとても楽しそうに聞こえた。
正直に言えばそんなに酒が好きだというわけではない。
ただ、こんな夜に飲むのならきっとうまいのだろうとそう思っただけだ。好奇心に負けたとも言える。
「別にいいだろ? きっといい酒が飲めると思うんだ」
「そう。まぁ、別に持ってきていいわよ」
「そうか。ありがとう。なにがいいだろうな……」
どんなものがいいだろう。ビール……はなんとなく違うだろうから日本酒とか焼酎がいいだろうか。それとも琥珀色のウイスキーがいいだろうか。
「ふふふ……いいのよ。だって――」
止まらない妄想と雨音に彼女の声が紛れて聞こえなかった。
だけどこれだけ雨が降っているのだから、そんなのはよくあることだ。それは彼女も承知の上だ。
だから気にせずまた雨を眺める。
彼女はちゃんとこちらを見てくれている。だからきっと今夜の会話はこのくらいだろう。
だんだんと重くなるまぶたに今度は逆らわなかった。
――たまには雨も悪くない。
お読みいただきありがとうございます。
本日、もう一話投稿予定です。
お楽しみいただけますと幸いです。




