一人目 ココはアメのセカイ
「―――ん、―いさん。い――減起き――い?」
だんだんと声が近づいてくる。自分に声をかけているのだろうか。ゆっくりと浮上する意識とともに朧気だった声がはっきりと輪郭を持ち始める。
起床を促す女性の声はどこか聞き覚えがある気がした。職場ではなかったと思う。仕事の関係先の誰かだろうか。頭の中にとめどない思考が次々と浮かんでは弾けて消えていく。
そうしているうちに思考に写り込んできた。
そういえば締め切りが近かったような――
「っ! すみません! すぐに"っ――!?」
弾けるように起床。重力に従って傾いていた首を立て直し、体の違和感を無視して力を入れた。
火事場の馬鹿力だろうか。違和感を押してでも直立する身体はしっかりと床を踏みしめる。それでも足首に走った痛みだけはどうにもならず、顔に力が入った。
(失礼に思われていないといいけど……)
そこまで考えたところで目の前が真っ暗なことに気づく。そういえば家に帰ってきたはずだった。ならば先程の声は誰のものだろうか。ここはどこだろうか。顔に当たる冷たい布のようなものに覚えはない。
「ずいぶんとうなされてたけれど、悪い夢でも見たのかしら?」
少し下の方から声が聞こえた。改めて聞いてみると思っていたより若い声だ。聞き覚えは正直ない。
頭が追いついていかない。何をすれば状況が良くなるのかわからない。今できることは悪い方向に行かないために現状維持を貫くことだけだ。
「いくらここに屋根があるとは言っても、コンクリートに寝てたら体を痛めない? それに、傘に顔を突っ込んでいたら苦しくない?」
顔に当たるひんやりとした感触は少しザラザラとしている。雨水が滴っているのか、耳のあたりは特に冷たかった。
(傘だったのか……変な人だと思われてないといいなぁ……)
「あ、ああ…… すみません」
一歩後ろに下がると気づかなかった段差に足を持っていかれた。あとから思い返せば恐らく寝ているときに座っていた部分だったのだろう。冷静になればわかったはずなのに、このときは全く意識していなかった。
踏ん張ろうとするものの、傾いてしまったバランスを保てない。背中に強い衝撃を受けて肺の中から無理矢理空気が絞り出された。すぐ後ろは壁だったようだ。重力に逆らうことができず、そのまま尻もちをついた。
「っ――げほっ!!?」
背中を打ち付けた痛みにしかめた顔を取り繕いながら視線を上げると、そこには穴だらけの傘を差したセーラー服の少女がいた。
全身ずぶ濡れの彼女はひとつ息をつくと、自分の身を顧みることなくこちらに傘を持たせてくる。
寒くないのだろうか。
目がまだ状況になれないせいか、彼女の顔がぼやけてしまってよく見えない。それでもきっと美人なのだろう。周りに明かりがないにも関わらず、髪を流れる水滴が真珠のように輝いて見えた。
「呼吸できてる?……話せないほど危ない状態?」
「い、いや…そんなことはないよ。大丈夫」
背中や腕にはこれといって問題はない。むしろ先程痛めた足首が一番主張しているくらいだった。捻挫していないといいが。
それにしてもここはどこだろうか。上に広がる真っ暗な空には、帰り道に見た月も星も見当たらない。もしかしたら後ろにある壁の向こうなのかもしれないが、それにしても影すら見えないせいでどこか現実感がなかった。
耳に届く音は水音だけ。投げ出されたズボンからは重さが這い上がり、首筋を冷たさが撫でていく。
「ええっと……傘、ありがとうございます。はじめまして、でよろしいでしょうか?」
ここ最近の忙しさを思い返せば、仕事関係はもとより、プライベートでもこんなに可愛らしい声をした女性の知り合いは覚えがない。寝て過ごすだけの休日では当然かもしれない。悲しいことだが。
「ええ、はじめまして。もういいのかしら」
「はい。幸いにもここは濡れないみたいなので」
傘の柄を彼女に向けて差し出すとあっさりと受け取ってくれた。声色からして彼女は年下だろう。足元はもうどうしようもないが、半ば雨宿りできている状況で傘を受け取っているわけにはいかないだろう。
「すみません。ここがどこなのか聞いてもいいですか? あいにく覚えがなくて……」
「説明してもいいけれど、まずは手当からにしましょう?」
「別にケガは……」
「足首、痛めたでしょう?」
「……少し休めば大丈夫です」
顔をしかめるところはしっかりと見られていたらしい。少し大きめの息をつき、気持ちを入れ替えようと試みる。
情けなさで下がる眉を見られないといいが。
「そう……それならひとまず落ち着くまで休んだらどう? 時間も気にしなくて大丈夫。ここは疲れも痛みも、何もかもを流してくれるわ」
甘い言葉が耳朶をくすぐり、温度を感じない空気が通り過ぎていく。無言になると、二人を覆うのは雨音だけ。
なんとなくだが、この時間は夢なんじゃないかと思った。
日々をこなすことに追われ、ただ時間だけが過ぎていく。そんな感覚。
だから少しだけ頭が休む時間を欲している。だからこんな夢を見ている。
根拠はない。だが、案外直感に近いそれが正解のような気がした。
ここが夢なら時間を気にしたところで仕方ないだろう。こうやって考えている今が何時なのかなんて確かめようもないし、目が覚めるまでどれだけかかるのかもわからないのだから。
「あっ……」
「どうしたのかしら?」
「いや、そういえばスーツがシワにならないかな、と。帰ってきてそのままだったから」
「ああそういう……」
辺りを見回すが帰るときに着ていた上着が見当たらない。今はワイシャツ姿で、腕にかけてもいない。どこに放り投げてしまったのだろうか。
アイロンをかける手間を考えたら、今のうちに軽くでも整えておきたかった。
そこまで考えて、ようやくああこれは夢だったと思い直す。こんなところまで社畜根性を見せなくてもいいだろうに。
「――気にしなくていいんじゃないかしら?」
「えっ?――」
なにを言われたのだろうか。視線をはずしていたせいもあって、本当に目の前の少女が口にしたのか自信が持てない。それほどまでに聞こえた音は雨よりも冷たく、重く、鋭いものだった。
彼女は傘を指していない方の手で口元を隠した。雨音に紛れているが、どうやら笑っているようだった。
「気にしなくていいと言ったの。だって、どうしようもないもの」
「どうしようもない……?」
「ここにいるのだからあちらのことを考えても仕方ないじゃない? 今はつながっていないもの」
「なにをいって……」
つながっていないとはどういうことなのか。言いしれない恐怖が背中を這い回る。
事実を述べているだけだと言わんばかりの熱のこもらない言葉が並べられている。
(どこに迷い込んだ……ここは本当に夢なのか……? この子はいったい何なんだ……?)
「だから、ゆっくり、気が済むまで、休んでいいの」
子供に言い聞かせるように優しい音色が降る。凍りついた思考に沁みる言葉にそのまま任せてしまいたくなる。
そう思ってしまった自分に恐怖した。思考が止まるということが一体どういうことなのか、初めて身をもって知った。
「改めてようこそ、ここはアメのセカイ」
「雨の、世界……?」
軒からはみ出した雫がぽたぽたと音をたて、遠くの方では風と戯れている。雲も星も見当たらない真っ暗な空で雫たちが大空を舞っていた。
雨はどちらかといえば嫌いだ。寒いだけならともかく、濡れてしまえば人に会えなくなる。突然降られるとコンビニかドラッグストアか、とにかく雨を避けるようにして傘を探さないといけない。時間もお金もとられながら、気づけば玄関に立てかけられた傘が五本を数えてしまった。
少なくとも、彼にとって雨が優しいことはなかった。
「誰が言ったのか知らないけれど、ぴったりでしょう? 今ではそう伝えることにしているの」
少女が薄く笑う。
嫌らしさも悍ましさもないはずなのに、今は軒下にいるはずなのに、冷たい雫が背中を伝ったような気がした。
「短い間かもしれないけど、よろしくね? お兄さん?」
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3月中は日に2回くらい、その後は不定期の予定でおります。
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